【丘の上で彼と(2)】
「案外と、悪い子なんだね?」
「手がかかる子のほうが、可愛いってよく言うでしょ?」
「時と場合によるよ」
「それもそうだね。……というか、あれ? もしかして僕のこと知っている?」
「知っているよ。さっき名前呼んだでしょ?」
「そうだっけ?」
「そうだよ。知っている。君が思うよりも、ずっとね」
そう、知っているんだよ。君が思っているよりも、ずっと。
この世界でも君がいてくれて、本当に良かった。もしかしたら、これまでの世界でも彼はずっとカレッジにいたのだろうか。ただ、会えなかっただけで。そうだったなら、もっと早く会いたかったな、と思ってから、そう思った自分に驚く。
何を考えているのだろうか。私は。
「涙、止まった?」
シェルドが丘の上に胡坐をかいて、隣の地面をとんとんと叩く。私にも座れと促しているのだろう。
目尻に触れて、すっかり涙が止まっているのに気が付いた。私を泣き止ませるために、ここからの景色を見せてくれたのかもしれない。
「うん、止まったみたい。ありがとう」と私も草地に腰を下ろした。
空に視線を向けたとき、「食べる?」と言ってシェルドが目の前に何かを差し出してきた。小さな円盤を二枚重ねた形状をしているお菓子、マカロンだった。
「ありがとう」
一口かじってみる。甘くて、香ばしくて、とても懐かしい感じの味がした。母さんが、昔マカロンを何度か焼いてくれたような記憶がある。私も、今度焼いてみようかな。
「……おいしい」
「でしょー? 街で一番人気の菓子店のマカロンなんだ。ここに来る途中で買っておいて良かったよ」
「そうなんだ? 買うの大変だったでしょ?」
「大変だったよ! 結構混んでいたしね」
マカロンを送るのには、その人が特別な相手という意味もあるのだそうだ。そのこと、知っているのかなあ?
盗み見た隣の顔は、我関せずといった風だった。まったく知っていなさそう。
「レイチェルはどうして泣いていたの? ……ああ、もちろん言いたくなかったら言わなくていい。無理に聞き出すつもりはないから」
それは、これまでと同じで、気遣いのできる彼らしい聞き方だった。
考えた。
理由を話すとするならば、今自分が置かれている状況について、包み隠さず伝える必要がある。元より言うつもりではあった。だが、再会してすぐのタイミングで、この突飛な話を信じてもらえるだろうか?
「実を言うと、伯爵令嬢様って聞いたとき、もっとお高くとまった人なんだろうと思っていた。……でも、君の印象は違った。思いの外親しみやすくて、案外涙もろくて……まあ、それは今日知ったけど。それが一番意外だったかな」
「それはつまり、がっかりしたってこと?」
「まさか。むしろ人間味があっていいと思ったよ」
そういうものなのだろうか。
公爵令嬢たるもの、もっと高尚な人物でなければならないのだと、これまでずっと自分を戒めてきた。
文武両道で、常に礼儀正しく、弱みを他人に見せてはならない。それなのに、私はいつも失敗ばかりしていて、理想と現実の間には大きなギャップがあって、そのせいでいつも継母に叱られてきたし、そんな自分が嫌で仕方がなかった。
それだけに、彼の言い分がかなり意外だった。
もっと、ありのままの自分をさらけ出していいのだろうか。
そう思うことができたら、ごく自然に言葉が口をついて出た。
「実はね、悩んでいることがあるんだ。笑わないで聞いてくれる?」
「うん」
知っているよ、みたいな声だった。
「私ね、本当は死んでいるの」
「へ?」
驚いた、というよりは、意味がわからないという反応だった。
「ごめんね。ちょっと意味がわからないよね。……正しくは、私が死ぬのはこの先の未来の話。一ヵ月後となる六月の一日までに、私は死んでしまうの」
「……待って。やっぱり意味がわからないんだけど」
「そうだよね。ごめん、順を追って説明するね」
情報を一度ばらばらにして、そこから組み立てて、なるべくわかりやすく話した。
六月一日までに、私が必ず死ぬこと。死んだあとで、五月の初旬まで死に戻りをしていること。自分を殺しているのは、おそらく異形の魔物であること。なぜ殺されるのか、わかっていないこと。
なるほど、と小さな呟きを落として、シェルドがしばらく考え込んだ。
沈黙する時間の長さが、彼の困惑の深さをそのまま表していた。
「信じられない、よね?」
「困惑はしているけれど……信じられなくはないよ。レイチェルが、そういったつまらない嘘をつく人間じゃないのは知っているから」
知っているって。話をしたのはたぶん今日が初めてくらいなのに、いったい私の何がわかるというのか。
「そんなに簡単に、私の言うことを信じていいの? 純真なのにもほどがあるよ?」
「いいんじゃない? それに、その話がたとえ嘘だったとしても、僕にはなんの不都合もないからね」
不都合はない、か。確かにそうなのかもしれない。
「それに、困っている女の子が目の前にいるのに、見捨てるほど僕は人でなしじゃないよ」
「優しいんだね、シェルドは」
「話聞いてた? こんなのは普通のことだと言っているの」
弁解をしたシェルドの顔は、天気が良い日の夕方みたいな色だった。可愛い、と不覚にも思ってしまう。やはり彼は、気の置ける人だと思った。
「少し情報を整理してもいいか?」と彼の声が言う。
「うん。もちろんだよ」
「六月一日までに死ぬのは本当?」
「それは間違いないよ。六月一日より後ろの記憶はないからね。それから、死ぬのはほとんどのケースにおいて六月一日だね」
