素直じゃない声
昼下がりの中庭に、陽気な声が響いた。
「おーい、スミレ! 今日も相変わらず仏頂面だなー」
その声に、振り向く者はいなかった。
けれど“スミレ”という名を呼ばれた本人は、洗濯物を干す手をわずかに止める。
「あれ? 無視か? つれねぇなあ……」
声の主は、ユウト。
孤児院では年長組の“兄貴分”として頼られる存在だ。明るくて面倒見がよくて――少しお節介。
そして最近、なぜかスミレに絡んでくる。
「そんな顔してっとシワ増えるぞー」
「……そう」
ぽつりと返すと、ユウトはにやりと笑った。
「おっ、反応した。返事があると会話になるな~。よし、今日も生存確認完了っと」
「勝手に始めて、勝手に完了しないで」
「じゃあもうちょい付き合ってくれる?」
「……暇なの?」
「違うなー。“気になる子がいたらちょっかい出したくなる病”だな。重症かも」
その軽口に、スミレはため息をついた。けれどそれは、ほんの少し――音が柔らかかった。
***
スミレは、ユウトが苦手だった。
いや、正確には「苦手だと思っていた」。
人の懐に簡単に入ってくる。距離感がない。冗談が多い。言葉の裏を探ってしまう自分には、眩しすぎた。
けれど、彼の視線はまっすぐだ。
茶化しながらも、子どもたちの様子に目を配っている。口数は多いが、誰かを傷つけたことはない。
だからだろうか、その声が――ときどき、少しだけ、安心できる。
***
「あー、それにしても暑いよな。スミレ、これ持ってた?」
ユウトが差し出したのは、濡らして冷やしたハンカチだった。
スミレが首を傾げると、彼は笑って見せる。
「手がカサついてたろ? 冷やしとくと少しマシになるって」
「……見てたの?」
「見てたっつーか、気になっただけ。あ、別に変な意味じゃねぇよ?」
スミレは、受け取った布を見つめた。
自分が何かに気づかれたこと。心配されたこと。それを言葉にされること――
どれも、いつの間にか忘れていた感覚だった。
***
その日の夜、スミレは自室の小さな机に向かいながら、ノートを開いていた。
ページの隅に、ぼんやりと書かれた文字。
〈肌の保湿に効果のある植物〉
〈水と油の混ぜ方〉
〈自然素材の乳化法〉
あの世界で覚えたこと。化粧品の研究。実験。開発。
忘れていたわけじゃない。ただ、思い出す必要がなかっただけだ。
あの世界で覚えた知識が、手のひび割れを見て――静かに意味を持ち始めていた。