第1話 裏切られた夜
雨は、刃よりも冷たかった。
石畳に釘のように打ちつける音が、王都の眠りを細かく裂いていく。鐘の音はとっくに止んで、夜番の兵の足音でさえ、今日はやけに遠い。
俺は屋根の端で息をひそめ、黒革の手袋越しに濡れた瓦の温度を計る。滑る。跳ぶには最悪の夜だ。だが、標的にとっても最悪の夜なら、条件は五分と見ていい。
標的は“賢き公”と呼ばれる宰相。表では慈父、裏では反乱の資金源——王国の毒だ。
勇者は今日、城内で祝宴を受けている。魔王軍の砦を落とした褒賞だという。宴席の外で、汚れ仕事を片付けるのはいつも俺の役目。影には影のやり方があり、影にこそ秩序がある。
視界の先、宰相邸の窓に灯がともる。遅い。こんな雨でも書簡は止まらないらしい。ならば行程は変えない。
俺は滑る屋根の稜線を猫のように渡り、庭に張られた警戒糸を二重に跨いだ。火打ちの匂い。見張りは街衛兵ではない。私兵だ。宰相の息がかかっている。無駄口はしない。
四つ数えてから、俺は地面に落ちた。雨の音が、着地の衝撃を飲み込む。
窓枠の桟に钩爪を掛け、板の隙間に薄刃を滑り込ませる。音は出さない。鍵は抵抗ののち、あっけなく崩れた。
「……賊か?」
中から声。思ったより早い。
違う、と答えかけて、俺は喉の奥で言葉をつぶした。賊ではない。だが、影は影の名を口にしない。
薄暗い書斎の奥、ロウソクに照らされた白い顔。宰相は机に手をついたまま、俺の足元へ視線を落とした。濡れた床。足跡は残らない。靴底には吸水布を仕込んである。
「……勇者の犬か」
「違う。俺は、仕事をするだけだ」
宰相は鼻で笑い、引き出しに伸ばした指を、俺の視線に貫かれて止めた。
その一瞬の隙間に、俺は距離を詰める。薄刃が空気を裂き、キャンドルの炎が震えた。
声も、悲鳴も、血の音さえ、すべて雨に砕かれていく。白い顔は壁にもたれ、目だけが猫のように細く笑っていた。
「……遅すぎたな。影の男」
「何に対してだ?」
「君の主の欲。私を殺しても、あの男はもう……」
言葉はそこで途切れた。もう遅い。
俺は血の飛沫が跳ねなかったことを確認し、宰相の指の向きを追う。机の上、封蝋の割られた書簡が一通。差出人——王城。印章は勇者直属の術印。嫌な予感が、濡れた背骨を指で撫でた。
書簡の文面は簡潔だった。
《本夜、闇の賊が宰相邸に侵入し、宰相を暗殺せんとしている。賊は勇者一行の裏切り者、名はクロウ。現場にて討つべし。証人は聖堂。神の加護は真実を見通す》
俺の名が、紙の上で乾いていた。
誰も信じない。ただ、神だけが信じる。そんな文句で、人はいくらでも縛れる。
視線を窓に上げる。雨の幕の向こうに、鉄の靴音が幾筋も重なって近づいてくるのが見えた。早すぎる。書簡は囮か。いいや——これは罠じゃない。準備された劇だ。
宰相の死体から目を離さぬまま、俺は手袋の縁を整えた。落ち着け。呼吸は浅く、動きは細く。
扉が破られ、火の壁が押し寄せる。松明、槍、祈祷。聖堂騎士たちだ。先頭の男は銀の胸甲を光らせ、俺を見つけるより先に、叫んだ。
「——クロウ! お前の罪は神が見ている!」
俺の名前は、堂々と発音された。
奇妙な静けさが、胸の中に降りる。怒りは湧かない。喉は乾かない。あるのは、やっと手の内が見えたという安堵だけだ。
勇者。お前はそこまでして、英雄でありたいのか。
俺はナイフを一つ投げた。火がはぜ、松明が床に落ちる。炎の棚引きを盾に、窓へ走る。
光の矢が背を撫で、聖句が耳を刺す。加護の光は、刃よりも速い。しかし、影には影の道がある。俺は火の煙に己の匂いを紛れさせ、床に転げた松明を蹴り上げて、壁の掛け布に燃え移らせた。
焦げる布の匂いに、聖堂騎士の足が一瞬とまる。
