前編
駅のロータリーから出立したばかりのバスが、四方に散らばっていく。
街灯モニターから轟く、ハスキーボイスが売りのスパイシーな歌声は、三週間も前から流れている。
その曲は社会現象にまでなっているドラマの主題歌で『悪魔の甘い誘惑に酔いしれろ、初のソロシングル、大ヒット発売中!』という謳い文句が、先日追加されたばかりだ。
ピタリと背後で誰かが立ち止まった気配。
「まだ流れてんのかよ……」
吐き捨てるような男の呟きは、手前にいる土岐透琉にだけ聞こえた。
テレビを見ない透琉からすれば、ドラマの名場面を思い浮かべることはないので、良い声だなと思いこそすれ、退屈な信号待ちの時間に同じ曲ばかり聞かせられて辟易している。
後ろの男は苦痛だと言わんばかりのため息をついた。
透琉は、いつもと変わらぬ雑踏に紛れながら、歩道の端っこでスクールバッグを抱き締めながら信号が青になるのを待つ。
母親の寿美子にこれから塾に行くと連絡を入れてからニ十分。いつもならとっくに塾に到着している時間だ。
先ほどから震えているスマートフォンは、おそらく寿美子からのものだろう。
あまりにも鳴りやまない通知に根気負けした透琉は、スクールバッグからスマートフォンを取り出す。ロック画面には最新のメッセージが表示されていた。
『透琉さん、どこで寄り道しているの? 早く塾に行きなさい』
「……寄り道はしていません。もうすぐ着きます」
返信をした透琉は、背中を丸めて俯く。
歩車分離信号の大きな交差点は、いかなる時間帯でも交通量が多い。下校や退勤の時間ともなればなおさらだ。
高校生活も残り一年となった透琉だが、なぜか最近、慣れたはずの下校ルートが恐ろしく感じる。
聞き飽きた曲に鬱々としていた方がまだ健全だと思えるほど、一体どうしてか、体が沸騰するほど熱くなったり背中に冷や汗をかくほど猛烈に寒くなったりを繰り返しているのだ。
原因不明の動悸は、日増しに激しくなっていく。
眩暈を起こして校内で何度か倒れたことがある。幸い大きな怪我はしていないが、体調が良いと感じる日は少ない。
心配性な寿美子に病院を連れ回されたが、どこも異常はなく、最終的に行き着いたのは心療内科だった。
それでも眩暈の原因が判明することはなかった。
学校に行くことが嫌なわけではないし、大きな事件に巻き込まれたわけでもない。
透琉は、ブレザーの下のシャツは第一ボタンまでしっかり留めて着崩さない。染髪はしないし、もちろんアクセサリーもしない。自宅と学校と塾を往復するだけの、極めて模範的な学生だ。
華奢な体格に大きな瞳と垂れた眉は、時折女性や中学生に間違えられるほどで、本人の知らぬところでは、才貌両全の美少年と崇められている。
強いて言えば、医学部を受験するつもりのため、少々プレッシャーを感じているくらいであるが、それは受験生に等しく降りかかる問題であることくらい透琉も理解しているため、眩暈を起こすほどでもない。
目が霞むと感じるのは、視力が落ちたせいかもしれない。思い返してみれば、眩暈を起こす前も目の奥がズキズキと痛んでいた気もする。
近々、眼科に行ってもう一度検査をしてみようか――。
歩行者用の信号が青になり、聞き慣れたメロディが流れ始めた。
信号が変わる前に早く渡らなければ、と透琉が歩き出した瞬間、道路の向こう側にある塾の窓がガタガタと震え始めた。
ガッシャーン! バリンッバリンッ! と激しく音を立てた窓ガラスは、すべて粉々になって、歩道を埋め尽くしていた。
通行人はいなかったように見えたが、心配になった透琉は駆け足で現場に向かった。
地震が発生したとか突風が吹いたとかではない。物が当たってガラスを突き破った痕跡もない。内側から強烈な圧力がかかり破裂したというよりは、ヒビが入ってから、一斉に落下したように見えた。
週に三回、あの窓の横で講義を受けているので、老朽化で割れるほど古いわけでもないことを知っている。
原因を探るべく、砕けたガラスに手を伸ばすと、ひと回り大きな手に制される。
「ストップ! 素手で触ろうとか、さすがにそれは想定外」
驚いた透琉は振り返る。
