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【信じていたら、きっと未来は】

「皮肉な話だね」 


 シェルドの話を聞き終えると同時に、呟きがこぼれて落ちた。自然と口をついて出た、という表現がぴったりだった。


「私が母親を失った理由も、シェルドが母親を失った理由も、まったく同じものだったんだね。……だから、シェルドがこの世界に来た気持ち、よくわかるよ。もし、あの日に戻れるのなら、私だって戻りたいってそう思うし」


 けれど、それはもう、叶わないことだから。


「ごめんね。何度も母さんのことを殺していて」

「いいよ。それ以外に、打つ手がなかったんでしょ? ……私の中にある邪悪な魂によって、何度もやり直せていたのだから、ある意味、『彼女のおかげ』なのかもしれないけどね」

「そうでもないよ。同時にこの悲劇の大元でもあったんだから」


 苦笑したシェルドに、それもそうだなって思う。


「さっき言っていた、シェルドが邪悪化してしまう未来というのは、もう決まっているものなの? それは、変えられないものなの……?」


 当惑した顔で、シェルドは眉をひそめた。言いづらいのはよくわかる。


「まだ確定している未来ではないから、絶対とは言い切れないけど、このまま打つ手なしでいたら、いずれはそうなると思う。変えられるなら僕だって変えたいけれど、そんな方法があるのかはわからない」

「そっか」


 考えてみた。私は、シェルドによって救われた。それなのに、寿命を削ってまでこの世界に来てくれた彼に、私は何もできていない。こんなことで、いいのだろうか。


「ねえ、シェルド。いくつか確認をさせて」

「ああ、いいよ」

「シェルドは、私の中にある奈落の君の魂を消すために、この時代に来たんだよね?」

「そうだよ」

「この時代に来るために、寿命の何割かを対価として差し出した。そうなんだよね?」

「そうだよ」

「じゃあ、これが一番大切な質問。退魔の力を使ったら、シェルドはどうなってしまうの? 命の危険があるんじゃないの?」

「それは……」


 困ったように顔を伏せて、それきりシェルドは口を噤んだ。長すぎるその沈黙が、暗に肯定を示していた。


「やっぱり、そうなんだね? ダメだよ、そんなの。私のために命を捨てるなんてダメ!」

「……まだ、死ぬと決まったわけじゃない」

「けれど、助かるという保証もないんでしょ?」


 再びの沈黙。「確かにない」と呻くように彼は言った。


「だけど、このままでは母さんは死んでしまうんだ。僕のために」

「でもそれは、何十年も先の話なんでしょ?」

「確かにそうだけれど、確実にくる未来だ。だから変えなくちゃならない」

「他に、変えるための方法はないの?」

「わからない……。けれど、今ここで僕が力を使えば確実なんだ。少なくとも、母さんが死ぬことはなくなる」

「いいよ」

「え?」


 即決した。迷いは、なかった。


「私なら死んでもいい。何十年か先にたとえ死ぬことになるとしても、それまでの間生きられて、その上シェルドとも出会えるなら本望だよ。……だから、バカなことは言わないで。今、力を使ったら、たぶんあなたは死ぬ。そっちのほうがダメだよ」

「強情だな……母さんは」

「当たり前でしょ? 人の命がかかっているんだから。大丈夫、どうにかなるよ。私はこの先の未来を知っているもの。知っているのだから、きっと未来は変えられるよ!」


 シェルドだって、私の運命を変えてくれたしね。確定している未来なんて、そんなのつまらないじゃない。


「わかったよ、力は使わない。母さんが僕の運命を変えてくれることを願うよ」


 あっけらかんとした声で、吹っ切れたようにシェルドが笑った。


「わかればよろしい。それはそうとして、さ」

「うん?」

「これから、シェルドはどうなるの? ……いや、いつまでこっちの世界にいられるのかなって思ってさ」

「うーん……そうだなあ」


 心の奥底に、確かにひとつの感情がある。ずっと満たされることのなかった、そして、これからも満たされることのないであろう感情が。存在を意識すると、それは身を焼き滅ぼすような熱さへと変わっていく。

 私は、その感情から目を背けた。心の奥底に鍵をかけて仕舞いこんだ。これは、時と共に消えていく感情だから。雪が溶けるように、いずれはかなく溶けて消えていく。そういう類のものだ。どうか、そうであってほしい。


