言葉にならない成果
厨房の隅に置かれた小瓶が、少しずつ減っていく。
スミレが書き残した保湿軟膏のレシピは、実際に職員の手によって作られ、使われ始めていた。
特別な道具も、高価な素材も要らない。けれど、確かな効果があった。
「スミレちゃん、これ本当に効いたわよ。今朝は、指のひび割れがぜんぶ引いてたの」
「お皿洗いがこんなに楽だなんて……すごいわね、これ」
職員たちは嬉しそうに言葉を重ねた。
中には子どもたちに塗ってやったという話もあり、小さな手を擦るように撫でる姿が微笑ましかった。
その中心にいたスミレは、何も言わずにうなずくだけだった。
言葉にならない。
でも、胸の奥が、じんわりと温かい。
(書いて、よかった)
目立ちたいわけでも、褒められたいわけでもない。
けれど、自分が「誰かの助けになった」ことが――確かに、実感としてあった。
***
中庭のベンチで一人ぼんやりしていると、背後から足音が近づいてくる。
「……なぁ、スミレ」
ユウトだった。
「お前さ、あれ書いたんだろ。例の……保湿のやつ」
「……作ったのはシスターたち。私は、書いただけ」
「いやでも、あんなの思いつくか? すごいよ、お前」
スミレは首を横に振る。
「……たまたま、思い出しただけ」
「ふーん。なんか、変な本とか読んでんのかと思ったけど……ガチで“知ってる”って感じだったしな」
そう言って、ユウトは少し目を細めた。
「……年下だと思ってたけどさ、なんか“中身”は年上みたいなんだよな。いや、悪い意味じゃなくてさ」
スミレは小さく瞬きをした。
「年齢とか、あんまり気にしてないけど……」
「そーゆーとこも大人っぽいんだって」
からかうような口調ではなかった。
「なんか……すごいなって思っただけ。俺なんか、まだ誰の役に立ててるのか分かんねーし。素直に、尊敬してる」
スミレは、目を伏せた。
こんなふうに言われることに、まだ慣れていなかった。
「……ありがとう」
その声は小さかったが、確かにあたたかいものを含んでいた。
***
夕刻、神殿からの使者が孤児院を訪れた。
エリオット・セレファス。あのとき自分に名前を尋ねてくれた人。
厨房で出迎えたスミレに、彼は変わらぬ調子で穏やかに語りかける。
「……レシピ、拝見しました。素晴らしい知識です」
「……覚えてたことを、書いただけです」
「ええ。“覚えていたこと”が、きちんと人のために使われた。これが、記録の加護のひとつの形です」
エリオットはそう言って、胸元の小さな魔導石を取り出した。
「……もう少し、詳しく見せてもらってもいいですか?」
スミレは少しだけ迷った末、こくりとうなずいた。
加護というものが、どういう存在か。
それが人からどう見られるか。
スミレにはまだわからないことばかりだった。
けれど、今日――自分のしたことが“誰かに届いた”のだと、そう思えた。
その感覚は、たった一度の感謝よりも深く――確かに、心を動かした。