名もなき調合、かすかな評価
クライネル邸の厨房では、いつも香草の匂いがわずかに漂っていた。
料理に使われるハーブのほか、日常の洗い物や手入れに使われる調合品――とくに保湿用の軟膏や水薬の香りが、それに混じっている。
朝食のあと、スミレはマーヤに呼ばれて、応接室へと案内された。
そこは書類と帳面が整然と並んだ空間で、淡い陽がガラス越しに差し込んでいた。
「突然お呼び立てして申し訳ありません、スミレ様。実は……こちらについて、少しお話を」
マーヤがそっと差し出したのは、見覚えのある小瓶だった。
淡い香りを持つ保湿用のクリーム。これは、孤児院で使っていた調合品と同じものだった。
「……この保湿剤、もしかして――」
「はい。以前、スミレ様が孤児院にて記された調合記録をもとに、シスターの方々が実際に作られていた品のひとつです。私がお願いして写し等を持ち帰らせていただいたものなのですが、使用感が非常によく……屋敷内でも自然に広まりまして」
スミレは、少し驚いたように目を見開いた。
「私が書いたのは、レシピと材料の管理票だけです。調合そのものは、全部シスターたちがやってくれていて……。でも、効果があったなら、よかったです」
「それだけではありません。配合の試行や反応の違い、保存経過まで記録されている――これほど実用に堪える記録を、私はあまり見たことがありません」
そう言ってマーヤは、一冊の帳面をスミレに手渡した。
そこには、彼女自身が記した試験結果や素材の特性、調整の変遷などが並んでいた。
「夫人からも、『これほどの精度で管理された記録は珍しい』とのご評価を頂いております。もしよろしければ、この保湿剤を正式に“製品”として流通させる許可を頂ければと存じます」
スミレはしばらく考えたあと、静かに頷いた。
「はい。必要とされているのなら……大丈夫です」
その返答に、マーヤは少しだけ言葉を選ぶようにして続けた。
「ありがとうございます。ですが――スミレ様のお立場や背景を考慮し、当面は“製作者名非公開”という扱いとさせていただければと思います。……万が一、思わぬ方面から注目が集まった場合の対策として」
スミレはその意図をすぐには読み取れなかったようで、けれど反論することもなく頷いた。
「……わかりました。そのほうが良いのなら」
応接室を出ると、廊下の先でリタがこちらに手を振った。
「お疲れさま。マーヤと何を話してたの?」
「えっと。保湿剤のこと……ちょっと、話すことになって」
「もしかして、商品として流通させたいとかかしら? もしそうならスミレって、すごい人だと思う」
「すごくはないよ。ただ、こういうことは……慣れてるだけ」
スミレが手元に持っていた帳面をリタがちらりと覗き込む。
整った字で記された素材名、抽出温度、肌質ごとの差異、保存の条件――びっしりと並んでいた。
「……これ、自分で書いたの?」
「うん。あとで見返すために、ってだけ。正確な記録がないと、うまく改良できないから」
「それ、普通の人には“ちゃんとできる人”っていうんだよ……?」
スミレは少しだけ困ったように、けれど穏やかな笑みを浮かべた。
「……そうなんだ?」
その何気ない返しが、リタには妙に嬉しかった。
この人は、自分がどう見られているかを、まだ知らない。
だからこそ――もっともっと、そばで見ていたいと思った。




