第45話 優しさと純真さの魔法と怪獣の咆哮
魔法学舎の話を聞いてから、はや数日が過ぎた。
その間、いろいろと話をした。だがリリの意思は固く、決断を翻すことはなかった。
それでも、みんな前向きに受け入れ……というか、努めて明るく振る舞うようになった。すぐにまた会える。お別れではなく、卒業と思って気持ちを紛らわせているのが実情だ。個人的には、留学にでも送り出す心づもりである。
「こんなにたくさん、もてないでしょ!」
「そんなこと言わずに、全部持っていってほしいな。足りなくなったらすぐに教えてね。大急ぎで補充を届けるから」
俺はリビングで、リリの荷物を整えていた。もちろんエマたちも手伝ってくれている。
これから巣立ちを迎えるこの子には、可能な限り日本の品を持たせたい。衣服や靴をはじめとする日用雑貨や調味料、塗り絵やクレヨンなどを大型のスーツケースにこれでもかと詰め込んでいる。仕送りだって毎週欠かすつもりはない。
ゴルドさんから、『ラクスジットの学舎には獣人の子どもが何人か籍を置いている』と聞いた。なので、友だちを作るのにもぜひ日本の品を役立ててほしい。
心優しくて聡明なリリはすぐ人気者になっちゃうだろうけど、念のためにね……ああ、ダメだ。旅立ちの日をふと想像してしまって、涙が溢れそうになる。大人なのに情けない。
とにかく、ゴルドさんにも日本の品をたくさん融通しつつ、くれぐれもよろしくお願いするつもりでいる。
もしリリがイジメにでも遭おうものなら……俺は、修羅になることも辞さない。
無双の餓狼と恐れられたサリアさんも同様だ。多少無理を言ってでも、状況と行動をこまめにチェックすると決めている。学舎の情報も引き続き仕入れていかないと。
正直、入れ込み過ぎなのは自覚している。
リリたちとは、出会ってまだひと月も経っていない……けれど、俺にとっては大切で堪らない天使の一人なのだ。いつまでだって心配していられる。
「リリ、お友だちはたたいたらいけないんだよ? なかよしできる?」
「わかってる! サリアじゃないもん!」
リリにあれこれ注意しているのは、姉を自認するエマだ。やはり心配でたまらないのだろう。
ルルは、サリアさんと一緒に塗り絵をしている。この子だけは、のんびり平常通り。なんなら、『みんなでどこか遊びに行くのかな』くらいに思っていそうだ。
その日あたりから、うちの獣耳幼女たちはこれまで以上にくっついて過ごすようになった。俺やサリアさんを含め、誰かがトイレに立つだけでも過剰に反応するほどである。
ルルなんて、ほぼ抱えられている状態だ……なんとなく、我が家へ招いた直後の反応を重ね合わせてしまう。
さらにまた数日の間、リビングでアニメや塗り絵を楽しんだ。新たに届いたフェアリープリンセスの絵合わせカードや工作ドリルで遊んだりもした。もちろんサリアさんも大興奮していた。
どこにも出かけず、ただのんびりと。
それでいながら、一刻一秒すらも惜しむように。
俺たちは温かいリビングでひと塊になって、少しでも多く楽しい思い出を残せるよう丁寧に生活するのだった――そんな穏やかな、ある日の午前。
ゴルドさんから、『魔法学舎の手配が整った』という知らせを受ける。
ついに、リリの巣立ちの日が決まったのだ。
それ以降、エマはもうひと時もリリから離れようとしなかった。トイレの中にもついていくほどで、寝ている間もずっと一緒だった。
そして、また幾日かが過ぎ。
とうとうリリが魔法学舎へ旅立つ、前夜が訪れてしまった。
オレンジの常夜灯が灯るリビングには、すうすうと複数の寝息が漂う。夕食時にささやかながらも卒業パーティーを開いたので、その時ばかりはみんな大はしゃぎしていた。そのおかげか、よく眠っているようだ。
一方、俺はまるで寝付けなかった。いったん受け入れたはずの答えが、ずっと心でから回っているような気がして……布団の中で『本当にこれでいいのか』と自問自答を繰り返していた。
と、そんなとき。
掛け布団がもぞもぞ動き、胸元から狐っぽい獣耳がちょこんと姿を現す。
どうやら、俺の思考を独占する張本人が潜り込んできたらしい……案の定、懐を覗き込めばリリの黄金色の頭が目に入る。
「起きちゃった?」
「うん。なんかおきた」
「じゃあ、このままもう一回寝ようね」
俺は優しく声をかけ、その頭を撫でて眠りへと誘う。
さわさわと、尻尾がゆっくり動く気配を感じた。
「サクタロー……リリね、マホウできるようになるよ。でね、フェアリープリンセスみたいにみんなをまもるの」
「そっか、頼もしいね。リリはきっとすごい魔法使いになるよ」
