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【逃げるな、戦え】

 私は魔物の爪によって四肢を切り裂かれ、床に這いつくばっていた。衣服は血に染まっていて、もう助からないのだろうなと思う。むしろまだ意識があるのが不思議だった。

 一欠けら残っている未練が、私の意識を辛うじてつないでいるのか。

 魔物は爪に付いた私の血をうまそうに舐めていて、こちらに一瞥もくれない。

『死』という単語が、頭の中で閃いた。背中が、焼けるように痛い。手を床について、ようやく立ち上がる。

 立ち上がって決死の抵抗をする。しかし、何度切りつけても傷ひとつ負わせられない。放った魔法も、魔物の体表で虚しく弾けた。散りゆく魔力の残り香に、自らの運命を重ね合わせた。

 何度繰り返しても同じ。これが私の運命なんだ。

 また、ループするんだろうな。

 この記憶も、どうせ消えてなくなるのだろうな。

 死にたくないと、強くそう願った。これまでも、死の間際にそう願ってきたのだろうか。

 魔物が、一歩こちらに寄った。

 私は、一歩後ずさった。

 感情が絶望一色に染まったそのとき、心のさらに奥深いところで声がした。地の底から聞こえてくるみたいな、それは怨嗟の声だった。


 目の前の敵が憎いでしょう?

 親友を殺めた相手が憎いでしょう?

 わたしの声に耳をかたむけなさい。そうしたら、目の前の敵など瞬く間に屠ってみせるから。

 憎いでしょう? お前の大事なものを奪っていく存在が。この世界が。

 抑圧されてきた感情を今こそ解き放つのです。

 世界のすべてを、共に手に入れようぞ。


 世界なんてものに興味はない。

 けれど、プレアを殺したこいつは憎い。

 あなたにこの身を委ねたら、こいつを殺してくれるの?


 そうよ。必ず約束は守るわ。

 あなたの本当の力を、今こそ見せるとき。


 その声が告げるまま、私は心の中で叫んだ。

 こいつは許さない! 必ず殺してやる! お前のかぎ爪が私の右目をえぐり取る前に、お前の心臓をえぐり取ってやる!

 内なる声に精神を委ねると、意識がゆっくりと薄れていくのを感じた。傷の痛みがやわらいで、なぜだか体は軽くなってくるようだ。私の魂は、このまま消滅してしまうのだろうか。でも、それはそれでいいかもしれない。


「シェルド……ごめんね……」


 もうじき死ぬだろうということはわかったが、もう一度だけ彼に会いたかった。


「諦めるな! レイチェル!」


 幻聴だろうか。彼の声がした。


「シェルド? ……そこにいるの?」


 魔物から視線を外して、周囲を見渡す。しかし、彼の姿はなかった。


「レイチェル! もう一度自分を信じて! 内なる声に耳を傾けてはダメだ!」


 また声がした。今度はさっきよりもはっきりと。

 ああ、これは幻聴なんかじゃない。彼がどこかで叫んでいるのだ。私はその声を頼りに、魔物と距離を置こうと後ずさる。


「逃げるな! 戦え!」

「でも……、もう力が入らないの。私じゃこいつを倒せない」

「それでも逃げちゃダメだ!」


 彼の言葉を頭の中で反芻した。戦えと彼は言う。けれど、力の差は歴然としているのだ。すべての力を振り絞って戦ったところで結果は変わらないだろう。


「もう……ダメなの……」


 そうだ。ダメだ。諦めろ。


「諦めるな! レイチェル!」


 心の内側で反響している声をかき消すようにして、彼の声がまた聞こえた。今度はさっきよりさらに大きい。声の力強さが、私の胸に直接響いてきた。それに呼応するかのように、私の内側で何かが蠢き始めた。

 魔物の爪が頭上から襲いかかってくる。私はぎりぎりまでそれを引き付けてから、横にステップを踏んだ。自分でも信じられないくらいに機敏な動きができた。

 避けたあとも、不思議と息は切れなかった。さらに二回続けて振り下ろされた爪をぎりぎりでかわした。


 私じゃない私が肉体に宿っているようだった。でもそれは、さっきまでと違い嫌な感覚ではなかった。むしろ、あるべきものが戻ってきたという、安心感さえあった。


「レイチェル!」


 談話室の扉が大きな音を立てて開き、エドとシェルドの二人がなだれ込んできた。


「良かった。無事だったんだな」


 シェルドが駆け寄ってきて、私を抱きとめる。彼の温もりを肌で感じる。


「それはこっちの台詞だよ。やっぱり、魔物の正体はシェルドじゃなかったんだね?」

「当たり前だろ」

「……ありがとう。助けにきてくれて」

「レイチェルが困っているときは、手を差し伸べると言っただろ? 僕は、当たり前のことをしているだけだよ」

「シェルドは、やっぱり私のヒーローだね」

「お二人さん。感動の再会を楽しんでいる場合じゃねーぞ。……こいつは、いったいどうなってるんだ!?」


 こちらを凝視している魔物と、床で事切れているプレアとを交互に視認して、エドが苦虫をかみ潰したような顔をした。


「間に合わなかったか……。よくもプレアを」


 エドが魔物を鋭く睨みつける。そのとき魔物がぐっと身を屈めた。襲い掛かってくる気だ!


「ここは俺が食い止める。二人は行け!」とエドが叫んだ。

「……無理だろ! お前だけじゃ……というか、そもそも僕たち三人がかりでも勝てるかどうかわからない相手だぞ?」

「んなことわかってるんだよ。いいんだ、行け! ……レイチェル。お前が生きのびなければ、どうにもならないんだろ? このゲームはよ。だからいいんだ。俺のことなら気にするな」

「……でも!」

「エド、すまない。……行こう、レイチェル!」


 私はシェルドに手を引かれて、談話室を飛び出した。


「気にするな。ほら、行け!」


 直後、背後で大きな爆発音がした。


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