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【丘の上で彼と(1)】

 制服に着替えると、家を出てカレッジまでの道を歩き始める。

 道行く人と挨拶を交わしながら、歩いてゆく。商店街に入って、ふと足を止めると、ショーウインドウに自分の姿が映っていた。

 クラスの紋章が入ったブレザーの制服とスカート。濡れ羽色の髪と緋色の瞳はいつも通りだが、目の下にくまができているし顔色はお世辞にも良くない。こんな荒んだ目をしていては、相当な訳ありだな、と勘づかれてしまう。暗い顔をするのをやめなくては。

 意識して、笑顔を作ろうとして、しかしうまく笑えなかった。

 ――引きつっている。

 シェルドの笑顔は、素敵だったよな。

 思い出したら、急にシェルドに会いたくなった。きっと彼なら、私のこの不細工な笑顔を見て、「らしくない」と笑うだろうから。彼に笑ってほしいなと思うのに、でもやっぱり笑うことはできなくて、自分が思う以上に疲弊しているのだと気付かされてしまう。

 心のどこかで、今回はいけるとの思いがあったのだろうな。

 ――カレッジに行って、もしシェルドがいなかったら?

 今朝感じた不安がもう一度胸を過ると、どうしても足が動かなくなった。

 なぜ死ぬのかもわからないのに。

 いつ死ぬのかもわからないのに。

 その上彼までいなくなってしまったら?

 ダメだと思った。

 今日はもうダメだ。歯を食いしばっていないと、後ろ向きな感情が胸の奥からどんどんあふれてくるみたいで。

 気が付けば、足はカレッジとは違う方向に向いていた。駆けだした。どこを目指しているのかも、わからないまま。

 酸素が足りないと、肺が悲鳴を上げている。

 もう走れないと、足が痛みをうったえてくる。

 それでも、立ち止まることはなかった。

 とにかく、逃げたかった。この現実から、一歩でも遠ざかりたかった。どこへ行ったところで、自分の境遇が変わるわけでもないのに。

 歩いている人と、何度か肩がぶつかった。謝りながら路地を駆けた。

 無我夢中で走っているうちに、街を離れていたのだろう。

 気付けば開けた丘の上にいた。

 抜けるような青空が眼前に広がっている。空を覆っていた雨雲は吹く風に散らされて、すっかりなくなってしまっていた。私の不安も、この雲みたいになくなってしまえばいいのに。

 走り続けていたので、胸が焼けるように苦しい。足が鉛のように重い。

 今すぐにでも草地の上に寝転がりたい衝動に駆られたが、そうすることはなかった。

 背中が土で汚れてしまうからではない。視界の先に、君がいたから。


「シェルド?」


 彼の名前が、こぼれて落ちた。

 若草色の丘の上にいる彼は、驚いた顔で私を見下ろしていた。たぶん、私も同じ顔をしているのだろう。

 見つめ合ったまま、しばし時間が止まった。

 会いたいと、確かに願った。しかし、今はもうカレッジの授業が始まっている時間なのだ。君が、こんなところにいるはずがないのだ。

 運命、なんてことを、迂闊にも信じてしまいそうになる。

 彼は、カレッジの制服を着ていた。私と同じように、授業をサボったのだろうか。そういったタイプでは、なかったように思うが。

 しゅくしゅくと草地を踏みしめる音がして、シェルドがこちらにやってくる。

「レイチェル」と言ってから、バツが悪そうな顔になって、「さん」と付け加えた。


「呼び捨てでいいよ。同じ年なんだし」


 ぎこちなく笑ってみせると、「話すのは初めてだから」と彼が言う。

 そういえば、ループしたばかりだったなと、彼の言葉で思い出した。


「そうだっけ? でも、私の名前、よく知っていたね?」

「そりゃあまあ、伯爵令嬢様だしね。君が僕のことを知らなかったとしても、僕は知っているんだよ。君の噂は、いろいろな場所から聞こえてくるからね」

「令嬢……かあ。一応、そういうことになっていたんだっけね」

「一応じゃないでしょ」


 軽快な声で彼が笑う。笑いながら、次第に笑みを引き取った。


「泣いているの?」

「え?」


 そこでようやく、自分の目元が濡れているのに気が付いた。ごめん、と目元を手の甲で拭った。


「ちょっとだけ、嫌なことがあったんだ」


 薄く笑ってみせる。シェルドは何も言わずに、「こっち来て」と私の手を引いた。


「なに? どういうこと?」

「いいから」


 手を引かれるままに丘の上まで登って、「ほら」と指し示されたそこからの景観に、私は息を呑んだ。

 眼下には、一面の緑と山が広がっていた。その向こうに、いろいろな形をした屋根と壁と建物があり、誰もいない細いあぜ道が、街までまっすぐ伸びていた。遠くの道を、ゆっくりと移動する馬車があった。密集している屋根を貫くようにして、尖塔がいくつかそびえ立っていた。カレッジの尖塔だ。そのまた向こうには、真っ青な空と海が広がっていた。

 ここからでは小さくて見えないが、街の中にはたくさんの人が生活しているのだろう。笑っている人も、泣いている人も、怒っている人もたくさんいるのだろう。それら一人ひとりの心と、私が寄り添うことは一生ないのだと、そんなことをふと思った。彼らの悩みを私は知らない。私の悩みを彼らは知らない。お互いに不干渉のまま、それでも時は流れていく。私の知らないところで。


「ちっぽけだなあ……」


 この街で暮らしているほとんどの人にとって、私の存在も、悩み事もとてもちっぽけなものなのだ。

 そういった当たり前のことが、不意にわかった。


「絶景でしょ? ここから見る景観が好きで、時々こうして来ているんだよ。学校をサボってね」


 いたずらっぽく、シェルドが笑う。それは、この世界でも変わらない、屈託のない笑顔だった。


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