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【苦しい時は鼻をも削ぐ】

 六月一日。寮対抗魔法合戦の日。

 この日は今回も昼過ぎから激しい雷雨となって、午後からの競技は大半が変更や中止を余儀なくされた。神様が決めた世界の流れには、誰も逆らえないのだ。

 この日私は、西棟の最奥にある談話室で、とある人物と待ち合わせをしていた。

 談話室で待っていてほしいと私に告げたのは、今回はプレアではない。シェルドだった。

 談話室の扉を開けると、シェルドは窓の外を見ながら椅子に座っていた。部屋の中央にあるテーブルの上には、紅茶の入ったティーカップがふたつ置いてあった。

 私の分までシェルドが淹れておいてくれたのだろう。

 かつての世界のことを思い出し、目頭が熱くなった。

「ごめん、待たせたかな」とシェルドに告げると、「いや、そんなには」と彼は答えた。


「雨、止まないね」


 あのときも、プレアにこんなことを話しかけたかなって思う。


「そうだな。このまま、日没近くまで降り続くことになるからね」


 私は、シェルドと向かい合わせになるようにして、テーブルを挟んで座った。

「それで話って?」と用件を訊ねると、「ああ」と彼は頷いた。ティーカップを手に取りながら、私に向かってこう言った。


「レイチェルに、謝りたいことがある」

「謝りたいこと?」


 シェルドは紅茶を一口すすったあと、ティーカップをテーブルに置いた。その目はどこか遠くを見つめている。


「もう、気付いているかもしれないけれど、僕はレイチェルの子どもなんだ。プレアとは違って、レイチェルが邪悪化しなかったほうの、正しい未来のね」

「うん、知っていたよ」


 私はシェルドの目をまっすぐ見つめた。


「やっぱり、そうだよね。……なら、話が早いな」

「君は、これからどうするの? やっぱり、元の時代に戻ることになるの?」

「そうだね。そうなるんじゃないかな。……いずれにしても、この学校は去ることになると思う」

「そっか。だよね」


 プレアと同じように、シェルドもいなくなってしまったら、みんなに忘れ去られてしまうのだろうか。それは少し寂しいことだなと思った。


「シェルドはプレアのことを知らなかったんだよね? なら、四月にくる必要はなかったんじゃないの? もっと早いタイミングで来ていれば、スムーズに事を進められたんじゃないかと思ってさ」

「どうなんだろうね? それも含めて、神様の意思だったのかもしれないね」

「神様、か」


 そういえば、プレアも同じようなことを言っていた。私は信心深いほうではなかったが、さまざまなことを目の当たりにして、神様がこの世界を見守っていると、最近は感じられるようになった。


「僕の話を、少し聞いてくれる?」

「うん、いいよ。ぜひ聞かせて」


   * * *


 強くて、優しくて、聡明で。けれど、自分の力を決してひけらかさない母さんは僕の誇りだった。

 だから、認めたくなかったんだ。

 母さんが死んだことを。


 それは、僕の十六歳の誕生日のことだった。心の中に、突然誰かの声が聞こえてきたのだ。それは若い女の声で、一本芯が通っているというか、落ち着いた声音だった。何を言っているのかわからなかったけれど、好意的ではなかった――と思う。とにかく、とても怖かった。

 だって、そうじゃないか。自分の中で他人の声がするんだ。そんなの誰だって怖いに決まっている。

 何かに、体を乗っ取られているのか?

 それとも、自分の頭がおかしくなったのか?

 耳を塞いでも、布団を被っても、鼓膜の内側から声が響いてくるのが怖かった。

 それが数時間ほど続き、あるところから僕の記憶がぷっつりと途絶えた。

 目を開けると僕は自室のベッドの上にいて、窓から蜂蜜色の日が差していた。時刻はどうやら夕方で、ベッドの傍らには父さんが立っていた。

 あれほどうるさく聞こえていた『誰かの声』はしなくなっていて、僕は助かったのだとそう思った。


「母さんは?」


 部屋の中には父さんの姿しかなくて、それを不審に思い僕は訊ねた。

 沈痛な面持ちで眉をひそめて、それからゆっくりと父さんは首を振った。


「どういうこと?」


 何度訊ねたところで父さんは首を縦に振ってはくれない。重力に引かれるみたいに、ただうなだれているだけだ。

 父さんのその反応で僕は理解した。おそらく、僕のせいで母さんは死んだのだと。もう、この世界に母さんはいないのだと。

 どうして! と取り乱したように僕は父さんを問い詰めて、そこで眠っている間に何が起きたのかを聞かされた。

 僕の体の中には、奈落の君の魂が眠っていたこと。

 奈落の君の魂が覚醒しないよう、右手にいつもはめている指輪が抑えていたこと。

 だが、十六歳の誕生日を迎えた今日、膨れ上がってきた奈落の君の力を抑えていることができなくなったこと。

 なぜ十六歳だったのか。明白なことはわからない。


 この世界では、十六歳になると潜在的に持っている魔力の量が急激に増すと言われている。それは、僕だけではなく、体中で眠っていた奈落の君にしても同じだった、ということなのだろう。

 心の中で声がしていた理由がわかった。自分が短い間だけとはいえ、奈落の君の魂に体を明け渡したのもわかった。

 それなのに、なぜ僕は生きているのかだが――。


「母さんが、助けてくれたんだよ」


 母さんは、退魔の力を持っていた。どんなに強力な魔族の力でも浄化することができるというその力を用いて、今まさに覚醒しようとしていた奈落の君の魂を消し去ってくれたのだ。

 ただし、この力を用いるためには対価が必要だった。

 浄化する存在が強力であればあるほど、対価は大きくなる。

 その対価とは、使い手の寿命。

 僕を救うために、母さんは自らの命を散らしたのだ――。

 僕は、大きな叫びを上げた。

 僕は、母さんを救いたいと強く願った。

 そして、僕の願いを霊界にいる神様が聞き入れてくれた。時の用には鼻をも削ぐ、でもないが、僕は自分の願いを叶えるため、神様から提示された条件を飲むことにした。

 条件、それは。

 対象――母さんの年齢が、僕と同じ十六歳のときにしか戻れないこと。

 交換条件は、僕の寿命であること。

 この日、僕の中にも『退魔の力』が宿っていることがわかった。過去に行くために、寿命をそれなりに多く失うこともまた。この状態から退魔の力を用いたら、おそらく僕は助からないであろうことも。

 僕に母さんを救えるのだろうか? 考えるごとに不安は尽きなくなった。

 それでも、やるしかなかった。母さんを救うためなら、僕はなんだってやると決めたのだから。

 母さんの中にある奈落の君の魂を消し去れたなら、この未来はなくなるのだから。


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