沈黙と予感の夜
静かな夜だった。
神殿の灯はすでに落とされ、街のざわめきも遠い。
風の音すら届かぬようなその部屋で、少女は一人、眠っていた。
ベッドの上。小さく膝を抱えるようにして。
呼吸は浅く、まぶたはほんのりと震えている。
スミレは、夢を見ていた。
いや、夢というにはあまりに“現実的すぎる”光景だった。
――白い蛍光灯の下。
――狭い部屋。布団の中で、息をするだけの時間。
――枕元の写真立て。顔は滲んで見えない。
――何か、温かい手が額に触れたような気がして――
「…………」
誰かの声。遠くから、かすかに届いた。
けれど、それが誰なのか、思い出せなかった。
声も、言葉も、知っているはずなのに。
次の瞬間、光が消える。
視界は闇に沈み、足元が崩れ落ちていくような感覚。
スミレの心が、再び“今の世界”に引き戻される。
――ごとん。
小さな音に、まぶたが微かに動いた。
まだ意識は浅い。けれど、確かに身体は“此処”にあると訴えている。
夢の中では思い出しかけた“何か”が、現実の中ではまた遠ざかっていく。
そうして少女はまた、沈黙の中に戻っていく。
だがその静けさの裏で、もうひとつの場面が動いていた。
神殿の地下資料室。
蝋燭の灯りが僅かにゆらめくその部屋で、記録係の男が羊皮紙を並べていた。
「――保護対象、種族未定。
分類:亜人種・外部流入系? 混血傾向あり。
加護:身体系、未定義分類。反応は安定化しつつあり。
備考:転移者の可能性、高」
筆を走らせながら、男は思う。
過去、幾度となく記録された“異世界からの来訪者”。
その多くが何らかの加護を伴い、この世界に変化の波をもたらしてきた。
人々はそれに備える体制を整え、神殿もまた静かに観察を続けている。
予兆のない現れ方と、未知の能力。
それは常に、“理解できぬ可能性”として扱われてきた。
「……見届けるか。君が、どう変わり、どう変えていくのかを」
男はそう言うと、書きかけの羊皮紙を丁寧に巻き、封印印を押す。
記録は、まだ始まったばかりだった。