噂は、名を超えて
昼下がりの陽射しが、クライネル邸の回廊に影を落とす。
中庭では庭師が枝を整え、その向こうでメイドたちが買い物籠の受け取りをしていた。
リタとスミレは、離れにある書庫の前で腰掛けていた。
今日は調合記録の整理を一区切りつけて、午後は少し休憩ということになっている。
「そういえば、この前――お母さまに連れられてお茶席に同席したの」
リタが、少し誇らしげに言う。
「お茶席?」
「うん。うちの屋敷で開かれた、内輪の集まり。別の家の奥さまと娘さんがいらしててね。その娘さん、“最近すごくいい保湿剤を紹介してもらって~”って話してたの。“名前は出てないけど、クライネル家から流通してる”って言ってて……ピンときたよね」
スミレはきょとんとしたまま、相槌を打った。
「……ああ、他の家でも、使ってくれてるんだ」
「うん。貴族の女の子たちってそういうのにすごく敏感でさ――“今までのと全然違う”とか“肌の調子が変わった”とか、もう話題が飛び火してるみたい」
リタの語り口にはどこか楽しげな響きがあった。
それは、他人事としてではなく、自分の誇りのようにも聞こえた。
「でも不思議だよね。みんな、その保湿剤がどこから来たかは気にしてるのに――誰が作ったか、までは分からない。名前が出てこないから」
「……それは、マーヤさんたちが配慮してくれてるから、だよね?」
「うん。でもスミレ、名前出さないようにしててもつい“作ったのはあたしの友達だよ”って言いたくなっちゃうの。ちょっとだけね?」
スミレは笑った。
「ちょっとだけ」なんて言って、きっとリタは本当は言いたいのだろう。
その日の夕方。マーヤが廊下でスミレに声をかけてきた。
「スミレ様、少しだけお耳に入れておきたいことがございます」
廊下の窓辺で立ち止まり、マーヤは小声で続けた。
「本日、王家に近しい別家の子息より、“製品開発に関する資料の出所”について照会がございました。現段階では回答を控えておりますが……想像以上に注目が広がっているようです」
「……そうなんですね」
スミレは驚いたというより、どこか遠くを見つめるような目をしていた。
「私は……ただ記録をつけて、整理して、渡しただけで。それが誰かの手に渡って、形になって、言葉になって……いつのまにか“私じゃないもの”みたいになってる気がして」
マーヤはすぐには答えず、少しだけ沈黙を置いてから言った。
「……それでも、それを“生み出したのは誰か”と問う声は、いずれ必ず届きます。そのとき、名乗るかどうかはあなた次第です。けれど、名乗らずとも、残るものがあります」
スミレは、ゆっくりと小さく頷いた。
「ありがとう、マーヤさん。……そのときは、きっとまた相談させてください」