「岡崎くん……?」
背後にいたのは、転校生の岡崎新多だった。
「良かった。名前覚えてくれてたんだな。とりあえず、またガラス降って来ると危ないから、一旦避難しようぜ」
「う、うん……。だけど、僕これから塾で……」
「塾……? ははっ、この状態で授業あるわけなくね? ほら、アレ」
新多は、親指でビルの出入り口を指す。
視線の先にいたのは、血相を変えた警備員や塾の講師たちだ。
ビルは人通りの多い交差点の一角にあるため、写真や動画を撮る野次馬も集まって来た。
顔を真っ青にした担当講師から今日は臨時休業と告げられたため、透琉は成り行きで新多と一緒にその場を離れることにした。
高校三年生の五月に転校してきた新多は、クラスメイトではあるが、数回ほどしか話したことがない。
髪は脱色しているの真っ白で、肩まで伸びた襟足は外に向かって跳ねている。
都内屈指の進学校だが自由な校風で、新多以外にも派手な髪色をしている者も多いので、悪目立ちはしていない。
「いやぁ、いきなりバリバリってガラスが落ちてくんだもん。ビビったわー。土岐は怪我してねぇ?」
こちらを覗き込むように、ずいっと顔を近づけられ、透琉はよろめいた。
頭二つ分も違う背丈とすらっとした手足。涼しげな目元に薄い唇は、童顔の透琉とは正反対だ。
甘ったるい語尾は、駅前で流れていた男性シンガーのハスキーな声に少し似ていて、蠱惑的な魅力がある。
いつも女子に囲まれて騒がれているのは、転校生が珍しいからという理由だけではなさそうだ。
本人は少し迷惑そうな顔をしているので、騒がしいのは好きではないのかと思っていたが、塾から駅に向かう際もひたすらしゃべり続けていたし、実際はかなり気さくな青年といった印象である。
「岡崎くんがガラスに触る前に止めてくれたおかげで無事です。先ほどはありがとうございました」
「良かった。てか、なんでずっと敬語? 同級生じゃん」
「あまり話したことがなかったので……。気に障ったのなら謝るよ、ごめんなさい……ごめんね?」
「おう。土岐はタメ口でもなんか丁寧だな。なあなあ、このあと時間ある?」
休校になったため、予定はなくなった。早く帰宅したところで、自室で勉強するだけだろう。
透琉は「うん」と素直に頷いた。
「良かった。俺、転校してきてからまだどこにも遊びに行ってなくてさ。どっかイイとこ紹介してほしいんだけど」
クラスでも引く手あまたな新多が、自分を誘っている――。
理解が追いつかない透琉は、眉間に皺を寄せた。
「僕が案内できるところなんて……。そういうのは、別の人に頼んだ方がいいと思う」
「土岐がいいんだよ! 前から話してみたいと思ってたんだ。このあと予定ないなら、いいだろ?」
「遊べる場所なんて本当に知らないんだって……。休みの日も図書館くらいしか行かないから」
「おー、図書館、いいじゃん。行こ行こ! 俺、どこでも楽しめるし、静かな場所も結構好きだから案内してよ。ここから歩き? バスとか電車?」
「……バス」
「はい、決定。しゅっぱーつ」
「そ、そっちじゃないよ!」
透琉は、自信たっぷりに見当違いなバス乗り場に向かう新多のカーディガンを掴む。
ハッとした時にはバスの中で、透琉は、新多の術中にはまり、まんまと自ら進んで道案内することになってしまった。
意外にもバス車内で話しかけられることはなく、新多は瞳をキラキラとさせながら、目的地に到着するまで静かに乗っていた。
最初はからかわれているだけかと思っていたが、スマートフォンでこれから行く図書館の公式サイトをチェックしていたので、どこでも楽しめるというのは、本当のようだ。
図書館についてしまったので、雑談可能なイートインスペースで、売店で買ったサンドイッチを食べながら時間を潰す。
「これ、面白いの……?」
「こうやって土岐と向かい合って飯食ってるだけで、わりと面白いけど?」
「それって僕の顔が面白いってこと?」
ショックを受けた透琉は、思わずサンドイッチを落としそうになる。
新多は、図書館に似つかわしくない声量で笑った。
「ちげぇって! 土岐の顔は、可愛い系だろ? クラスの女子は『高嶺の透琉きゅん、今日もチワワみたいできゃわい~』って騒いでたぜ」
