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支那そば一番星

作者: 王牌リウ

俺の城は、カウンターだけの小さな支那そば屋だ。

この街の縮図みてぇな店さ。かつての賑わいはとうの昔に消え、今じゃ錆びたシャッターと、忘れられた夢の残骸が転がってる。客なんて、たかが知れてる。それでも俺は、毎日寸胴に火を入れ、骨を煮込む。他にできることがねえからだ。俺の作る支那そばは、流行りのもんとはちょいと違う。豚骨と鶏ガラを、ただひたすらに煮込んだ、琥珀色のスープ。骨の髄から絞り出したみてぇな濃密な旨味の奥に、ほんのりと魚介の香りが立つ。黄金色の脂の粒が、宝石みてぇに、きらめく。麺は自家製だ。毎朝、小麦の香りが立つ粉を捏ね、叩きつけ、鍛え上げる。少し不揃いで無骨だが、スープを吸い上げても簡単にゃあのびねえ、意地っ張りな、麺だ。


この乾ききった街で、一人だけ妙に目につく客がいた。獣みてぇな目つきの娘だ。あいつはいつもカウンターの隅に座り、黙って支那そばをすする。

あいつはまず、レンゲでそっ…とスープを一口飲む。乾いた喉を、その熱い液体で潤すように。そして、目を伏せたまま、一心不乱に麺を口に運び始める。その姿は、乾いた砂漠でオアシスを見つけた、獣のようだった。あいつにとって、この一杯は生きるための儀式なのかもしれない。この街はいずれ死ぬ。そして、あいつが通う学校も、もうすぐ死ぬ。この街はゆっくりと、だが、確実に破滅に向かっているからな。俺はただ、カウンター越しにその様を眺めながら、支那そばを作り続けるだけだ。


変化の匂いは、いつも、客が連れてくる。

その日、娘は一人じゃなかった。隣には、この街には似つかわしくない、人の良さそうな顔をした男が座っていた。男は俺の支那そばを前にすると、ほう、と感嘆の声を漏らした。奴はまずスープを一口味わい、そしてゆっくりと目を開けた。


「……すごいな。荒々しいのに、どこか、優しい味がする」


そして、何かを確かめるように、丁寧に麺をすすり始めた。


男が来てから、あの娘たちの動きが変わった。娘の目に、迷い以外の、生き生きとした色が宿り始めたんだ。だが、俺は、何か良からぬことが起きるんじゃないかと、いつまでもその男を訝しんでいた。


「……人を、襲ってきた」


ある日の昼下がり、娘がぽつりと呟いた。スープをすする合間の、独り言みてぇな声だった。冗談にしちゃ、目が本気だ。俺は聞こえねえふりをして、丼を磨いた。この街は荒んでいるからな。ケンカなんてのは日常の風景のひとつでしかない。だが、話を聞くと、先日のあの男のために、ハジキで人を襲ったという。それなら話は別だ。あいつは、とうに引き返せねえ橋を渡り始めていたんだ。


それから、街は騒がしくなった。チンピラどもが、あの娘たちの周りを嗅ぎ回り始めた。ある晩、娘のツレが一人で駆け込んできた。腕には包帯が巻かれている。


「……いつもの」


俺は黙って麺を茹でた。鶏油の浮いた、透き通ったスープの一杯だ。


「熱っ…!」


小さく悪態をつきながら、黒髪をかき上げて麺をすする。その口元は、不満を言う割には緩んでいる。スープの熱さが、あいつの凍えた心を少しずつ溶かしていくのが分かる。分厚いチャーシューを頬張り、その柔らかさに一瞬だけ目を見開く。そして──悔しさを噛みしめるように、無心で丼を空にしていった。


厄介事の匂いに釣られて、ハイエナたちは集まってくる。今度は、やたらに金回りの良さそうな四人組だった。どうやら、金で雇われて邪魔者を消す殺し屋家業をしている連中のようだ。

