【教師としての矜持】
西棟の廊下を二人で駆けた。日没すぎの時間帯なので、人の姿はいっさいなかった。
走りながら振り返って魔物の姿を探したが、見えなかった。どうやら、エドがまだ食い止めてくれているらしい。
「レイチェル」
「なに?」
「気になるだろうけどさ、今は逃げることだけを優先しよう。エドだって、ヤバくなったらちゃんと逃げるだろうさ」
「だといいけど」
安心させるようなことを言っておきながら、シェルドの表情は梅雨空のように曇っていた。エドが、いったん決めたことを中途半端に投げ出す性格ではないことが、シェルドにもわかっているのだろう。
どうか、無理はしないで……!
「シェルド。走りながらでいい。聞いてくれる?」
「……いいけど?」
「プレアが言っていたの。私の中には、奈落の君の魂が眠っているんだって。私の心が強く乱れることによって、それは目覚めるんだって」
「ああ」
それは、思いの外素っ気ない反応だった。驚嘆している雰囲気ではなかった。
「知っていたんだね?」
「……そうだね」
「だから、『もう一度自分を信じて! 内なる声に耳を傾けてはダメだ!』と言ってくれたんだよね。プレアの死によって、私の心が奈落の君の魂に飲み込まれてしまうことを知っていたから。それで全部わかったの。シェルドは、私のことをすべて知っているんだと。私と同じように、記憶を保持したままこの世界をループしているんじゃないのかと。……そうなんだよね?」
「ああ、そうだ」
「だったら、全部話して。私の身に何が起こっているのかを」
「それはできないよ」
「どうして?」
私の中で、シェルドが何者であるかの仮説がひとつできあがっていた。それが真実であるとしたら、今得ている情報のひとつと矛盾しているのだ。そこだけがわからない。
「それを聞いてしまったら……レイチェルはきっと後悔すると思うから」
「シェルドの言っていることが理解できないんだけど。今さら私に後悔なんてあるはずないのに」
「僕からはこれ以上話すことはできないんだ。ごめん……」
そう言って、彼は寂しげに目を伏せた。
西棟の外に出た。
振り返って建物の様子を見ると、建物のあちらこちらから噴煙が上がっていた。内部の被害が拡大しているのがわかった。あの魔物とエドが、場所を変えながらまだ戦っているのだろうか。そうだったらいい。不謹慎だがそう思った。
なんだなんだと声がする。慌てた様子で建物から出てくる生徒の姿が見える。異常なことが起きていると、みんなが気付き始めたようだ。
「西棟の中で正体不明の魔物が暴れているの! この場所は危険だから速やかに離れて!」
「……どういうこと?」
私をいつもいじめてくるあの女子生徒が、不思議そうな顔でこっちを見ていた。
「説明している暇はないの。いいから早く!」
「やばそうだよ、行こう」
納得できていない顔の彼女の手を、サマンサが引っ張った。切羽詰まった状況だと、頭のいいサマンサはわかったのだろう。「う、うん」とその女子生徒は従った。
「こいつはいったいなんの騒ぎだ!」
声がしたほうを見ると、そこに立っていたのはリアンダー先生だった。混乱している生徒たちに指示を出しながら、こちらに近づいてくる。
シェルドがなぜここにいるのかといぶかしんでいる様子だったが、今はそれどころではないと判断したのだろう。そこにはいっさい触れなかった。
「魔族が現れたんですよ。それも、とびっきり厄介な奴がね」
「……どういうことだ? 禁断の魔法書はすでに回収されているはずだ。それなのにどうして?」
「それとは別に、ひそんでいた個体がいたってことですよ。このカレッジの中に」
「……そんなバカなことが、あるわけないだろう。あるはずが、ないんだ……」
「それが、あったんですよ。残念ながら」
「シェルド、どうしたらいいの?」
「僕にもわからないよ。あいつが現れてから、こんなに長く生きのびられているのは、今回が初めてだからね。……すべてが未体験ゾーンさ」
大丈夫? と唐突にシェルドが私の顔を見る。
「何が?」
「内なる声は、聞こえない?」
そう言えば、といったん気持ちを落ち着かせてみたが、さっきまであんなにしていた心の声は鳴りをひそめている。
「うん。今は何も聞こえない」
「そうか。……じゃあ、それだけでも僕がこうして姿を晒した意味はあったってことだね」
次の瞬間、建物の一角が倒壊し、赤黒い影が姿を現そうとしていた。隆々たる体躯に、コウモリを思わせる一対の翼。闇を思わせるがらんどうの瞳で、下界を見渡した。
そいつが足元にある何かをつかんで、下に放り投げる。建物の二階部分からぐしゃりと音を立てて地面に落ちたのは、エドの亡骸だった。
「エド!」
駆け寄ろうとしたところを、シェルドに制止される。
「ダメだ。もう助からない」
「……でも!」
そんなことはわかっていた。けれど、自分のせいでエドが死んだのだと思うと、居ても立っても居られない。
とはいえ、シェルドの言い分は正しい。私に何ができるというのか。私は、無力な子どもでしかなかった。
「あいつが、そうなのか。……なんてことだ。よくも、エドを……!」
だが、私と違ってリアンダー先生は平静ではいられなかったようだ。実弟を殺されたのだから無理もない。
遠くから様子を見ていた野次馬たちが、悲鳴を上げて散り散りに逃げていく。この場に居合わせた者すべてに恐怖を植え付けながら、魔物は翼をはためかせた。
「逃げるぞ」
シェルドが私の手を引いた。
「いやよ! エドの仇を討たなくちゃ!」
「逃げなければ、君も死ぬぞ」
リアンダー先生がこちらを見た。
「レイチェル。あいつは私たちが始末するから、君はシェルドと一緒に逃げるんだ」
先生は、腰に差していた杖を抜いて構えた。
「……先生?」
「生徒の安全を守るのが教師の役割だ。……ここで戦わずして、いつ戦うというのかね? だから、ここは私たちに任せて。君たちの未来は、私たちが必ず守る」
カレッジに残っていた導師クラスの先生たちが、魔物の周辺に集まりつつあった。
「これが、教師としてのほうの建前だ。だがな」
そこでいったん言葉を切って、先生は続けた。
「私個人の思いとしては、今すぐにでもあいつをこの手で八つ裂きにしてやりたい。それが本音さ。……シェルド、レイチェルをよろしく頼むよ」
「わかりました」
先生が杖を振りかざすと、そこから炎の渦が巻き起こり、魔物に向かって飛んでいった。しかし、魔物は翼をひらめかすだけで、あっさりとそれを弾き返した。
辺りでも魔法の詠唱が始まる。大きな火の玉がいくつも魔物に向かって飛んでいく。魔物は一瞬だけひるんだ様子を見せたが、すぐに体勢を立て直すと導師の一人に爪を振るった。赤い鮮血が、宵闇に散った。
「行こう」
凄惨な光景から目をそらし、私たちは踵を返した。




