湿地の向こうの世界
この湿地には、だいぶ年老いた、のんびりと暮らすおばあさんと、溌剌と動き回る、小学生くらいの少年がいた。
彼らは、それぞれ名前を、ミヤコ、ハルヤと言った。
この湿地のちょうど真ん中のあたりに彼らの家はあって、かつて米国の西部開拓者が住んでいたような家になっている。
ただ、この湿地を取り囲む地平線には、幾棟も高層ビルが林立していて、彼らの家
の雰囲気とは少し違う光景だ。(どちらもそれぞれの良さがある。)
今、少し前方に溌剌とした姿で湿地帯を歩く、小学生くらいの男の子が見える。
何かを凝視しているようだ。
凝視の対象は動いている。目線が時々、揺らめく。
彼は、対象を捕まえようとした。
だが、逃げられてしまった。飛んでいってしまった。
対象はトンボだった。
パンを焼くにおいがする。もうお昼時だ。
湿地にある小さな家から、温かい声が聞こえた。
「もうご飯ですよ。」と。
ー昼食を終えてー
昼食を終えて外に出ると、離れの小屋から、黒い砂粒のようなものが縦横無尽に動いているのが見えた。
しかし、段々と、その狂乱した動きから人間の手の形に変化した。
やがて、その「手」は「手招き」をハルヤにした。小屋の扉が開いた。
「黒い砂」はハルヤを取り囲み、小屋の中へと連れ去った。
ー小屋の中ー
いつもの小屋の中は、小麦や古びたベッドが置いてあって、郷愁をやや感じる空間となっている。
だが、今、ハルヤに見えるのは、ただ沈黙の空間。
時々、光るランタンが見える。
やがて、「黒い世界」に亀裂が入り始めた。
亀裂が終わった時、ハルヤは植物園のようなところにいた。
そこは、透き通ったガラス板で囲まれていて、時々、カモシカや狼、カバやゾウが見受けられた。
「こんにちは。」
民族衣装を身に着けたインド人と思われる女性が声を掛けてきた。
「こんにちは。ここはどこですか。元の世界に戻りたいです。」
「元の世界ですって。世界というのは、ここが唯一のものですよ。」
「違うんです。私は、本当に黒い砂粒みたいなのに吸い込まれてきたんです。」
「えっ。」
女性は、胸を抑えるような仕草をして倒れた。
そのとき、ハルヤの頭の中で全宇宙に響きそうな轟音がした。そして、物凄い頭痛がした。
「あの、大丈夫ですか。」
ハルヤは女性に声をかけた。
「はっ。」
女性が起きた。
「ハルヤくん、もうあのことを喋ってはいけないよ。」
「なぜ私の名を。それに、なぜそれについて喋ってはいけないのですか。」
「説明する。だから、まず、この話を聞いて。貴方の世界の『科学』というものでは、説明がつかないかもしれない」けど、ここは悪魔が支配する世界なの。」
「でも、貴方を何とか元の世界に戻したい。うっ。私は刺殺されるけどね。」
彼女の、この発言を聴いて、優しいハルヤは、死への歩みを止めようとした。
「そんなこと、しなくていいよ。痛みを伴う死はただの辛苦だ。そんなことになるくらいなら、私がこの世界から痛みなく消えてしまった方が良い。」
「ハルヤくん、こんな状況になったのは、私の、知性が欲しい故の欲のためなの。だから、お願い。自分の責任は自分で取りたい。」
「で、でも、、、」
ハルヤは、返す言葉がなかった。
その日の夜、ハルヤは、植物円の外にある砂丘にあるテントで過ごしていた。
ー一体、この世界は何のための世界なんだ。
なぜ、あの女性は、私にここまで親身なんだ。なぜ。なぜ。なぜ。ー
考えれば考えるほどに、彼は、疑問の底なし沼に落ちていき、やがて、夢の岩石に辿り着いた。
ー翌日ー
ハルヤは、植物園のようなところのタンクから汲んできた水で顔を洗っていた。
不思議と、昨日の、疑念の数々はきれいさっぱりと消えていた。
ー外に出てー
顔を洗って外に出ると。昨日はなかったはずの十五株程度のサボテンが生えていた。
この現象にハルヤが驚いていると、あの女性が歩いてきた。
「ハルヤ君、あのサボテン達は懊悩の固まりだよ。触らない方が良いし、見るのも本当はやめておいた方が良い。頼まれてもいないのに下手にいじると、誰かの気持ちが決壊してしまう。」
「懊悩?なぜあの一帯に懊悩の塊があるのですか。」
「この悪魔の世界は、悪魔の取引を通じて君たちの世界へと繋がっている。そういう人間の殆どは、悪魔の取引を通じて、他人を陥れようとする。その行動を誘発するのが苛立ちや妬みだ。そして、それらの感情の根底にあるのが懊悩なのだよ。」
「サボテンは美しいはずなのに。」
3日後、ハルヤと女性は、ハルヤの送還を実現すべく悪魔の宮殿へと向かった。
宮殿では、人間送還の儀式が行われるらしい。
二千里の砂漠を越え、千里の森を抜け、どこまでも続く河を遡上した先に宮殿はあった。
宮殿は擬洋風建築で、門に日本の意匠が入っていたり、屋根にフランスの意匠が入っていたりした。
門番に用件を伝えると、開門してもらうことができた。
開門されると、極楽浄土のような景観の日本庭園が広がっていた。
ハルヤが少し驚いていると、どこからか話す鶏がやってきた。
「ようこそ。宮殿へ。初めてだと驚きましたよね。何しろ、極楽浄土のような庭園が広がっているのですから。これはですね、様々な思想の多様性を表しているのです。」
「そうなのか。」
ハルヤ達は、鶏を置いて歩き出した。
「待ってくださーい。」
ー悪魔の宮殿にてー
「陛下、お話があります。」
女性が言った。
その瞬間、悪魔の皇帝がいる舞台を隠すカーテンが上げられた。
「何じゃ。」
皇帝は、どこか温かみのある声で言った。
「ハルヤを送還して欲しいです。」
「なぜじゃ⁉」
「ハルヤは、私の欲のためにこの世界に来てしまいました。」
「しかし。」
「覚悟は十二分にできています。」
「うむむ、分かった。」
女性は、刺殺され、ハルヤは元の世界に一人佇んでいた。