あいつらが来てから、街のあちこちで、銃声が聞こえるようになった。もはや、これはごっこ遊びじゃねえ。本物の戦争が、この小さな街で始まっちまったんだ。


いよいよ、街は混沌を極めてきた。退廃の臭いを撒き散らす黒ずくめの風貌の連中が、我が物顔で闊歩し始めたのだ。山の手に事務所を構えるヤクザたちだ。その中でも一際、蛇みてぇな冷たい目をした男がいた。奴は、金の力で、権利書を買い漁り、この街を法的に追い詰めていく。銃弾よりも厄介な、紙切れの弾丸だ。絶望、という言葉が街の空気に溶け込んでいく。


その日は、やけに空が青かったのを覚えている。もはや、遠くで聞こえる銃声がBGMとなっていた。俺はいつものようにカウンターを拭き、寸胴の灰汁をすくっていた。俺の心は麻痺していた。平和なんて夢物語は、もう、忘れちまっていたのさ。


その時だった。

耳を突き破るような轟音。地面が割れるみてぇな衝撃。俺の身体はカウンターごと宙に浮き、そして、壁に叩きつけられた。何が起きたのか、理解するより先に意識が飛んだ。


……どれくらい経ったか。

埃と煙の匂いで、目が覚めた。見慣れた天井はどこにもなく、代わりに、皮肉なほど青い空が広がっていた。俺の城は、半壊していた。木片が俺の足に突き刺さり、血が吹き出している。


「……ちっ。戦車の流れ弾でも、当たりやがったか」


この街じゃ、もう、ありえねえ話じゃねえ。理不尽に慣れちまうってのは、悲しいことだが、生きるためには必要なスキルだった。瓦礫の山を眺める。だが、その奥で、奇跡みてぇに原型を留めた相棒が目に入った。


俺の命、豚骨スープの寸胴。

へこみ一つねえそいつに手を伸ばし、表面についた煤を指で拭った。まだ、温かかった。これはただのスープじゃねえ。俺の魂そのものだ。


店を失ってから、俺は街の亡霊となった。

瓦礫の山となった店の跡地から、ただ、極道もんたちの抗争を遠目に眺めるだけだ。もう、琥珀色のスープを作ることは、できねえ。

戦いは、日に日に激しさを増していった。街のあちこちで火の手が上がり、黒煙が空を汚す。砲弾が飛び交い、人が次々に倒れていく。まるで、この街そのものの葬式みてぇだった。


俺は瓦礫の中から、使えそうなものを探し始めた。壊れたバイクのエンジン、曲がった鉄パイプ、焼け残った板切れ。それらを集めて、夜通し何かを作っていた。カン、カン、と響く金属音が、銃声の合間に寂しく響いた。


そして、長い夜は明けた。

嘘みてぇに、街は静けさを取り戻していた。あの黒いスーツの連中も、ヒットマンも、ヤクザたちも姿を消していた。


昼過ぎになって、瓦礫の山に人影が近づいてきた。あの娘と、その仲間たちだった。全員、泥と油に汚れ、ボロボロだったが、その顔には確かに勝利の色が浮かんでいた。


「おやっさん……!」


娘が叫んだ。娘は、言葉もなく立ち尽くしている。俺は、顔を上げた。俺の前には、屋台があった。歪な鉄パイプの骨格に、バイクのエンジンを改造したコンロ。そして、中央には磨き上げられた、あの寸胴が鎮座している。


「……よう。」


俺は短く応えた。


「腹ァ減ってんだろ。座るとかぁねえが、支那そばなら……食わせてやる」


その日の夕暮れ、俺の新しい城は、初めての客を迎えた。客は瓦礫に腰掛け、俺は屋台のカウンター越しに、熱い支那そばを差し出す。湯気と共に立ち上る、深く、懐かしい香り。


娘たちは、まるで初めてそれを食べるみてぇに、まずはスープを一口すすった。そして、堰を切ったように、夢中で麺をかきこみ始めた。涙か汗か、それともスープの雫か。頬を伝うものを拭うこともせず、ただひたすらに。


娘が、最後の一滴までスープを飲み干し、ふぅ、と白い息を吐いた。その顔が、ほんの少しだけ、笑ったように見えた。俺は空になった丼を受け取り、黙って頷く。


空を見上げると、一番星が瞬いていた。

俺は、麺を茹でる。城を失おうが、関係ねえ。この寸胴と、一杯の支那そばを待つ腹ぺこの奴らがいる限り、俺の戦いも終わりゃあしねえ。ただ、それだけのことだ。

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