「……それクラスの女子にも僕にも喧嘩売ってない?」
「褒めてんだよ。それに面白いってのは、細いわりに意外と食うなって思って。見てて面白いっつーか、気持ちいい的な? サンドイッチだけでも三人前くらいあんじゃん。土岐って、じつは大食い?」
丸テーブルにびっしりと並ぶサンドイッチを見る二人。
透琉は、眉を下げて照れ笑いを浮かべる。
「大食いってわけでもないけど、なぜかここ数ヶ月お腹がへって仕方ないんだ」
「んじゃぁ、成長期か……せ、成長……?」
親指と人差し指で隙間を作って目測する新多に、透琉は「ちょっと!」と憤る。
「ごめん、ごめん。いいじゃん。好きなもんはどんどん食べて、好きなこともどんどんしようぜ。自由な時間は学生の間だけって言うし」
「自由な時間……。そういえば、今日は久しぶりにスケジュールから逸脱した行動を取っているかもしれない。これが自由っていうのかな……」
「へぇ、真面目だな。スケジュールって、そんな毎日立てるもん?」
「そ、それは……」
テーブルの上に置いていたミネラルウォータ―のペットボトルが、キャップを閉める際にへこませてしまったのか、ベコっと嫌な音を立てた。
新多は、ペットボトルを手に取るとキャップを緩めて、黙り込んでしまった透琉に差し出した。
おずおずと手を伸ばした透琉は、空気が入り込んで元通りになったペットボトルを受け取る。
「無理に吐かせたいわけじゃねえから。ただ土岐のこと知りたいだけ。今んところ、サンドイッチが好きってことは知ってる。他には、何が好きで、何が苦手? 教えてよ、土岐のこと」
天使か悪魔か、甘い囁きに打ち勝てる人間は、果たしてどれくらいいるのだろうか。
丸テーブルを囲む椅子は四つあるが、すっと立ち上がった新多は、透琉の隣の席に移動して顔を覗き込んで来た。
「なぁ、それくらいいいだろ?」
「好きなもの……は、わからない。苦手なことは……美術。絵を描くのが下手みたい」
「苦手科目ね。へぇ、そう言われると土岐の絵見てみたいなぁ。というわけで、絵しりとりで勝負だ」
「絵しりとりって何?」
「言葉じゃなくて、絵を描いてしりとりすんだよ。ほい、これ紙。土岐からスタート」
サンドイッチを購入した際にもらったレシートを財布から取り出した新多は、目を細め、左頬だけ上げてにっと笑う。
不本意ながらも、透琉は、時間をかけて丁寧に犬を描いた。
完成じっと待っていた新多は、レシートを顔に近づけたり遠ざけたりしたあと、犬の隣に可愛らしいタヌキを描いた。
透琉は、次にキリンを描く。
「あっ、終わっちゃった」
「しりとり、弱いどころの話じゃねぇぞ⁉ てか、ちょ、ちょっと待って! ブタ、タヌキ、ブタで終わるわけなくね⁉」
「豚……? 豚じゃなくて犬とキリンなんだけど……」
「ひっ……犬とキリン………くっ、ぶふっふ……これは一周回って才能が爆発……」
フリースペースとはいえ、他にも利用客がいるため、新多は大声を出さないように涙を堪えて震える。
顔を真っ赤にした透琉は、レシートを取り上げると「本を借りに行くからもう終わり!」と告げて立ち上がった。
「待って待って! 上手いか下手かはわかんねぇけど、俺、透琉の絵好きだわ。だからレシートは返してもらう」
すっとレシートを引き抜かれてしまったが、透琉の頭の中はそれどころではない。
「と、透琉って……」
「あー、だめ? 俺のことも新多でいいから」
「ああ、あ、新多君……?」
「はーい、新多じゃなくて〝新多君〟ね。新鮮だわ」
机の上をさっと片付けた新多は、透琉の肩に腕を回す。
急速な距離の詰め方にドギマギしながら、両手と両足を同時に動かすと、新多が笑いを堪えている振動が伝わって来た。
「透琉は、本も好きなんじゃないの?」
「好き、なのかな……。勉強の邪魔をしないものは、許可されているから。本が好きかどうか比べられるほど、他の遊びを知らない。でも苦じゃないから、本は好きなのかもしれない」
「そっか。じゃあ、俺と一緒にこの街を開拓しようよ。色んなところに行ってみたら、好きなこと見つかるかも」
