閑話:沈黙の報告書
王都ルメリアの中央地区。
神殿や行政機関と並ぶようにして建つ「王都医務局」の一角に、その部屋はあった。
薄暗い室内に、書類の束が静かに積まれている。
革表紙の記録簿、薬効試験報告、配合比率と実例。
中央の机に座る壮年の男は、それらを一枚ずつめくり、やがて手を止めた。
「……なるほど。これは、偶然ではないな」
ルヴェール・マルシャン。王都医務局における技術監査官の一人。
製薬、衛生、魔導医療に関する調整と監督を担い、“無言の知恵袋”と呼ばれる男である。
彼が見つめていたのは――
《試用薬草調合報告書(提出:クライネル家)》
という表題が付された一件の報告だった。
報告には製法や目的の記載はあるが、記録者名はなし。
ただし、添付された詳細な再現記録と試験結果が、記録者の確かさを物語っていた。
「王家が直轄で動くには早すぎるが……これは、いずれ正式申請に来る」
彼の独白に、後ろで控えていた若い補佐官が問いかけた。
「失礼します。記録者不詳のまま、登録申請を受けるのは規定違反では……?」
「違反にはならん。これは“登録の前段階”にすぎん。
……貴族家からの提出、しかも伏せた形で、ということは――“記録者の意志を待っている”のだろうよ」
ルヴェールは指で書面をなぞる。
「“これは公にしてもいい”――その言葉が、いつか届くなら。
そのときに備えて、黙って整えておく。それが、今の我々の役目だ」
***
医務局の奥、記録担当区画の一角。
薄紙に複製された配合書と報告文が、専用の封筒に収められて棚に格納される。
静かな箱のなか、たった一枚の紙が眠る。
名前も知らぬ誰かが、誰かのために記した、一本の“しるし”。
それはまだ、王家の知る“公式”には載っていない。
けれど、それを読み取った者たちは、誰もが思っていた。
――いずれこの名は、静かに、確かに。
人々の口に、世界の地図に、記されていくことになるだろうと。
そしてそのときが来たならば――
この「沈黙の報告書」が、その最初のページとなるだろうと。