【平穏】
プレアがいなくなった。
彼女がこの世界にいたことを、このカレッジにいたことを、私以外の誰も覚えていなかった。彼女がこの世界にいた痕跡は残っていない。あたかも、最初から存在していなかったかのようだ。だが、そんなことはない。私は確かに覚えているのだから。
こうして、何度も繰り返されていた世界は終わった。プレアはいなくなったのだから、私が邪悪化することも、殺されてしまうこともないだろう。ただひとつ、気になることがあるとするならば――。
「レイチェル!」
講義の待ち時間に教室の窓の外を眺めていると、後ろから声をかけられた。その声で誰かを察することができたので、あえて振り返らずに待っていたら……予想通りにぎゅっと抱きしめられた。
「ちょっと、なんで反応してくれないの?」
「勝手に抱きついてきた人には言われたくありません」
「レイチェルが反応をしないのが悪いんだよ?」
「そんなわけないでしょ。ていうか、ここ教室だよ?」
「それが何か?」
なんでもない顔をして、シェルドが私の隣に座る。特進クラスの生徒がここにいるだけでも目立つのに、過度なスキンシップはやめてほしい。周りの視線が冷たく感じられた。
「ねえ、シェルド。指輪をちょっと見せて」
「ああ。別にいいけど」
私も机の上に右手を出して、ふたつの指輪を並べてみた。同じ場所に、まったく同じ傷が付いていた。
「この先、どうなるかまだわからないけれど、私が邪悪化することはもうないんだね」
「そうだよ。もう、この世界が繰り返されることはない。脅威は、すべて去ったのだからね」
「これから先の未来で、何があっても……だね」
「未来のことはまだわからないよ?」
「そうだね。でも、私が優秀な魔法使いになれることは、ほぼ間違いないんじゃないかな?」
「ああ……。そういえば、僕そんなことも言ったっけ? ちょっと迂闊だったなあ」
もうひとつ、良くないことも言っていたが、そちらは触れずにおこうと思う。
私の中に存在している問題は、まだ解決していない。それでも、恐れることはもう何もない。
この世界が、神様の意志のままに動いていて、結果がすべて決められた通りになるのだとしても、個別で見れば変化していく事柄だってあるはず。私が生きているのは『今』なのだ。『今』に生きている私には、『未来』を変える力がきっとあるはず。そのことを、私は繰り返される世界の中で学んだのだから。
「……僕の正体については、たぶんもう理解しているんだと思うけれど、それも含めてあとでちゃんと話すよ。僕の役割は、まだすべて終わったわけではないから」
「そうなの?」
「そうなんだよ」
「そっか。楽しみにしているね」
未来で出会うであろう、私のたったひとりの息子。
* * *
それからの一ヶ月間は、実に平穏に流れた。
何も考えなくていい生活というのが、こんなにも楽だとは思っていなかった。いや、短いサイクルで繰り返された息が詰まるような一ヶ月間の中で、そのことを忘れてしまっていただけかもしれないが。
継母との関係は相変わらずだが、継母は、以前よりは角が取れて丸くなった気がする。嫌がらせを受ける頻度も減った。おそらく、父が家を空ける回数が減ったからなのだろう。なんのことはない。継母も寂しいのだ。寂しさを紛らわすために、私に八つ当たりをしていたのだ。ちょっとひねくれている子どもじみたその考えは、少しだけ理解できた。
私も、ずっと寂しかったから。
穏やかな団欒の中で食事をして、ゆっくりと風呂に浸かって、明日のことを心配することもなく布団にくるまる。嫌な夢を見ることも、朝目覚めたとき寝汗をかいていることもなくなった。
休日は、部屋の床に大の字になって寝ころび、窓から差している初夏の日差しを全身で浴び、お腹が空けばお菓子を食べて、喉が乾けばジュースを飲んで、お腹が一杯になって眠くなる。骨が肉が、全身のすべてで幸せを感じられるような生活。
なんという解放感だろう。
もう、何も我慢しなくていいのだ。
私は、ようやく自由になったのだ!
なんて晴れやかな気分だろう。
毎日がこんなに充実しているとは!
科学の実験の授業で、ほとんど失敗をしなくなった。苦手だった教科の成績が、これまでが嘘のように上昇し始めた。
これなら、シェルドが言っていた通り、私は優秀な魔法使いに本当になれるかもしれない。未来のことを考えない癖が、いつの間にかついていたのだろうなと思った。
未来に展望がなかったから、私は授業に身が入らなくなっていたのだ。