「一緒に、好きなことを見つける……?」
「そう。岡崎新多と土岐透琉で、一緒に」
未知の感情に振り回されるなんていつぶりだろうか。悩みの種である不快な動悸ではなく、期待に満ちた鼓動の乱れだ。
透琉は、襟元をきゅっと握ると、今日初めて微笑んだ。
「おかえりなさい、透琉さん。まさか塾の窓が割れるなんて……。今日はどちらでお勉強をしていたの?」
玄関を開けると、純白のワンピースに紺色エプロンをした母の寿美子が待ち構えるようにして立っていた。
日本人形のような黒く長い髪が、少々乱れている。
「自習室も使用禁止でしたので、図書館で勉強をしていました」
「そう……。心配したのよ。スケジュールを変更する場合は、母に連絡をください。そうじゃないと、携帯を持たせている意味がないわ」
新多には言えなかったこと。
透琉の人生は、寿美子が決めた道以外、許されないということだ。
通う学校、塾、さらに受験する大学に就職先、結婚相手――すべて寿美子に決定権がある。
一言でも反論しようものならば、寿美子は泣き叫ぶ。私の育て方が悪かったのだと、自傷行為を繰り返すのだ。
家の一歩外に出れば、寿美子は完璧な母親の顔になる。病院でもそうだ。
二面性を持つ母の相手をずっと一人でしてきた。泣き叫ばれるよりは、自分が諦めた方が早い。そう思うようになって、小学校に入学する頃には、口答えすらしなくなった。
しかし、今、スマートフォンを取り上げられるわけにはいかない。
「わ、わかりました。申し訳ありません。頭痛がするので、今日は自習をしたら二十三時には寝ます。よろしいでしょうか」
「わかりました。遅れた分は、明日以降の予定に追加しておきますから、あとでスケジュール表を確認しておいてちょうだい」
「……はい」
透琉は、寿美子の横を通り抜けると、二階にある自室へ逃げ込んだ。
大きなため息をついて、制服も脱がずベッドに沈むと、スマートフォンの画面がパッと光った。
「岡崎……新多……」
今日、連絡先を交換したばかりの新しい友人の名前だ。ただのクラスメイトではなく、連絡を取り合う友人になった。
学生ならば全員入れているというアプリを入れてもらったが、他に友人のいない透琉にとっては、今のところ新多専用の連絡ツールでもある。
名前をタップすると【今日は、ありがとう。透琉と話せて良かった。これからもよろしく!】というメッセージと、デフォルメされたキリンのイラストが送られてきた。
「こちらこそ、ありがとう、ございました。今後、とも、宜しく、お願い、致します……じゃなくて、よろしくね――っと。このスタンプってやつはどこを押すんだっけ……?」
人差し指を彷徨わせている間に、新多から返信が届く。
【今、電話していい?】
追いつけないスピードの提案に、透琉は焦る。
一階にいる寿美子に声が聞こえないように布団に潜ると同時に着信画面に切り替わった。
「こ、こんばんは。土岐です……」
こちらの緊張が伝わってしまったのか、ふっと息を吐いたようなノイズが聞こえる。
『はい、こんばんは。俺、俺』
「詐欺……?」
『あっは! 返事聞く前にかけてごめんな。都合悪かったか?』
「ううん。こちらこそ返信が遅くてごめんね。どうかした?」
「んや、ちゃんと帰れたかなぁと思って」
「僕の方がこの街に住んでる歴は長いんだから、帰れるよ」
「そりゃそっか。まあ、さっきまで一緒にいたせいか、家に帰ったらシーンとしてるし、なんか無性に土岐の声聞きたいなぁって思ってさ……」
口説くような台詞に言葉を失っていると、新多は「おい、そこで黙るなよ……」と照れくさそうに吐き捨てた。
「僕の声は、新多君みたいなかっこいい声じゃないし、どこにでもいる平凡なものだから」
「え? 俺は透琉の声好き。てか俺の声、カッコいい?」
「あ、ありがとう。新多君の声、駅前の大型モニターで流れてる歌手の声に似てる。男らしいけど、鼓膜に残る甘い感じの」
「あー……そう……茅場なんとかって名前の、よくわかんねぇラブソングばっかり歌ってる人ね」
これまでも何度か似ていると言われたことがあったのか、新多は少ないヒントで歌手名を当て、サビのワンフレーズを口ずさんだ。
