閑話:ある侍女の記録
この屋敷に長く仕えてきたが、“特別”と呼べる客人はそう多くはない。
名前を掲げ、格式を重ね、地位を背負って訪れる者たちとは違って。
何も持たず、何も誇らず、ただ静かに存在する――そんな少女に出会ったのは、初めてだった。
名は、スミレ。
誰かの命令で動いているわけではない。
身内の推薦があったわけでも、家柄が背中を押したわけでもない。
けれど、彼女の手から生まれた配合書は、
医務室の誰よりも簡潔で正確で、
屋敷の女中たちが気づかないほど繊細な気遣いに満ちていた。
「恐れ入ります」
そう言って、彼女は頭を下げる。
まるでそれが“呼吸”であるかのように。
でも、私には分かる。――あの記録に費やされた時間も、思考も、決して小さなものじゃない。
お嬢さま――リタ様が彼女に好意を寄せているのは、最初から明らかだった。
けれど、あの方は“好奇”では人を家に招かない。
それは、私が幼いころから見てきたあのご両親――
クライネル侯爵夫妻の在り方と、とてもよく似ている。
スミレ様は、無理に距離を縮めようとはしない。
どちらかといえば一歩引いた場所で、自分にできることを淡々と積み重ねていく。
それなのに、気づけば周囲が彼女を見ている。――その姿勢に、心が動くのだ。
リタ様は時折、ふと不安そうな顔をされる。
「スミレ、無理してないかな」とか、「私の誘いが重たかったかな」とか。
でも私は知っている。――スミレ様は、ちゃんと笑っている。
口数は少ない。けれど、道具を拭く手つきや、素材を並べる順番、
私の差し出すお茶菓子に小さく礼を言うその姿に、気持ちが滲んでいる。
だから私は、彼女に名を付け加えないようにしている。
「この記録は誰が?」と問われれば、「記録者は匿名ですが、信頼に足る者です」とだけ答える。
――それが、彼女が“選んだ距離”なのだと、思っているから。
けれど。
もしもいつか、彼女自身がその名を名乗る日が来るなら――
そのとき私は、誰よりも誇らしく思うだろう。
私が仕えているこの家が、
あの静かな意志を、最初に受け入れた場所だったことを。