「うん。でもね、エマとルルはおうちにいるでしょ? マホウできるようになるまで、サクタローがまもってくれる?」
リリは、姉妹のことが気がかりで仕方ないらしい――まるで初めて出会った日の再現だ。あのときも、自分ではなくエマの心配をしていたね。
なんて力強くも無垢な決意だろうか。
たちまち込み上げてくる涙をこらえ、俺は無理やり笑顔を作って答える。
「約束する、絶対に守るから。リリも、いつでも戻ってきていいんだよ。辛かったらすぐに帰ってきてね」
「もう、ちゃんとしないとダメでしょ」
「いいんだよ。リリはとっくに、すごい魔法を使っているんだから」
それはね、優しさと純真さの魔法だよ。
凝り固まった人の心をあっさり解きほぐしてしまう。世界でもっとも尊く、神様にだって真似できない奇跡の力だ。
「サクタロー……あした、カレーたべたい」
「うん。一緒につくろうね」
リリはささやかなお願いを口にして、俺の胸に顔を埋めた。
その頭を撫でながら、静かに瞳を閉じる――こうして、ひっそりと切ない余韻を残しながら夜は更けていく。
***
リリが魔法学舎へ出発する当日の朝は、少し早めに起きてカレーを作って皆で食べた。
いつも通りの食卓だ……けれど、エマはふとした瞬間に寂しそうな表情を見せる。
食後はまたのんびりと過ごしつつ、最終の荷物チェックを行った。
それから時刻が昼前に差し掛かると、揃って廃聖堂へ移動する。そのまま外へ出たら、ゴルドさんたちが挨拶とともに出迎えてくれた。
魔法学舎までリリを送り届ける役を引き受けてくれていたのだが、すでに到着して待っていてくれたらしい。敷地の入り口には普段見かけるものより立派な馬車が停まっており、降り注ぐ陽光を鮮やかに反射していた。大きな馬の二頭立てだ。
見送りの時が間近に迫り、いよいよもって切なさが込み上げてくる。
大人のクセに、本当に情けない。一番さみしいはずのリリは、しっかり前を向いて立っているというのに……思わず右手をきゅっと握りしめ、そこにある小さな手のひらの感覚を確かめた。
「そう落胆なされるな、サクタロー殿。このゴルドが、しかと取り計らうゆえ――我がベルトンの名に誓い、リリ嬢の安全を保証いたす」
自分が絶対に悪いようにはさせない、とゴルドさんは請け負ってくれた。学舎にも伝手があるそうで、逐次報告をしてくれるという。
加えて、この国において『家の名誉を賭けた誓い』は何よりも重いそうだ。スーツケースを運ぶサリアさんが、そう教えてくれた。
俺は少し安心しながら、両手をゆっくりと空けた。
すると互いを求めるように、自然とひとつに寄り添う幼女たち。ひとときの別れを前に、しんみりとした切なさを湛えて見えた。
「リリ……ほんとうにいっちゃうの?」
「だいじょぶ。マホウできるようになる。でね、かえってくるの」
ぎゅっと抱きしめ合うエマとリリ。
きらり、流れ落ちる涙が陽光を受けて煌めく。
チャーミングな獣耳と尻尾も、しょぼんと垂れ下がってしまっている……そんな二人の真ん中にルルも挟まれ、ぎゅっとされている。しかしやはり理解が追いついていないようで、不思議そうな表情を浮かべていた。
それからまた少し言葉を交わすと、リリは不意に一歩後ろへ下がって距離を取る。続けて、とびきり明るい声を発した。
「エマ、ルル、サリア、いってきます! サクタロー、やくそく! みんなまもってね!」
「うん、絶対に守る。もちろん、リリもだよ。またすぐに会おうね」
にこり、と。
ひときわ可愛らしく微笑んでから、リリは踵を返して遠ざかっていく。
俺たちはここまで。貴族街や魔法学舎へ入る許可が下りなかったのだ。あとはゴルドさん一行にお任せするしかない。
涙をこぼさぬように、瞳にぐっと力を込める。
左に立つエマ、右に立つルル。その小さな手をしっかり握りしめ、去りゆくリリを見送る――そこで、右腕をぐいぐいと引かれた。
見れば、ルルが焦燥感の滲む顔をこちらへ向けていた。なんで止めないの、とでも言いたげにジタバタ足を動かしている。
「あのね、ルル……リリはね、学舎へ魔法のお勉強に行くんだよ」
ここにきてルルは、ようやく何が起きているのかに気づいたらしい……リリが遠ざかるにつれ、ジタバタが激しくなっていくのがその証拠だ。
そして焦りがピークに達すると、今度は両手でぐいぐいと。まるで、初めて異世界へ誘われたときの再現だ。
でもね、今回は――と俺が説得を続けようとした、次の瞬間。
「ぎょわぁぁあああぁぁあああああああぁぁぁあああぁぁああああ――」
怪獣の咆哮が突如として轟く。
いや、違う――これは、ルルの泣き声!?
