【彼女の癖】
どこに逃げたらよいのか、わからなかった。
それでも私たちは必死に駆けた。
みんながつないでくれたこの命を、粗末にはできなかった。
「シェルドが好きな物語ってさ、どういうの?」
こんなときに、なんだよ、と不平を述べつつも、彼は答えてくれた。
「基本的に、恋愛モノかな。青臭いボーイミーツガールがいいね。最後は、悲劇的な結末で終わるやつ」
「ハッピーエンドのほうが良くない?」
「嫌いなんだよ。ハッピーエンドがさ」
「趣味が悪いね。……あ、次の角を右に行こう」
「でも、レイチェルはハッピーエンドが好きなんだろ?」
「……うん」
私は頷いた。
実技棟と教員寮の間を抜け、カレッジの出口を目指す。逃亡劇の最中では、この広大な敷地も仇となる。身を潜める選択肢もあったが、まずは街へ出る必要があった。
カレッジの内部だけで、処理できない相手である可能性が高かったから。
「シェルドはさ、自分の運命の行く末が、バッドエンドであることを、知っていたんじゃないの?」
「え?」
シェルドが不意に立ち止まったので、私も足を止めて振り返った。
「もう、隠さなくていいんだよ。私は、あなたの正体に気付いている」
返事はなかった。向けられた瞳は逸らされない。
「何度もループし続けるこの世界の中で、君が現れたのは四周目からだった。普通の人であれば、私が何か働きかけをしない限り、行動が変化したりはしない。……それなのに、君は自分の意志で行動を変えた。思えば、この時点で君が因果の外側にいるのは証明されていた。問題は、君が敵か味方かというその一点だったけれど……」
ここで私は右手の指輪を見せる。シェルドが驚いた顔をした。
「私の指輪には傷がなかったのに、シェルドの物にはあった。だから、シェルドがしている指輪は、私の物とは違うんだろうなとそう思っていた。でもね。さっき無様に転んじゃって、そのときこの傷が付いたの。……傷の場所、シェルドの物と同じだよね?」
「同じだ。……そっか、このタイミングで付くのか。じゃあ、世界は正しい方向に向かおうとしているってことなのかな」
それは、独り言みたいな台詞だった。
「だったら、いいね」
私と同じ指輪を付けているということは、私と同じ運命を背負っている人間で、同時に、私と関係の深い人物であるはず。この段階で、導き出される答えがあった。
「この指輪はね、奈落の君の魂を封印しておくためのものなんだって」
「うん、知っているよ。けれど、僕が持っているものは、すでにその役目を終えている」
「……どういうこと?」
指輪が同じ物である以上は、同じ力が付与されているはずだ。
「僕の中に、奈落の君の魂はもういないってことさ。……だから、この指輪はすでに母さんの形見である以上の意味を持っていないんだ」
――母さんの形見。彼はあのときも確かにそう言っていた。
「けれど……」
「……答えのすべてを、言うことはできないってことなんだね?」
「そうだ。……ごめんね、最期のときに、必ず言うから」
「いいよ。わかった」
母親の名前については、聞かなくてもわかった。むしろ、聞きたくなかった。自分の中にある感情を、言葉にすることができなくなってしまうから。
「私は、あなたが好きよ」
そのとき、タイミングを見計らったように、目の前に黒い影が降りてきた。
奴がここまで追ってきたということは、みんなやられてしまったということだ。絶望が全身を支配する。世界は、やっぱり私に優しくない。
がらんどうの瞳が私をとらえた。魔物が私に向けて大きく右腕を振り上げた。
しかし、軸足のつま先は私のほうに向いていない。
これは、フェイントをするときに彼女が無意識にする癖だった。
「シェルド!」
予想通り、魔物の攻撃は隣のシェルドに向かって振るわれた。私はシェルドを突き飛ばしてかぎ爪の攻撃から逃がした。
こうして見ると、腕の振るい方にも癖がある。その可能性を、さっきからずっと考えていた。でも、信じたくはなかったんだ。
彼女と私は、確かに親友だとずっとそう思ってきたのだから――!
魔物が吠える。私たちは距離を取って身構えた。
虚ろな瞳は私だけをとらえ続けている。私の身に不幸を起こすことで、私を絶望させようとしているんだ。でも、そうはいかないよ――。
単音節の詠唱を唱え、『檻』の力を発動した。
私とシェルドを中心として不可視の障壁が展開し、魔物の次の攻撃は弾かれた。
間違いない。やはり奴の侵入を、『檻』の力で防ぐことは可能だ。
つまり、そういうことなのだ。奴は最初から『檻』の内側にいた。