その止まりが、命の差になる。俺は窓枠を壊し、雨の夜へ身を投げた。
◆
王都の路地は、雨が降ると生き物の腹のような匂いをする。石の隙間から蒸気が立ち、古い酒と火薬と海藻の匂いがごった返す。
胸の鼓動は早いのに、心は静かだ。一度、舌で奥歯を押して合図を送る。奥歯の裏に仕込んだ小さな金球が割れ、苦い薬液が喉に落ちる。体温が下がり、外気の冷たさと同調する。追跡者の感覚をすり抜けるための、影の術。
追手は来る。来なければ劇が終わる。
屋根から屋根へ、濡れた世界の線だけを踏んで走る。足裏の感覚が、幼い頃に盗んだパンの温度を思い出させる。影の育ちに美談は要らない。必要なのは、落ちない足と、躊躇わない心だ。
聖堂の鐘が鳴った。遅い。もう十分なほど遅い。
鐘の音が、勇者の掌の上にあることを、王都の全てに知らせる。
俺の名は、今夜を境に、罪の名に変わる。勇者は、神の加護を背に、俺を——“裏切り者”を——討つ英雄になる。
笑えてくる。
英雄の手は、どれほど白いのだろう。誰かに洗わせているのか。それとも、汚れそのものを白と呼ぶのか。
追手の足音が、やっと近づいてきた。屋根の縁で振り返ると、銀の胸甲が三つ、雨に濡れて重く鈍く光っている。
俺は右の袖から細いワイヤーを引き出し、雨樋にくくる。反対の端を煙突に回して固定し、滑車代わりに短剣を通した。
左腕に力を掛け、体を滑らせる。地上に降りる途中、一瞬だけ窓の中の人間の顔が見えた。眠れない夜を抱えた誰か。こちらを見たようで、見なかった。
地面に着くと同時に、ワイヤーを断つ。追手が同じ手を使えなくなる。
裏路地の奥、青い布が一瞬だけ揺れた。合図だ。
俺は濡れた壁に背中をつけ、青布の屋台の陰に滑り込む。
「……生きてたか、クロウ」
声は低く、酒で焼けている。
屋台に座る女は、商人の顔を装っていたが、背中の線は武器の重さを覚えていた。
マーヤ。俺の古い相棒。血の匂いを嫌い、金の匂いを嗅ぎ分ける女。
「宰相は」
「終わった。予定通りに」
「予定外は?」
「俺の名前が、王城の紙に載っていた」
マーヤは目を細め、唇の端だけで笑った。
「勇者の手。ついに本気で切りに来たか」
「切りに来たのは俺だ。あいつは、ただ舞台を用意した」
「舞台?」
「俺という“裏切り者”を討つ、英雄の劇だ」
マーヤは皿の上のナッツを指で弾いた。木の器の底で乾いた音が鳴る。
「逃げる?」
「逃げない。隠れる。しばらくは海風の中で匂いを洗う。……それと」
「それと?」
「見る」
俺は雨の向こうに立つ塔を見上げた。王城の尖塔。祈りの灯が遠くに霞む。
あそこで、勇者は笑う。清い顔で。
あそこで、聖女は祈る。目を閉じて。
あそこで、王は眠る。すべてを知らぬふりで。
「何を」
「勇者が堕ちるのを」
マーヤは、ほんの少しだけ眉を上げた。驚きでも、嘲りでもない。俺の言葉の温度を量る、商人の目。
「お前が堕とすんじゃないのか」
「俺は、もう充分だ。手を汚すまでもない。あいつは自分で落ちていく」
「根拠は?」
「加護は万能じゃない。代償がある。——それに」
「それに?」
「“英雄”は、喝采を浴び続けると、癖になる。癖は、いつか形を壊す」
沈黙。
屋台の布越しに、雨の匂いが濃くなる。遠くで犬が吠える。
マーヤは肩をすくめ、懐から濡れないよう包んでいた小さな包みを取り出した。
「これ。頼まれた通りに仕上げといた。噂を生む石。表から見ればただのガラス、裏から覗けば——」
「真実のように見える嘘」
「二つの真実の間に、丁度良くはさまる嘘だよ」
俺は包みを受け取り、厚手の布の内側にしまった。
噂は刃より鋭い。だが、嘘は使い所を誤れば、自分を斬る。
勇者は、刃の扱いは達者でも、噂の扱いは下手だ。英雄という肩書きは、否定の声を遠ざける。遠ざかった声は、いつか怒号に変わって戻る。