まさか喋れるように……と驚く暇もなく、俺とエマは戸惑いながらも足を動かす。ルルが手を繋いだまま、急に駆け出したのだ。びっくりしたリリの顔がぐんぐん近づく。
「リ゛リ゛、ぎゃわああぁぁああああっ!」
「わっ、おこえでるの!? もうっ、もう! ルルはおバカなんだから! サクタローとエマのおはなし、きいてなかったんでしょ!」
「リ゛リ゛、いっじょいるのっ!」
「リリ、いっちゃやだ!」
距離が縮まるや、ルルは縋り付いてわんわんと泣き声を上げた。つられてリリも泣き出し、同じく涙をこぼしたエマが覆いかぶさり、三人でひと塊となる。
これもまた、初めて会った日の光景と重なった。
ああ、俺は大馬鹿者だ……この子たちが、どれほど強く互いを思い合っているか分かっていたはずだろ?
いつまで保護者でいられるかとか、自分勝手がどうとか、異世界の常識だとか、大事なのはそこじゃない。何があっても、この三人を引き離しちゃいけなかったんだ。
ならば……腹を括れ、伊海朔太郎。
この先ずっと、獣耳幼女たちの庇護者でいる。そのためであれば、異世界に骨を埋めることも厭わない――そんな覚悟を今すぐ固めろ!
「申し訳ございません、ゴルドさん。この話、撤回させていただけないでしょうか! どうかお願いします!」
俺はその場で土下座した。手配を頼んでおいて、自分から反故にしたのだ。他にも可能な限り償いをしなければ……しかし今の自分に示せる誠意は、これが精一杯。
すると思いが通じたのか、自分の両肩にそっと手が置かれた。
「私こそすまなかった……童女らを引き離すような提案をしてしまった! すまぬ、すまぬ、うぬおぉぉおおお――」
顔を上げれば、膝をつき号泣するゴルドさんの顔が視界に飛び込んでくる……この反応であれば、謝罪が受け入れられたと考えてもいいだろう。
続いて俺が上体を起こすと、すぐに幼女たちが懐へ飛び込んでくる。それからまた、みんなで『一緒にいたい』とわんわん泣いた。
「サクタロー殿、いったん聖堂へもどろう」
穏やかに微笑むサリアさんに促され、俺たちは揃って廃聖堂へと引き返す。
こうして、俺は土壇場ですべてを台無しにする不義理を犯した。それと引き換えに、失ってはいけなかった絆を手繰り寄せたのである。
***
ゴルドさんに土下座してから、はや数日が経つ。
俺たちは、みんな揃って楽しくも心安らぐような生活を送っていた。
あれ以来、リリは魔法学舎のことを口にしなくなった。妹のルルの縋り付く姿に思うところがあったのだろう。エマもニコニコで、以前にましてお姉さんぶりを発揮してくれている――そんなある日の昼下がりのこと。
「じゃあ、準備はいいかな? 頭にかぶった帽子やフードは絶対に取っちゃダメだからね」
獣耳幼女の三人とサリアさんが、我が家のリビングの中央に佇んでいた。
みんな新しい服を身にまとい、帽子やフードを被っている。夏実ちゃんのお下がりではなく、正真正銘の新品だ。さらに大きめの上着を羽織っているので、尻尾もいい感じに隠れている。
パッと見は普通の人間と変わりない。たまに獣耳がピコピコ動く程度だ。遠目からだったら、まず気づかないだろう。
とにかく、なぜこんな格好をしているのかと言えば――俺は、バッとリビングのカーテンを開く。その途端、差し込む陽光が室内を明るく照らす。
実は、これから庭に出て少し遊ぶつもりでいる。
この先、きっと皆でいろんな所へ出かける。だから、日本の空気に慣れてもらおうと思ったのだ。何より、ずっと室内で過ごすのは不健康だしね。
「さあ、靴を履こうか。さっきも言ったけど、俺とサリアさんの目の届く場所にいてね。急に走り出すのもナシだよ」
