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【あとはわたしがなんとかするから】

「くそっ……」


 布団を剥いで、粗末なベッドから立ち上がる。格子が嵌った独房の窓から、外界の様子を見た。

 外はひどい土砂降りだった。それで、今日が六月一日なのだと理解した。

 何度でも惨劇が繰り返されるのだから、僕以外にもこの世界に干渉している人物がいるのは確かだ。それはあの魔族なのか? 奴はいったいどこから来たのか? それはさっぱりわからないのだが。

 もう時間がない。今日中におそらくあの魔族は現れる。それなのに、なぜ僕はこんなところにいるのか。

 ベッドに横になって、天井を見上げた。簡素なデザインの机とチェストくらいしか物がない石造りの空間は、見るからに寒々しい。

 舌先三寸でモンテ導師をたぶらかし、禁断の魔術書を盗ませた。それが、僕に課せられた容疑だそうだが、まったく心当たりがない。完全なる濡れ衣だった。

 モンテ導師と会っていた事実はないし、禁断の魔法書になんて興味はない。何度そう釈明しても聞き入れてはもらえなかった。

 これも含めて誰かの謀略なのだとしたら、そいつこそが真犯人かもしれない。

 いったい誰なんだ。早くここを出て、レイチェルに手を貸してやりたいのに――。


「……!」


 結局、ため息を吐いてしまう。何度目かもわからないため息だ。

 そのとき、コツコツと硬質な足音が響いてきた。誰かがこちらに向かって歩いてきているのだとわかった。

 顔を上げると、格子の向こう側に立っていたのは査察部の人間だった。


「シェルド・ルーイス。一ヵ月前の五月一日。ラテルナの街の冒険者通りにある、ケーキ店に行ったか?」


 なぜ、今頃になってそのような質問をされるのか。心当たりはなかった。しばし考えてから答える。


「いや、行ったけれども?」

「間違いないんだな?」

「そんな嘘をついたところで、しょうがないじゃないですか。僕が得をするわけでもないし。本当ですよ」


 昔、レイチェルから聞いたことがあった。辛いことや悲しいことがあったとき、街外れにある丘の上によく行ったと。だからあの日、会える気がしていたんだ。あの場所で、彼女と。

 カチャリと音がして、牢獄の鍵が開いた。「出ろ」と査察部の男が言う。


「え?」

「聞こえなかったか? 無実が証明されたから、釈放だとそう言ったんだ」

「……釈放?」


 どうして? いよいよ意味がわからなかった。


   * * *


 時間は、ただゆっくりと流れた。

 どこから敵がくるのか。そもそも本当にくるのか。こういった緊張感は本当に嫌だ。

 死の足音がすぐそこまで迫っている。ひたひたと、音もなく歩み寄ってきているのだ。何度も経験していることだと頭では理解していたが、不思議と感情が伴わなかった。日没が迫っている。それなのに、窓の外はむしろ明るくなったようにすら見えた。いつの間にか雨は止んでいて、雲間から夕陽が差したのだ。血を思わせるような赤は、綺麗だがどこか作り物めいて見える。

