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余生、もう一度  作者: 金雀枝
第1章:知識と信頼の芽吹き
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静かな始まり

その少女は、今日も黙々と雑務をこなしていた。


 神殿管理下の孤児院。朝の光が差し込むその一室で、スミレは濡れた布巾を静かに絞る。年若い子どもたちの食器を並べ、崩れた毛布を直し、泣いている子の背中を一言もなくさすってやる。誰に頼まれるでもなく、気がつけばいつも、そこにいる。


 そして――誰よりも、誰とも近づこうとはしない。


 その距離感は、まるで過去に身につけた“適切な距離”を守ろうとしているようだった。


 「スミレ姉ちゃん、おなかすいたー……」

 「もうちょっとで朝ごはんだよ。待っててね」


 弟のような幼い声に、スミレはわずかに目線を向け、淡く微笑む。


 その笑みは本物だった。ただ、そこには感情の起伏が乏しく、どこか遠い世界を見ているような静けさがある。表情筋は動いているのに、温度が伝わらない。けれど、誰よりも優しくて、正確で、何より――安心できる背中だった。


 「スミレさんは……不思議な子ですね」

 職員のひとりがふと漏らした言葉に、別の者が頷く。


 「よく気がつくし、仕事も早い。年上の子たちよりずっとしっかりしてる。でも、昔のことは何も語らないのよね」

 「名前と年齢、最低限の身元保証書だけ。でも、神殿の推薦だったし……加護も、もしかしたら?」

 「さぁね……」


 会話はそれきりだった。

 彼女にまつわる事実は少ない。元の世界でどんな人生を歩んでいたのか、どうしてここに来たのか――


 だが、スミレはすべてを覚えていた。


 この世界に来たその日、自分は一度“終わった”のだと。

 あるいは、“終わるはずだった未来”から、歩き直す機会を得たのかもしれない。


(もう一度、やれるなら……)


 その言葉は、願いでも呪いでもなかった。

 ただ静かに――心に置かれた、ひとつの約束だった。


***


 午後、洗濯場で水を汲みながら、スミレは空を見上げた。


 鳥のような影が高く飛び、風がさらりと衣を撫でる。

 この世界の空は、澄んでいる。どこまでも広く、遠い。


(……でも、私は)


 どこへも行けない――そう思っていた頃もあった。

 異世界に転移した者の多くは“加護”を持つという。自分にも、何かあるのかもしれない。


 けれど、いまは力を探したいわけじゃない。

 何ができるかより、どう在りたいかを考えていた。


 目の前で泣く子どもがいれば、その手を取る。

 転んだ子の膝には布を当て、眠る子の布団を整える。


 誰もそれを強要しない。

 けれどスミレは、ただ自然にそうしていた。


(誰かの役に立てるなら、それだけで、少し呼吸がしやすくなる)


 自分が“必要とされる”ことで、存在を確かめているのだ。

 誰のためでもない。けれど、誰かのためでありたかった。


***


 その日、厨房の隅で食器を拭いていると、年下の子がスミレに寄ってきた。


 「スミレ姉ちゃん、ユウト兄ちゃんまた来てたよー!」


 「……“また”って?」


 「なんかねー、スミレ姉ちゃんのこと探してたみたい? ふふー、からかいたいんだよきっとー!」


 「……そういうの、別にいいから」


 「えー? 照れてる?」


 子どもの笑い声が遠ざかっていく中、スミレは静かにタオルをたたんだ。


 気づけば、その指先に小さなひび割れができていた。

 けれど、その痛みもまた――自分がここにいることの証だった。

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