静かな始まり
その少女は、今日も黙々と雑務をこなしていた。
神殿管理下の孤児院。朝の光が差し込むその一室で、スミレは濡れた布巾を静かに絞る。年若い子どもたちの食器を並べ、崩れた毛布を直し、泣いている子の背中を一言もなくさすってやる。誰に頼まれるでもなく、気がつけばいつも、そこにいる。
そして――誰よりも、誰とも近づこうとはしない。
その距離感は、まるで過去に身につけた“適切な距離”を守ろうとしているようだった。
「スミレ姉ちゃん、おなかすいたー……」
「もうちょっとで朝ごはんだよ。待っててね」
弟のような幼い声に、スミレはわずかに目線を向け、淡く微笑む。
その笑みは本物だった。ただ、そこには感情の起伏が乏しく、どこか遠い世界を見ているような静けさがある。表情筋は動いているのに、温度が伝わらない。けれど、誰よりも優しくて、正確で、何より――安心できる背中だった。
「スミレさんは……不思議な子ですね」
職員のひとりがふと漏らした言葉に、別の者が頷く。
「よく気がつくし、仕事も早い。年上の子たちよりずっとしっかりしてる。でも、昔のことは何も語らないのよね」
「名前と年齢、最低限の身元保証書だけ。でも、神殿の推薦だったし……加護も、もしかしたら?」
「さぁね……」
会話はそれきりだった。
彼女にまつわる事実は少ない。元の世界でどんな人生を歩んでいたのか、どうしてここに来たのか――
だが、スミレはすべてを覚えていた。
この世界に来たその日、自分は一度“終わった”のだと。
あるいは、“終わるはずだった未来”から、歩き直す機会を得たのかもしれない。
(もう一度、やれるなら……)
その言葉は、願いでも呪いでもなかった。
ただ静かに――心に置かれた、ひとつの約束だった。
***
午後、洗濯場で水を汲みながら、スミレは空を見上げた。
鳥のような影が高く飛び、風がさらりと衣を撫でる。
この世界の空は、澄んでいる。どこまでも広く、遠い。
(……でも、私は)
どこへも行けない――そう思っていた頃もあった。
異世界に転移した者の多くは“加護”を持つという。自分にも、何かあるのかもしれない。
けれど、いまは力を探したいわけじゃない。
何ができるかより、どう在りたいかを考えていた。
目の前で泣く子どもがいれば、その手を取る。
転んだ子の膝には布を当て、眠る子の布団を整える。
誰もそれを強要しない。
けれどスミレは、ただ自然にそうしていた。
(誰かの役に立てるなら、それだけで、少し呼吸がしやすくなる)
自分が“必要とされる”ことで、存在を確かめているのだ。
誰のためでもない。けれど、誰かのためでありたかった。
***
その日、厨房の隅で食器を拭いていると、年下の子がスミレに寄ってきた。
「スミレ姉ちゃん、ユウト兄ちゃんまた来てたよー!」
「……“また”って?」
「なんかねー、スミレ姉ちゃんのこと探してたみたい? ふふー、からかいたいんだよきっとー!」
「……そういうの、別にいいから」
「えー? 照れてる?」
子どもの笑い声が遠ざかっていく中、スミレは静かにタオルをたたんだ。
気づけば、その指先に小さなひび割れができていた。
けれど、その痛みもまた――自分がここにいることの証だった。