「来るかな」と私は言った。

「来るよ、絶対」とプレアが答えた。

 プレアが『檻』を展開して、談話室で二人で待ち続けていた。

 これまで、六月一日の十八時を超えられたことは一度もない。それまでに、私の意識は必ず途切れ――殺されてしまうのだ。

 なんのために? その答えは間もなく出る。

 十八時まで、あと三十分となっていた。

 血の色をした夕陽が、私の瞳をまっすぐに刺した。

 あまりの眩しさに、一瞬だけ目を閉じた。目を閉じたままで深呼吸をする。辺りは不気味なくらいに静まり返っていた。暗さと静けさが、死の恐怖を私の心に運んでくる。


 ごぷ、という小さな水音が、私の鼓膜を静かに叩いた。


 なんだろう、と思いながら、瞼をこすってから目を開ける。

 眼前に広がっていた光景に、私は戦慄した。


「え……?」


 思わず、声が口からこぼれる。

 私の目の前に、『魔物』が立っていた。どこから現れたのかはわからないが、いつの間にかそこにいたのだ。

「あ……」と、また声が漏れた。

 思考が凍り付く。全身が総毛だって、身動きひとつできなくなる。

 それは、ありえないことだった。

(プリズン)』が破られた気配はない。これは、人ならざるものを拒む結界なのだから、破られない限り魔物が侵入することはできない。『檻』を中和させるだけの干渉結界が展開されるか、『檻』の発動が止まらない限りは――。それなのに。

 赤い夕陽の光が逆光となって、魔物の姿を捉えにくくしていた。何もない顔の中心にあるがらんどうの瞳が、ただ私を見下ろしていた。

 こちらを見ているのかも定かではない瞳と、正面から対峙した。

 じわりと手のひらが汗ばむ。背中を嫌な汗が伝う。プレアは――と思ったとき、もう一度水音がした。

 ごぷり。

 魔物の後ろ、椅子に座っていたプレアの体が、ゆっくりと崩れてくる。

 口から血の泡を吹いて、瞳を大きく見開いたまま――。


「プレア!」


 ここでようやく体が動いた。プレアの元に駆け寄ろうとしたが、魔物が立ち塞がった。

 くそ、と私は毒づいた。倒れたプレアの体の下に、真っ赤な血だまりができる。またしても目の間でプレアは殺されてしまった。彼女の死を見届ける間もなく、私はここで殺されるというのか。

 魔物は私をじっと見つめている。私に危害を加えるつもりはないのだろうか。獲物を追い詰めた獣が、いつ食べようかと値踏みをしているような余裕が感じられた。

 ならばと、護身用に持っていた小刀を抜いて構えた。ここで食われて死ぬくらいなら……と精一杯の虚勢を張ってみせたのだが、やはりというべきか、魔物が動じた様子はない。


「よくもプレアを! これは、彼女の仇!」


 小刀を振りかぶって、魔物の腹部に向けて斜めに切りつけた。だが、武器すら持っていない魔物に素手で止められた。小刀の刃を指だけでつかんでいるのに、その握力は人間のそれとは比べ物にならないほど強くで、小刀を引き抜くことも押し返すこともできない。


「あ……ああ……」


 せめてもの抵抗として、小刀を持つ手に更なる力を込めた。恐怖でおかしくなりそうな心を支えてくれていたのは、プレアを殺された怒りだった。


「よくも……私の親友を……!」


 ところが、予想に反して魔物が刃をつかんでいた手を離した。急に抵抗がなくなったことで、私は尻餅をついてしまう。

 ガチッと硬い物同士がぶつかったような音が右手からして、視線を落とすと指輪に嵌められている石に傷が付いていた。

 以前、シェルドに見せてもらった彼の指輪と、同じ場所に傷が付いていた。


「どういうこと……?」


 傷の有無から、二つの指輪は別物だと判断していた。それなのに、これではまるで……。

 もう一度、今度は逆袈裟に切りつけたが、やはり刃を指だけで止められる。

 ダメだ。勝てるわけがない。上位の魔族に対して、強い魔力であったり膂力を持っていない私程度で敵うわけがないのだ。

 ここで玉砕してしまおうと、そう覚悟した。プレアのあとを追って、私も死のうとそう思った。だが、ここで私の考えは変わる。

 ――死にたくない。

 私はまだ、死にたくないんだ……!


「シェルド!」


 背を向けて駆け出した。と同時に背中に焼けるような痛みが走る。

 魔物が振るったかぎ爪が、私の背中を引き裂いたのだ。

 痛みで薄れゆく意識の中で、誰かの声が響いた。

 もう疲れたでしょう? 苦しかったら目を閉じなさい。あとはわたしがなんとかするから――と。

 それは、これまで何度か夢の中で聞いたことがある声だった。


   * * *


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