閑話:観察者たちの沈黙
神殿の北棟、記録局の奥にある静かな書庫室。
白い帳簿の山と、無数の魔導石の箱。その中に、一本の細い灯が揺れていた。
「……おや、まだ記録の検証を?」
声をかけたのは、記録局長にして現枢機官――ルネ=マルト=アルヴェール。
若く見えるが、神殿内でも屈指の観察眼と記録術を持つことで知られている。
「はい。加護石の反応が気がかりでして……」
応じたのはエリオット・セレファス。
静かな声音は、わずかに迷いを帯びていた。
彼の手元には、スミレの記した保湿剤のレシピと、複数回の再現試験記録。
その成果は、偶然では説明のつかない再現性と効果を示していた。
「選定の正確さ、比率の整合性、保存性の確保。素人の思いつきとは思えません」
「記憶、ではなく……“記録”の加護に近いと?」
「……“近い挙動”をしている、というだけです。
石の光り方も既知の型と一致はせず、反応の偏りもやや特殊で――
仮に分類するなら、“身体系”で“知識参照性の高い変則型”といったところでしょうか」
ルネは眉をひそめ、報告書に目を落とす。
「つまり……統計上の類似点はあるが、確定的な類型ではないと」
「はい。加護分類の前例に照らすなら、“記録系”の派生、あるいは――
……まったく新しい系統である可能性も、否定できません」
ルネはふっと息を吐いた。
「本来であれば、こうした個体は早期に保護し、育成すべき資質なのですが……」
「……無理に関われば、かえって拒絶される可能性もあると?」
問い返したエリオットに、ルネは静かにうなずいた。
「この加護は、“本人の意志”と“記録の自由”をなによりも尊重します。
強制はできない。押しつければ、逆に壊れてしまう加護ですから」
エリオットは書棚の一角を見つめながら、思い返す。
スミレは確かに、自分の意思で記録した。
誰かのために書いた。でも、強制されれば――きっと、もう書かない。
「……彼女に、“必要とされたという実感”を、きちんと届けてあげたいのです」
ルネは一度頷いてから、机の引き出しを開け、厚手の封筒を取り出した。
「先ほど届いた文書です。クライネル侯爵夫人より、“家庭内で使用した薬草調合”についての感謝と報告書」
エリオットが目を見開いた。
「ご令嬢が孤児院で出会った少女によるもの……と、詳細は伏せられておりますが、
配合内容、効能、使用経緯――これは、件のレシピと一致しています」
「……もう外に、流れ始めているということですか」
「ええ。神殿ではなく、貴族の家庭から“伝わるルート”を辿っています。
公式ではなく、非公式に。けれど、確実に」
エリオットはしばし沈黙し、それから口を開いた。
「では、正式な“製法記録申請”は……本人に?」
「本人の承諾なしには、王家にも提出できません。
ですが、ルートは整えましょう。“本人の意志”に頼るためにも、道を開いておくべきです」
ルネの言葉に、エリオットは静かにうなずいた。
その少女はまだ何も知らない。
けれど彼女が記した一行が、世界の構造に波紋を起こしはじめていることだけは、確かだった。