その歌声は、元の歌よりも甘く、儚かった。
こんなにも苦しそうな愛を歌う新多は、一体どんな人生を歩んできたのだろうか。
透琉は、無意識に「好きだな……」と呟いていた。
「すげぇ流行ってるもんな、この曲……」
「ううん、原曲よりも新多君の方がいいと思ったんだ。ただ愛してるっていうよりも、自分が求められている気がして、胸がいっぱいになる」
「ほぉん、俺が透琉の愛を求めてるって?」
「い⁉ いや! そういうことではなくて!」
思わず叫びそうになる口元を押さえる。もしかして一階まで聞こえてしまったかもしれない。
電話の向こうからは、くっくっくと笑いを堪える声がする。
「また一つ、好きなもんが見つかったな」
「からかわないで……。それから、ごめん。自宅だとあまり長電話はできないんだ。明日また学校で話そう。それから、友達になってくれてありがとう、嬉しかったです……」
「……ああ。俺も透琉と話せて良かった。明日からも話しかけていい?」
「もちろんだよ!」
「ははっ即答かよ、良かった。んじゃあ、また明日。おやすみ、透琉」
「おやすみ、新多君」
通話が終了すると、元のメッセージ画面に戻った。
また明日、と誰かと約束をするなんて、幼稚園以来かもしれない。
大人っぽくて、それでいて少年のような悪戯めいた笑みを浮かべる同級生の出会いは、自分の人生を大きく変えてくれる、そんな予感がした。
きっと、この出会いが、人生の転機になる――。
透琉にとって、岡崎新多という存在は、希望そのものだった。
翌日から、透琉と新多はともに行動するようになった。
あれだけ派手な取り巻きがいた新多だったが、ただのクラスメイトであって、仲の良い友人はいないのだと言っていた。
少々ドライな物言いであったが、新多が指定する遊び場所のすべてが、人気がなく、静かな場所であると気づいてからは、彼を取り巻く環境は、やはり新多自身が望むものではなく、気疲れることもあるのだろうなと察することとなった。
透琉にしか興味がないと理解したのか、新多に近寄って来る者も次第に減っていった。
春から夏に季節が変わった頃には、塾がない日は、新多と出かけるのが当たり前になっていた。
放課後の三、四時間程度だが、決められたレールの上を無感情で歩いてきた透琉にとっては、とても大きな変化であった。
透琉と新多が親交を深め始めて、二ヶ月が経過した。
二人は、図書館の隣にある植物園を訪れていた。
建物内は十七時までだが、一般開放されている外の公園は、いつでも出入りできる。
遊具で遊んでいた子どもたちももういない。二人きりになった公園のベンチに座って、ただ会話をするだけ。
首元に汗がつう――っと伝う。
衣替えをしてジャケットから半袖のポロシャツになったため、幾分涼しくはなったのだが、夕暮れとはいえ初夏。夜になっても気温はあまり下がらなくなった。
「風が吹くと気持ちいね」
「都会でも夕涼みできるとこは、探せばあるもんだな。昼より元気出てきたかもしんねぇ」
足を組んでポロシャツのボタンをすべて外し、服をパタパタさせて風を送る新多は、同級生とは思えないような色気がある。
「そうだね。なにもないけど、こういう時間がなんだかすごく嬉しいよ」
「なんもねぇのに嬉しいんだ?」
「ああ、なにもないわけじゃないか。隣には新多君がいるもんね」
透琉が恥ずかしげもなく事実を口にすると、新多は照れたのか、口を尖らせて「まあな」と言って微笑んだ。
「それだけ透琉がリラックスできてんなら願ったり叶ったりだわ。最初の頃は、ゲーセンとかもっとアングラなとこに連れていかれるんじゃねぇかって怯えてたもんな。自分で言うのもアレだけど、見た目チャラいし、俺」
「見た目でそう思ったわけじゃないよ! 学校でもずっとスマホを触って何かしていたから、ソーシャルゲームをしたり前の学校のお友達と連絡したりしているのかなと思ったんだ。だから、新多君と話してみるまでは、ゲームセンターや人が多い場所が好きなのかもしれないなって。でもそう思ってたのは、最初だけ」
