彼女を見た“目”
神殿の一室、月灯りが差し込む静かな書庫。
机の上には、保護対象の記録が数枚。
けれど、記されている情報はどれも断片的で、決定的な根拠に欠けていた。
エリオット・セレファスはそれを前に、紅い瞳を細めていた。
微かに指が動き、紙の端に印を記す。
「……やはり、異質なのか」
声をかけたのは、扉の前に立つ黒髪の騎士――ガゼル・レオンハルトだった。
彼は武具を外し、簡素な礼服に着替えていたが、そこに纏う威圧は消えない。
「少なくとも、“この世界の常識”では語れない存在ですね」
エリオットはそう答えると、淡く灯る卓上の魔導灯に手をかざす。
記録を伏せ、代わりに小さな魔力石を取り出す。
それは、先ほどスミレに使用した加護判定石と同型のものだった。
「反応の波形……加護としては“身体系”に分類されますが、領域が妙に広いですね。
通常の加護であれば、もう少し焦点の絞られた波形になるのですが……」
エリオットは、手元の魔力石を静かに揺らしながら言葉を継いだ。
「彼女のは、“記録全般”に近い挙動を示しています。
記憶の保持、それも――現時点では仮説に過ぎませんが、かなり高密度な保持能力を伴っている可能性がある」
「つまり……“覚えたことは忘れない”と?」
「……そうかもしれません。
ただ、加護の反応はあくまで観測上のものであって、すべてを理解しているわけではないのです。
分類とは便宜的な枠にすぎません。時に、私たち神殿の知見すら超えてくる例もある」
ガゼルは腕を組み、わずかに視線を伏せた。
「まだ、自分が変わっていることに気づいていないようだったな。鏡を見ても、反応はなかった」
「ええ。それが、むしろ心配です」
エリオットは静かに立ち上がった。
「彼女は“今の姿”と“本来の自分”の間に、違和感を抱いてはいる。
けれど、それが何であるかを言葉にするには至っていない。
あの名乗りも――無意識に選んだ“仮の名”かもしれません。菫のように、静かに咲く……そんな印象でした」
ガゼルは目を細めた。
「名を与えるのは、時として支配に等しい行為だ。……だが彼女は、自ら名乗ったんだな?」
「はい。“今ここにいる”ことを、ようやく受け入れた証――だと、私はそう解釈しています」
エリオットの声は、柔らかくも揺るぎなかった。
「しかし……興味深い存在ですね、彼女は。受け身のように見えて、選ぶべきときには意志を示す。
観察されているのは――我々の方かもしれません」
「……観察者、か」
ガゼルは、出会いの瞬間を思い出していた。
あの目は、ただ怯えた子どものものではなかった。
誰をも“等距離”で見つめていた。測っていた。
どれほどの痛みと孤独が、その沈黙の奥にあるのか――彼にはまだ分からなかった。
「俺は、彼女を見ていたつもりだった……だが、見られていたのは俺の方だったのかもしれないな」
「鋭いですね。
加護の種類が何であれ――あの目を持つ者は、そう多くはありません」
ふと、エリオットが窓の方へ目をやった。
「……これから、試されるでしょう。
彼女も、我々も――そして、この国も」
静かに風が、夜の帳を揺らす。
その中で、ひとりの少女の存在が、確かにこの世界へと“入り始めていた”。