しっかり念を押してから、俺はテラスドアを大きく開け放つ。同時に冷たい秋風が吹き込んできて、温かな室内の空気と混じり合う。
幼女たちは探るように外へ顔を出し、鼻をクンクン動かしていた。もしかしたら、ラクスジットと匂いが違うのかもね。
次いで準備しておいた靴を履かせ、みんな揃って庭の芝生に一歩を踏み出す――多分、異世界人が初めて日本に降り立った瞬間だ。記念に写真をたくさん撮ろう。
「わあ~! あかい!」
「ねぇ、これなに?」
庭から望む秋の山々に圧倒されるエマ。
どこからか舞い込んできた楓の葉を拾い、不思議そうに眺めるリリ。
そして、ちょこんとしゃがみ込んで――
「ん、むしいる! エマ、リリ、むしさんいる!」
ルルが、興味津々で地面の虫を観察していた。
あの日、驚くほどの咆哮を上げて以来、すっかり声を出すようになった。口数は多くないものの、症状は回復したと見ていいだろう。もしかしたら生命薬の効果があったのかもね。
「三人とも楽しそうだな」
「うん。はしゃぎすぎて怪我しないか心配だよ」
幼女たちはすぐに普段の活発さを発揮し、笑顔で芝生を転げ回りはじめた。
サリアさんと俺はガーデンチェアに腰掛け、そんな愛らしい様子を見守る。
やがて体が冷えてきたので、水筒で用意したホットココアを自分のコップに注ぐ。すると、たちまち三人とも集まってきて『飲みたい!』の大合唱が響く。
ここ最近、甘いココアが大のお気に入りなのだ。
リクエストにお応えし、それぞれのコップを満たしていく。それから、自然と体を寄せ合ってひと休みする。
「サクタロー、あっちおおきい」
ココアをひと口飲んだルルが、紅葉に染まる山々を指さして言う。
そうだね、大きいね――だけどキミたちには、もっと大きくてどこまでも広がる未来が待っているんだよ。たくさん食べて、ぐんぐん成長してね。
「サクタローさん、くすぐったい!」
「ねぇねぇ、なんでお山あかいの?」
「りんご、あかい」
「じゃあ、あの山は全部りんごなのか? ジュースがたくさんできるな!」
エマ、リリ、ルル。三人の頭を撫でながら、ほのぼのとした会話に耳を傾ける。ついでに、「アレはりんごじゃないよ」と訂正しておく。じゃないと、サリアさんが大量に切り倒しかねない。
ともあれ、今がずっと続けばいいのに、と思うくらいには幸せで心は満ちていた。
問題はいくつも残ったままだけど、この穏やかな光景を手放したくないと強く思う。何より、まだまだ始まったばかりなのだ。
あの虹色ゲート(神の抜け道)に関しても、『仮に消えるのなら何か予兆があるのでは』とサリアさんが言っていた。ならば、時間にもまだ余裕があるはず。
それにしても、まったくもって不思議な話だ。
こんな素敵な体験をしている地球人は、おそらく俺くらいのものだろう。せめて、きちんと記録を残しておくべきだろうか……だとしたら、そうだな。
我が家と異世界が繋がり、獣耳幼女たちのお世話をすることになった件――こんなタイトルをつけるのはどうだろう。
ひゅうっ、と冷たい風が吹く。
もうじき冬がくる。けれど、今年はいつもより温かいに違いない。
そうだ、美味しいシチューをたくさん作ろう。グラタンや鍋物もいい。すき焼きなんて出したら、きっと大喜びするだろうな。
いろいろな料理のレシピを思い浮かべながら、澄み渡る秋の空を見上げた。
明日はもっといい日になる――獣耳幼女たちの無邪気な声が傍らで響く度に、俺はそんな予感を抱かずにはいられなかった。
でも、その前に今日の晩ごはんを決めないとね。
さあて、みんなは何が食べたいかな?
第一章:完
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