「連絡……? あー、それ、透琉と仲良くなる前のことだよな? その頃から、俺のこと見てたんだ」
「同じクラスにいるわけだし、新多君が人に囲まれてない時間の方が珍しかったからね。今も、僕と一緒にいていいのかなってちょっと思ってる」
「はあ? いいに決まってるじゃん。一緒にいたいやつくらい自分で選ばせろって」
「そうか、うん……。あ、見て……。こんな明るいのに一番星が見えるよ」
見上げた先には、赤、橙、紫に藍色が混ざり合った空に、ひときわ輝く白い点が瞬いていた。
「うおーすげぇな……。こういうのってタイミングもあるけど、探そうと思わないと、見つけらんないよなぁ。ラッキーじゃん、透琉!」
透琉は、隣の新多に視線を移す。
きらりと光る瞳は、これから夜になるというのに、夜明け前の空を映しているような希望に満ち溢れていた。
きっとこの先の人生で〝青春〟と聞いて思い浮かべるのは、この景色なのだろう。
残りわずかとなった刹那的な自由を嚙みしめて、生涯忘れることのないように、透琉は新多を見つめ続けた。
夏休みは、夏期講習であったり勉強合宿があったりと中々新多に会えなかったが、それでも時間を捻出しては遊びに出かけていた。
二学期が始まる直前に、スケジュールの変更や自宅外での自習が多すぎる、と寿美子から指摘された。
なんとなく新多のことを話すのは躊躇われたので、透琉は、図書館の方が冷房の効きが良く集中できるだとか、学校のグループ課題があったとか、何かと理由をつけて、寿美子との話し合いを避け続けていた。
「どうした。ふっかーいため息なんてついて。受験生かよ」
「受験生ではあるけど、勉強の悩みじゃないよ」
後ろから抱き着かれた透琉は、顎を上げて新多を見上げる。
「嗚呼……なるほど。残念だが、身長はもう諦めな? 俺は透琉のつむじにあご乗せるの結構好きだし」
「チビで悪かったね。そうじゃなくて、最近目の奥が痛くて……。眼下に行ったんだけど、視力は落ちてないんだよね」
「ああ……やっぱ、勉強しすぎとかじゃねぇの?」
「この時期の受験生はみんなそんなものじゃない? むしろ僕らは遊びに行きすぎなくらいだと思う。新多君も卒業後は、親戚の会社に入るっていっても、少し勉強するフリくらいした方がいいんじゃないかな」
「ははっ、フリでいいのかよ。透琉もどんどん不良になってきちゃってんなぁ。俺のせい?」
「新多君のせいじゃない。僕だって元々聖人君主ってわけでもないから……」
「そこが味ってね。たまにチワワからシェパードみたいになるもんな、透琉ちゃんは」
「褒められてる気がしない……」
愉快そうな新多は、透琉の頬を撫でまわす。
新多が高校三年生の春という異例な時期に転校してきたのは、両親の離婚により親戚に引き取られたためらしい。就職先も親戚の家業を継ぐようで、新多には受験生特有の焦りが全くない。
透琉にとっては、過剰に気を遣われるよりも普通に接してもらえた方が楽だ。
正反対に見えて、性格の相性が良い。
会話もストレスがないし、新多と話すようになって、自分はここまでおしゃべりな人間だったのか、と新しい発見もあった。
しかし、一つだけ未だに慣れないことがある。
エスカレートしていくボディータッチに戸惑いながら、透琉は黙ってそれを受け入れる。
両親でさえ手を繋いだ記憶はないのに、新多は当たり前のように透琉に触れるので、ついついありのままの自分を肯定された気持ちになる。それがむず痒いのだ。
新多の隣は安心するといっても、眩暈が治まらない日はある。今がまさにそうだ。
「うっ、ごめん、眩暈が……。ちょっとトイレに……」
「悪りぃ、朝から体調悪そうだったのに。俺もついて行く」
「ありがとう……」
先ほどのスキンシップとは違い、介抱するような手つきで支えられる。
身長差もあるのに、透琉に合わせて腰を落として歩きやすいようにしてくれているようだ。
ぐわんぐわんと揺れる視界でも、それが無性に嬉しくて、透琉は、はあ、と安堵の息を吐いた。
昼休みも残りわずかとなったあたりで吐き気はなくなった。
新多が背中を撫でていてくれたおかげだろう。
