役割を担うということ
夜、クライネル邸の客間にて。
小さなランプの明かりのもと、スミレはひとりで記録帳を開いていた。
昼間にリタと話した保湿剤の評判、マーヤの報告――
すべてはどこか、少しずつ“自分から離れていく感覚”を伴っていた。
それでも、そこに“確かにあったもの”もある。
配合を考えるとき、誰かの困り顔を想像して書き足した注意文。
取りこぼした苦情を思い出しては、次の試作品に修正点を加えた日のこと。
「……私が、誰かのためにやっていたこと」
それは仕事ではなかった。命令されたものでも、名誉が欲しくてやったことでもなかった。
ただ――“必要だと思ったから”やっただけ。
だからこそ、名前が出なくても、誤解されても、どこかに届いていれば、それでよかった。
だけど今は。
「“それをしたのが、あなた”だって……誰かが言ってくれることが、少しだけ――うれしいんだな」
ぽつりとこぼれた言葉に、自分でも気づかないうちに、小さな笑みが浮かんでいた。
翌朝、提出するための記録帳に新しい一行を書き加える。
──試作・使用歴あり。流通化に際しては、加熱時の沈殿に注意。
必要とされる場があるなら、調整案は別紙にて提出可能。
そして、その隣に。
署名欄に、小さな文字でそっと――“S”という一文字を記した。
「名前は、いらないけど。……“わたし”がいたことくらいは、残してもいいよね」
静かな朝の光の中。
スミレの記録帳が、また一ページめくられていく。
役割を、意識すること。
それは、自分が“ここにいていい”という証を、ほんの少しだけ信じてみること。
それはまだ、小さな芽吹きだった。
けれどきっと、それは彼女にとって――確かな第一歩だった。




