閑話:侯爵夫人の優しい願い
朝のティーセットを片づけた侍女が、書類束をひとつ、サイドテーブルに置いた。
「失礼いたします。薬師より、昨晩の報告がまとまりました。ご確認を」
控えめな声と共に一礼したのは、クライネル家の若き侍女――マーヤ・グレイス。
整えられた黒髪と、簡素だが清潔感ある制服姿。
その立ち居振る舞いには、主への忠誠というより“洗練された仕事の意志”が感じられる。
「ありがとう、マーヤ。……あなたの目から見て、これはどうかしら?」
エリス・クライネルは、いつもの穏やかな声音でそう問いかけた。
「はい。私見ですが――この配合、ただの偶然ではありません。
成分選定の意図が明確で、応用性と再現性も高い。何より……文章に温度があります」
「温度?」
「はい。冷たく整えられた技術ではなく、“誰かを助けたい”という意志のある記録だと、私は感じました」
エリスは小さく頷き、報告書に目を落とす。
確かにそこに並ぶ薬草名や比率、注意点の注釈には、どこか優しさがにじんでいた。
「……娘が“すごいのよ”と珍しく声を弾ませていましたの。
あの子が心を動かされた相手……気にならないはずがありませんわ」
「……承知いたしました。ご要望があれば、神殿経由の連絡調整にも備えておきます」
***
その夜、サロンの一角。
リタが紅茶をすすりながら、ソファにもたれて話しかけてくる。
「ねえ、お母さま。スミレって子、やっぱりすごいの!」
「ふふっ、あなたにそこまで言わせるのは珍しいことですわね」
「だって、なんていうか……そばにいるだけで、ちゃんと“見てくれてる”って思えるの。
自分のこと、ちゃんと受け止めてくれるっていうか」
その言葉に、マーヤが静かに紅茶を注ぎ足しながら視線を落とす。
けれど、言葉は挟まない。ただそこにいて、聞いていた。
「……もし、あの子が誰かに“助けてもらってもいい”と思ってくれるなら――
私は、その手を取って差し上げたいわ」
「それって、援助とか、紹介するってこと?」
「いいえ、囲い込むつもりはありません。
ただ、“自分で選べる道がある”と知ってもらえるだけで、未来は違いますもの」
マーヤがわずかに目を伏せ、声なく一礼した。
「では必要に応じ、手配の準備だけは整えておきます。……本人の意志が最優先、という前提にて」
***
翌朝。クライネル家の文官が神殿・記録局へと一通の書簡を届けた。
封蝋には、緋色のクライネル家紋。けれど本文には、名も押しつけもなかった。
――先日、我が家にて試用された配合薬草剤について、出所不明ながらも効果が認められたことをご報告申し上げます。
もし、然るべき記録者がおられるのであれば、その意志が尊重されることを、切に願っております。
それは、何の見返りも求めぬ“願い”だった。
ただ、娘が出会った名も知らぬ少女に――
ひとつの未来が、そっと開かれることを願う、静かな意志。
侯爵夫人エリスと、その傍に控えるマーヤの想いは、確かに神殿へと届いた。