トイレを出る前に手を洗っていると、目の前の鏡がピキッと音を立てた。
「えっ?」
透琉が顔を上げた瞬間、鏡に亀裂が入った――ような気がした。
音の発生源である場所を新多が手で覆っているため、確認できない。
「どうしたん、とぉーる?」
いつの間にか後ろから片腕をまわされ、密着しているため振り返ることもできない。
ただなんとなく、いつも以上に新多の声が甘く、これ以上聞いてはいけないと思った。
「な、なんでもないよ……」と答えれば、新多は「そっか」と美しく微笑む。作り物のような貼り付けた笑みは綺麗すぎて、恐ろしくもあった。
鏡越しに合う視線は、嘘を見抜かれたようで居心地が悪い。
透琉は、空気を変えようと、引きつった笑みを浮かべる。
「新多君……?」と呼びかけると「なんでもないよ」と先ほど自分が発した言葉がそのまま返って来た。
日直である新多を教室で一人待つ透琉は、ぼーっと窓の外を見ていた。
校庭にあるイチョウ木の葉も淡く煤けている。冬はもうすぐそこに迫って来ている。
一月には本格的に受験が始まり、春には別れが待っている。
あとどれくらい、あの甘ったるい声で名を呼ばれるのだろうか――。
大学生になっても、就職しても、また並んで空を見上げて語らいたい。
それでも透琉は、受験日が近づくにつれてヒステリックになっていく寿美子を前にして、土岐家が抱える問題と向き合う覚悟が未だに悩んでいた。
「あのう、土岐くん。今ちょっと時間あるかな?」
物思いにふけっている透琉に話しかけてきたのは、クラスメイトの高木綾那だ。
夏休みも夏期講習を一緒に受けた一人で、ずっと透琉に勉強法を聞いてみたかったのだという。
高木と机をはさんで向かい合い話していると、他のクラスメイトも何人か集まって来て、いつの間にか透琉への質問大会になってしまった。
「はぁーあ、こんなに話しやすい人なら、土岐くんともっと早くに話してみれば良かったな。卒業までもうあと半年もないよ」
高木がそう言うと、皆が同意して頷いた。
「すみません。僕、話しかけ難いオーラ出てましたか……?」
「ち、違くて! 土岐くんを責めてるわけじゃないよ! 成績も三年間ずっと一位で、特別に仲が良い人もいないみたいだったから、誰も踏み込んじゃいけないのかな~って、みんな思ってたっていうか……。土岐くんを保護しよう、みたいな暗黙の同盟が組まれていたというか……」
「ど、同盟……? でもなんで高木さんは、今になって声をかけてくれたんですか?」
透琉がわからないと首を傾げると、高木は隣の女子と顔を見合わせて吹き出した。
「それは岡崎くんのおかげかな?」
「新多君の……? でも新多君は僕が一緒にいるせいで、あまりクラスの皆さんと関わらなくなったような気がするんですが……。人気者をひとりじめして、恨まれてはいないんでしょうか?」
「えーッ恨むとかないよ! 岡崎くんといる土岐くんは、良い意味で同級生って感じの顔で笑ったり怒ったりしていて、人間味が出てきたっていうか。それに土岐くんが岡崎くんを私達から遠ざけてたんじゃなくて、逆に岡崎くんが土岐くんを――……」
「高木さん?」
話している途中にも関わらず、皆の視線が教室の扉に注がれている。
視線の先にいたのは、日直の仕事を終えて職員室から戻って来た新多だった。
「おかえり、新多君」
「帰ろう、透琉」
新多は、昼休みのあとから少しばかり表情が暗い。自分も体調が悪いのに、無理をしてこちらを介抱してくれたのだろうか。
心配になった透琉は、急いでスクールバッグを肩にかけると、高木たちに手を振った。
「ごめんなさい。用事があるので、今日はもう……」
「あっ、うん。大丈夫だよ! バイバイ、土岐くんと……岡崎くん……」
高木の声が若干震えていたことも気になるが、今は新多の方が大事だ。
廊下に出ると、透琉は新多の背中を追いかけた。
「お待たせ。新多君、もしかして体調悪い?」
「ああ、いや……。てか、ごめん。他のやつらと話してたのに、邪魔したな」
体調不良ではないと知り安心した透琉は胸を撫で下ろした。
「ううん。新多君を待っている間だけって話だったから、大丈夫だよ。もしかして僕が何かしでかして、みんなから問い詰められてると思ったの?」
