神殿という静謐
その場所は、世界から切り離されたように静かだった。
白い石造りの壁、丁寧に磨かれた床、磨りガラスから差す柔らかな陽光。
人の声も、外の喧騒も、遠く、遠く。
ここは神殿。人々の祈りと治癒、そして「異質」を受け入れるための場所。
けれどそれが、スミレにとって“安全”かどうかは、まだわからなかった。
「……着替えを置いておきますね。ご自分でできますか?」
扉の外から、女性の声がした。
短く返事をすると、音もなく扉が閉まる。
部屋の隅には木製のベッドと水差し、そして鏡台。質素だが、清潔で暖かい空間。
籠に入れられていたのは、神殿の支給服らしい。
ゆったりとした淡い生成りのワンピース。襟元にだけ、銀糸で小さな花模様が縫い込まれていた。
スミレはためらいながらも、それに袖を通す。
布の質感が肌に馴染むにつれて、ほんの少しだけ、心の奥の警戒が和らいでいくのを感じた。
着替えを終え、ふと顔を上げた時だった。
鏡に、誰かがいた。
――いや、映っていたのは、自分自身。
けれど、その姿は記憶の中にある“自分”とはかけ離れていた。
細い手足。小さな肩。わずかに膨らんだ頬。
そして、肩口で揃えられた、菫色の髪。
「…………」
スミレは黙ったまま、鏡の中の少女を見つめた。
その顔にはまだ子どもらしい丸みが残っていて、背丈も低く、年齢にして十二、三歳ほどにしか見えない。
だが――内側にあるものは、もっと、ずっと重かった。
(こんな、だったっけ……)
自分の顔なのに、知らない誰かを見ているような不思議な感覚。
喉の奥で何かがひっかかるような違和感。
それでも、目をそらすことはできなかった。
「失礼します。……着替え、お済みですね」
控えめにノックが鳴り、扉の向こうからエリオットが入ってきた。
彼は相変わらずの穏やかさで、静かにスミレの姿を確認し、目元だけで微笑む。
「よくお似合いです。……少し、落ち着けましたか?」
スミレは何も言わず、小さくうなずいた。
彼女の無口さを責めることもなく、エリオットは傍らの椅子に腰掛けると、膝に手を置いてゆっくりと話し始めた。
「あなたに問いかけるのは、少し早いかもしれませんが……ひとつだけ、お願いがあります」
彼の声は、硬さのない、けれど芯のある響きだった。
「――“名前”を、教えていただけますか?」
スミレは、ふと彼の顔を見る。
紅い瞳は不思議と冷たさを持たず、どこか水面のように揺れていた。
怖がらせぬよう、触れぬよう、だが確かに“理解したい”と願っている眼差し。
しばらくの沈黙のあと、スミレは小さく、口を開いた。
「……スミレ」
たった一言。
けれどその響きが、彼女自身の中にわずかな灯をともした。
エリオットは目を細め、ゆっくりと頷く。
「美しい名前ですね。……それが、あなたの“今”なのだと、私は受け止めます」
“今”。
その言葉に、スミレのまぶたがかすかに揺れた。
(私は……今、ここにいる)
知らぬ土地。知らぬ体。知らぬ人々の中で。
それでも、名乗った。
それは、かすかな「はじまり」の音だった。