「おそらく、あと二、三日ってところだろうね」

「……そっか」


 目を閉じる。この一ヶ月間のことを追想してみた。ずっとかたわらにいてくれて、私のことを守ってくれた彼に、できることは何かないのだろうか。


「最後に、どこか行きたいところはない?」

「行きたいところ?」


 腕を組んで、うーんとシェルドが考え込んだ。


「ラテルナの街が一望できるあの丘にもう一度二人で行きたい」

「ああ、あの場所かあ……」


 外は、とっぷりと日が落ちていた。あいにく、今日は無理だろうか。


「でも、今日はちょっと無理だね。明日はどうかな。あのときみたいに、カレッジをさぼってさ」


 そいつはいいね、とシェルドが愉快そうに笑う。


「ねえ、シェルド」

「……ん、なに?」


 もうしばらくこの温かい空気の中に浸っていたかったのだが、意を決して口を開いた。今を逃せば、もう伝える機会はないだろうから。


「私ね、あなたのことが好きだよ」

「……え?」


 少し逡巡する仕草を見せたのち、「僕も」とシェルドが呟いた。


「ほんとに?」

「もちろん。……でも勘違いしないでね。これは親子としての愛だから」

「そうだね。……私も、そうだよ」

「最後に、キスをしてもいいかな?」


 少し驚いたけれども、拒む気にはなれなかった。たぶん、これが最後になるだろうから。


「いいよ。親子としてのキスも、悪くないかもね」


 そっとシェルドが私の肩をつかんで引き寄せた。優しく触れるだけの、それでいて情熱的な口づけだった。

 シェルドの指先が、制服の上から私の胸にそっと触れる。心臓に直接触れられているみたいで、胸が苦しくなった。

 鼓動が、いつもより激しくなっているみたいだ。触れられている場所が強い熱を持ち始めて、それから急速に冷えていく。激しくなっていた鼓動が静かになって、波立っていた心までがすっと凪いだ。高揚感の波が、引き際にごっそりと私の中から何かを削り取ってしまったようだった。

 ――いや、そうじゃない。本当に何かが削がれた?

 唇が離れた瞬間、彼の身体がぐらりと傾いた。そのまま倒れ込むようにして床にうずくまる。


「シェルド?」


 返事はない。荒い呼吸が聞こえるのみだ。触れた額は異様に熱く、汗ばんでいるようだった。


「シェルド!? 今、何をしたの? ……まさか」


 突然胸を抑えて、彼が苦しみだす。そこで私はようやく異変に気が付いた。


「能力を、使ったのね?」


 どうやって。いつの間に。


 ――ご、ごめん。ひどいことをした。


 以前の世界で、キスをしたあとに後ろめたそうに苦笑したシェルドの姿を思い出す。

 今思えば、このときのキスはいささか唐突すぎた。短絡的で、後先考えていない行動でどこからしくないなと思った。

 ああ、もしかしたらあれがそうだったのかもしれない。

 短絡的な行動を恥じているのだと思っていた。だが、あれが臆病な自分を恥じてのものだったとしたら。

 彼の覚悟は、あのときすでに固まっていたんだ。

 あれは、ぎりぎりのところで怖気づいたことに対する自虐だったんだ。


「もしかして、キスをすることが、能力発動の条件なの?」


 額に脂汗を滲ませながら、シェルドは頷いた。

 退魔の力は、自分には使えないのだと父さんが言っていた。それはこの発動条件のせいだったんだ。


「……そうだよ。どう説明したところで、母さんは首を縦に振ってはくれないだろうからね」

「バカじゃないの? 命を粗末にするなと私には言っておきながら、なに勝手なことしてんのよ……!」

「いいんだよ。元々この命は、母さんの命を吸ってつないだものだ。……それを、返しにきたと思ってくれたらいいんだ」

「嫌だよ。そんなの嫌だよ!」


 横たわったシェルドを膝の上に載せて、細い指先を握った。握った彼の指は氷のように冷たくて、もうすぐこの命が終わることを告げているようだった。


「うまく、力を使えたかな? ……実のところ、使ったのはこれが初めてなんだよね」


 うすく笑ってみせた彼の唇は、すでに土気色だった。


「こんなときに冗談なんてやめてよ……」

「笑って」


 彼の手が私の頬に伸びてくる。


「最後くらいは笑った顔を見せて。……僕なら平気だよ。最後に親孝行ができてとても嬉しい気持ちなんだ」

「望んでいない。こんなのは」

「最初に言ったでしょ? レイチェルに謝ることがあるって」


 シェルドの体が少しずつ光を帯びていく。ぼやけた輪郭線が、辺りの景色に溶けていく。私の頬に伸ばされていた手が、するりと床に落ちた。


「もう、時間みたいだ」

「バカなこと言わないで。私を殺して。もう一度、一ヶ月前まで戻ってやり直そうよ」

「それこそバカなことだよ。命がけの親孝行を無駄にしないで」

「でも……」


 泣いている間にも、シェルドの姿はどんどん薄くなってくる。心なしか、触れている感触までが希薄になってきたようだ。

 嫌だ。こんなの嫌だよ……!


「約束して。前を向いて生きていくと。もしかしたらこれで未来が変わってしまって、僕と出会うことがなくなるかもしれないけれど、それでも後悔しないで。僕は、幸せだったから。僕の人生に、悔いはひとつもないから」

「当たり前でしょ」


 空気と同化し始めた彼の頬に手をそえる。


「後悔することなんて許さないから。……大丈夫。私は強く生きるよ。強く生きて、命をかけて私を守ってくれたあなたを、今度は私が守るから。信じていれば、きっとまた会えるから」

「そうだね」


 ――信じていたら、きっと未来は正しい方向に導かれる。


 その声を最後に、彼の姿は完全に見えなくなった。

 窓の外は宵闇で、談話室の壁にかかっている時計が静かに時を刻んでいた。

 部屋には私だけが残されていて、何事もなかったかのように辺りには静寂が満ちていた。

 シェルド、と名前を読んでみる。私は確かに彼のことを覚えている。

 未来から来た私の子ども。

 自分の子どもにこんなことを言うのは間違っているのかもしれないけれど、私はあなたのことを愛していました。

 目を覆い始めた涙を拭って、私は天井を見上げた。彼のことをそっと思った。

 未来で、待ってて、と。


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