「そういうわけじゃねぇよ。ただ、囲まれて困ってるんじゃないかと思って」
「確かにビックリしたけど、新多君と話してる僕を見て、話しかけてくれたみたいだよ」
「どういうこと?」
「ずっと笑わないサイボーグだと思われていたみたい。でも、新多君と一緒にいる僕を見て、人間味が出て来たって。それで話しかけてみてもいいかなと思ったようだよ。新多君のおかげだね」
頬を赤く染めた新多は、目元を手で覆って俯く。
「そっか……。あー最悪……。勘違いで高木たちのことすげぇ睨んじゃった。明日、謝んないとな……」
「僕のこと心配してくれたんだよね。ありがとう。明日一緒にごめんなさいしよう」
「サンキュー。でも、やっぱ、あんま他の人とは、仲良くなんないで……ほしい、かも、的な……」
目元が潤んで、弱った表所の新多を見るのは初めてだ。
胸の奥がきゅうっと絞られるような感覚に襲われる。
「ど、どうして……?」
「だって、透琉の一番は、俺がいいじゃん!」
「一番……。一番の友達ってこと?」
「ああ~ッ! 今のやっぱ無しで! 流石にキツいって、やばすぎ……。ダサい。俺すげぇ重い……」
いつも飄々としていて余裕のある新多が、ここまで弱っているのは初めてだ。
何か嫌なことがあって心が沈んでいるのかもしれない。
透琉は、新多のカーディガンの袖をきゅっと握る。
「心配しないで! 新多君は、ずっと僕の一番だよ! オンリーワンでナンバーワンだから、順位なんて気にする必要ないし、不安になることなんてないよ。それに、前に新多君が言ってくれた意味、今ならわかるんだ……。一緒にいたいやつくらい、自分で選ばせろ――ってやつ。僕が新多君といたいから、いるんだよ」
卒業しても、一緒にいたい人は新多だけ。
自分で好きな道を選ぶには、抱えている問題を解決しなければならない。
これまで避けてきた負債もあるため、寿美子を説得にはそれ相応の時間と気力が必要になるだろう。
「なんだよぉ透琉~! なんか最近どんどんカッコよくなっていくな」
「ふふっ、やった。僕も最近自分のこと、ほんの少しだけど、好きになってきたんだ。新多君といる時の自分が一番自然体なんだと思う。誰かと食べるご飯は、こんなに美味しくて楽しいものなんだなぁって、新しい発見まであってさ。本当に感謝してる」
「俺、透琉の支えになれてんだ……」
「うん。僕よりも僕のことわかってる」
「……それは、俺がエスパーだからだったりして」
新多があまりにも真剣な表情をしていて、透琉は思わず息をのんだ。
トイレの鏡を隠して、なんでもない、と言っていた顔によく似ているし、声もわずかに震えていた。
またからかって、などといつものように受け流してはいけない。新多を傷つけたくはないのだ。
何と答えるのが正解か考えていると、沈黙が恐ろしかったのか、新多が先に口を開いた。
「ごめん、気持ちがわかる覚系の能力じゃない。でも、もし本当に俺に普通じゃない力があったら、透琉は……どうする?」
「ど、どうするも、僕は新多君の隣から離れるつもりは、毛頭ないけど……」
「バケモノでも?」
「バケモノって……。白くて、綺麗で、なんだか少し寂しそうな、はぐれ狼ってところかな? どんな新多君だって、僕がずっとそばにいるよ」
「本当に……?」
「約束する! 僕だって新多君を支えたい。守られるばかりじゃなくて、守ってあげたい。辛い時は僕を頼ってほしい。今日みたいに元気がない日こそ、新多君の力になりたいんだ。どうしたら新多君は嬉しい?」
気恥ずかしくもあるが、透琉は、しっかりと新多の目を見て本音を打ち明ける。
すると、もの凄い勢いで抱きしめられた。
苦しいと言って笑えば、こういう時は抱きしめ返すのがセオリーだと教えられたので、両腕を背中に回して正面から抱きしめ返した。
「感謝してるのは、俺の方だよ……」
頭の上からひとり言のような囁きが聞こえてきた。
透琉が顔を上げて視線を合わせると、新多は目を細めて幸せそうな顔で微笑んでいた。
新多×透琉
青春短編BLです!
溺愛ハピエン予定