「マーヤ。お前はしばらく王都を離れろ」
「命令か?」
「願いだ。俺を売るなら今が高い。売らないなら、今が一番危ない」
マーヤは笑った。今度は、酒の熱が混じった笑いだ。
「売るくらいなら、とっくに売ってる。お前は高くて、買い手が少ない」
「そうか」
「そうさ。……気をつけな、クロウ」
マーヤは青布をそっと下ろし、屋台はただの屋台に戻った。
俺は背を丸め、雨の縫い目を選んで歩き出す。
王都の川は、城の堀から流れ出て市場を横切り、港へと続く。港の匂いは強い。油、塩、魚、焦げた綱の繊維。そのすべてが、血の匂いを弱めてくれる。
倉庫街の一角に、俺のための隙間がある。壁の石が一つだけ僅かに浅い場所。そこに指を差し込むと、石は軽く前に動き、細い通路が口を開けた。
通路の先、暗い部屋に灯したランプが一つ。
ここが俺の巣だ。情報の巣であり、記録の巣でもある。壁には地図、糸、針、名前、印。
勇者の名前は赤い糸で囲まれている。宰相の名は、今しがた黒で塗りつぶした。
机に座り、濡れた外套を椅子の背に掛ける。
紙を広げ、古い筆を握る。今夜のことを書く。宰相の最期の言葉、聖堂騎士の顔。書簡。書簡に使われていた印。蝋の色。匂い。書記の癖。
記録は、感情を薄める。薄めた感情は、やがて冷たい刃になる。
書き終えると、俺は筆先を布で拭い、窓の外の雨に耳を澄ました。
雨音は、街を洗う。血も、足跡も、噂も、すべてをやがて薄める。
だが、残るものもある。濡れた石の下に沈んでいく古い泥のように。
机の引き出しを開ける。底板のさらに下、木が薄く削られた空洞に、一本の短剣が眠っている。
勇者に渡した——はずの短剣。魔王軍の砦を落とした夜、酒と歓声の中で、俺はそれを奴に預けた。
「お前が持て。俺よりも、華やかな場所に似合う」
奴は笑って受け取った。誇らしげな、純粋な笑みで。
翌朝、短剣は俺の枕元に戻っていた。柄に刻んだ目印だけが違っていた。微細な、でも確かな違い。
あれは、最初の“違和”。俺は見逃さなかった。
笑顔の裏に、初めて影を見た夜。
俺は短剣の柄を撫で、そこに掘られた浅い線の感触を改めて確かめる。
あの時から今日まで、少しずつ、少しずつ、舞台は組まれていったのだ。
宰相の死は、その一幕にすぎない。
灯りを落としかけてから、俺は手を止めた。
扉の向こう、濡れた石を踏む猫のような足音。マーヤではない。
指は自然に刃へ伸び、影は自然に壁へ消える。
扉が二度、静かに叩かれた。
間合いを詰めた俺の前に現れたのは、黒い外套に白の襟。聖句の刺繍。
——聖女の従者。
「クロウ・アーガス殿ですね」
声は低く、抑えられていた。恐れと、使命の混じる声。
俺は刃を見せず、視線だけで応じる。
「聖女——リディア様がお呼びです。……“真実を知りたい”と」
雨が、遠くで途切れた。
劇は思ったより早く、次の幕を欲しているらしい。
「今は行けない。俺は、濡れている」
従者は頷いた。濡れているの意味を、彼は理解する程度の頭を持っていた。
「では、明夜。聖堂の裏庭にて」
扉が閉じ、足音は雨と混ざって消えた。
俺は刃から手を離し、椅子に戻る。背もたれは冷たく、骨に硬かった。
勇者の傍にいる聖女が、真実を求める。
真実は、刃のように人を切る。血は出ないが、魂が裂ける。
それでも求めるなら、彼女は目を開けるだろう。英雄の光の内側にある、影の形を。
灯を落とした。暗闇は、俺の居場所だ。
今夜、俺は決めたのだ。
剣を抜かず、手も汚さず、ただ舞台を整え、観客席で静かに拍手をする。
勇者が自分の足で段を踏み外す、その瞬間まで。
——堕ちる者ほど、美しい音を立てる。
雨はまた細くなり、王都の高みに、薄い月が滲んだ。