「いつも、異形の魔物に殺されているの?」
私は頭の中で情報を整理していく。実のところ、あの魔物を見たのは一度だけだ。それ以外の世界において、私の意識はあの忌々しい姿を拝む前に途切れている。
「それが……実ははっきりとわかっていないんだよね。でも、そいつは三度目のループで初めて姿を現した。ループしている原因は、きっと同じなのだから、そいつが関わっているのは間違いない」
記憶の糸を手繰るみたいにして、シェルドが目を瞑る。
「ループをしている原因は同じ。それはそうかもしれないね……。そいつを排除できない限り、ループは止まらないと見たほうが良さそうだ」
「でも、どこからやって来たのか。目的はなんなのか。さっぱりわからないんだよね……」
「ふむ」
ここで再びの思考時間。
「ねえレイチェル」
「うん?」
「その異形の魔物ってさ、どこから来たのかな?」
「え?」と驚いて、彼の目を見た。
たぶん、今私は目を丸くしている。対象的に、彼は瞳をすがめている。なんとはなしに、後ろめたい気持ちになった。
「……どういうこと? 何かわかったの?」
「いや、まだわからないよ。でもさ、話を聞いている限りではそいつはたぶん魔族だ。彼らの生態についてはわかっていないことがとても多いから」
この世界に住んでいる魔物の生態については、ほとんどのことが判明している。
わかっていない相手だから魔族。短絡的に思えるが、その実筋が通っている。
私たちが住んでいるこの世界のことを、人間界と呼んでいる。文字通り、私たち人間と、妖精や動物、一部の魔物が住んでいる世界のことだ。
一方で、この間遭遇したガーゴイルのような魔族が住んでいる場所を魔界と呼ぶ。人間界と魔界とが繋がることは基本的にない。こちらの世界で、魔族を召喚する儀式が行われるとか、あるいは、魔族が自らの手で空間をねじ曲げるなどをしない限り、繋がることはない。
異形の魔物がもし魔族の一種であるとしたら――必然的に、魔物はすでにこの世界に潜伏しているか、六月一日までに何者かによってこの世界に召喚されたことになるのだ。
「そうか。そういう風に考えたことなかった。魔族だとしたら、誰かがこの世界に呼んだのかもしれない。だとしても、誰が?」
「それはわからないよ。レイチェルが死ぬことで、何か得をする人がいるのか、だね。もしいるとしたら、そいつが怪しいけれど」
「うーん……。ちょっとわからないかな」
私がいなくなることで喜ぶとしたら継母のマルヴィナだけど、あの人に魔族を召喚するほどの力や後ろ盾があるとは思えない。得をする、かあ……。私にもし兄弟や姉妹がいたとしたら、そこに損得は生まれそうだけど、あいにく私は一人っ子だ。
私を殺したいと思うほど憎んでいる相手がいないことは、前回の世界でエドが調べてくれた。
「そうなると、その魔物は自分の意思でこの世界に来ている?」
「んー……来ているとして、その目的はなに?」
「それがわからないから、ここで話が止まるんだよね?」
「う……。そうです……」
指摘通りなので、何も言い返せない。結局ここで話が止まってしまうのだ。
「だから、まずは、なぜ魔物がこの世界にやって来ているのかを調べよう」
「目的ではなくて、どういう方法で来ているか? ということだね」
「そういうこと」
シェルドは頭がいいのだろうなと思う。こうして論理的に考えたことは今までなかった。そもそもの前提として、魔物がどこからやって来たのか。私はそれを知らなくてはならない。
「なぜ、ループしているかについては?」
「え?」
「待って。まさかとは思うけれど、死んだからループしたんだと、そう結論付けているわけじゃないよね?」
「……」
「はあ……」
シェルドがため息を吐いた。彼の指摘によって、自分の浅慮さが浮き彫りになる。
もちろん、死んだことで戻りましただなんて、そこまで安直に考えていたわけではない。しかしながら、なぜループが発生しているかについて、深く考察したことはこれまでなかった。
私が魔物に殺されて死ぬ。ここに誰かの意思がおそらくあるように、その死をやり直せるようにしてくれている何者かの意思が、このループにはおそらく介在している。
「何かない? ループしている要因として、思い当たるようなこと。出来事とか、身に付けている物とかなんでもいいからさ」
「身に付けている物……?」
ひとつだけ、思い至ることがあった。
「もしかして、これを付けているおかげ……だったりするのかな?」
右手の指輪をかざして見せると、シェルドが私の手を取った。顔が近くなって少し緊張してしまう。こうして見ると、まつ毛が長くて綺麗な顔立ちをしている。
彼の視線は、私の右手に嵌っている指輪に注がれている。ここまで真剣な顔は初めて見る気がする。
「この指輪は?」
「……? これは、お母さんの形見の指輪なの。肌身離さず付けているようにと、父から言われているもので。ほら……」
とここまで言いかけて、この世界のシェルドにとっては初耳なんだと思い出した。
「ということは、レイチェルの母親ってもう亡くなっているんだね?」
「そう」
「言いにくかったらいいんだけど、そのときの話、くわしく教えてくれる?」
「いいよ、もちろん。相談したのは私のほうからなんだし」
思えば、これまで盲目的にこの指輪を付けてきた。ループが始まる前も、始まってからもずっとだ。母の形見だからというのもあるが、そこに疑問を感じたことはない。
「お母さんが死んだときのことを、あまりよく覚えていないの」




