【初めてずれた座標】
苦しい。喉の奥が焼けるように熱い。
辺りは真っ暗で何も見えないのに、自分が今どういう状況におかれているのか、それだけは手に取るようにわかった。
私の背中から胸にかけて、焼けるように熱い何かが貫通している。
刃だ。私の体を刃物が貫通しているのだ。
傷口と口内からあふれ出してくる血で、私の胸と喉は焼けるように熱いのだ。
考えなくてもわかる。これが最期の瞬間なのだと。私はまた失敗したのだと。
どうして?
何も失敗する要素はなかったはずだ。逆に言えば、成功する要素もなかったのかもしれないが。
後ろに誰かがいる。
私を殺した人間の顔を最後に拝んでやろうと思って、動きの鈍くなった首を懸命に回した。
そこにいたのは――。
「わあッ!!」
大声を上げて飛び跳ねるようにして起きた。
寝台の上に上半身だけを起こして、周囲の様子を見た。
半分ほど開いているカーテンの隙間から、日光が差していた。鳥のさえずりが聞こえていた。雷雨の中、傘も差さずに走ってきたときみたいに、背中がじっとりと汗ばんでいて、気持ちが悪かった。
今のは、夢? それとも?
いや、夢かどうかなんてそんなことはどちらでもいい。
今は何時なんだ。
なぜ、私は自分の部屋にいるんだ。
記憶が、途中から欠落している。
朝、プレアが家に来て、それから二人でカレッジに向かって、それから――。
何があったのかまったく覚えていない。
ひとつだけはっきりとわかったのは、おそらくループを脱してはいないということだった。
何がどうなったのかはわからないが、私はまた死んだのだ。
落胆が全身を支配していく。どうして――。
これまで、私が死ぬのは必ず六月一日だった。
このジンクスが崩れてしまった。それよりも、死期が一週間以上も早くなってしまったのだ。
何がどうしてこうなったのか。これでは、この先私はいつ死ぬのかわからなくなってしまうではないか。対策を、六月一日に集中させるだけではダメじゃないか。
「レイチェル様! どうかしましたか?」
自室の扉が騒々しく開いて、ルーチェが顔を出した。自分が思うより大きな声が出ていたらしい。
深呼吸をした。悩んでもしょうがない。まずは、今やれることをしなくては。
「ごめん、なんでもないわ。驚かせてしまってごめんなさいね」
「そうですか。なら良いのですが」
ルーチェが側まで来て、私の額に手を当てる。「熱はないみたいですね」と呟く。
「ねえ、ルーチェ。今日は、六月二日ではないわよね?」
しばしルーチェが絶句した。その反応で、答えはおのずとわかっていた。
「ええ、もちろんでございます。まだ、五月ですよ」
「そうよね」
「本当に大丈夫ですか?」
ルーチェがもう一度熱を測ろうとしてきたので、丁重に断っておいた。
「ええ、大丈夫よ。気分も悪くないし」
「……そうですか。今日は天候があまりよろしくないので、傘を持って早めに家を出られたほうがいいと思います」
「ええ、そうするわ。ありがとう」
何の気なしに答えてから、違和感が総出で私を襲ってくる。
「今、なんて?」
「レイチェル様? いえ、今日は天候がよろしくないので、と」
私はベッドから飛び降りると、パジャマ姿のままで部屋のカーテンを大きく開け放った。
雨が降っていた。しとしとと雨が降り続いている家の庭が見えた。五月の初旬は天候が崩れがちで、雨の日が比較的多かった。それは知っている。でも……。
「そんなはずない」
それは、無意識のうちに落ちた呟きだった。
ループして戻ってくる四月三十日は、これまで必ず晴天だった。これまでずっと、そうだったのに。
――ええ、もちろんでございます。まだ、五月ですよ。
全身が、総毛だった。
「ねえ! 今日の日付を教えて!」
なぜ、そのような質問を? と言わんばかりにルーチェの顔がいぶかしむものになる。
私の不自然な反応を、ルーチェが不審がることはこれまでもあった。しかし、ここからがいつも通りではなかった。
「……はい? 本日の日付は五月一日ですが……」
「そんなはずないでしょ!」
驚きから大きな声が出てしまう。ルーチェの眉間にしわが寄った。
「……お嬢様。今日はどうなされたのですか? 何かいつもと様子が違うようですが。お疲れになっておられるのでは?」
ルーチェの視点では、ループしてきたこの日から、私の行動が急におかしくなったように見えるのだろう。心配されてしまうのは当然だ。
「いや、ごめん。なんでもない。とりあえず、着替えて朝食にするわね」
取り乱してしまったことを反省する。
「かしこまりました。……そうだ、お嬢様、指輪を」
「指輪ね。はいはい、ちゃんとするから」
「はい、それであれば、良いのですが」
うやうやしく一礼をして、ルーチェが部屋を出ていった。すっかり動転してしまって、毎朝のルーチンを忘れてしまっていたようだ。
一人残された自室で考える。どうしてこうなっているのかと。
昨日、何があったのか。どうして、何も覚えていないのか。私は、なぜ死んだのか。シェルドに、プレアに、真実を告げて相談することはできたのか。それよりもなによりも。
なぜ、死期が早まったのか。
なぜ、ループの起点は一日ずれてしまったのか。
もしかしたら、このループ現象は有限のものなのかもしれない。一日ずつ戻れる日数が短くなっていって、やがてループ現象そのものが止まってしまうんじゃないかと。
だとしたら、急がなくてはならない。誰かに、頼らなくてはならない。
シェルドの顔が頭に浮かぶ。
前回の世界でイレギュラーな存在として登場した彼は、この世界でも関わってきてくれるだろうか。
それとも、あれは神の起こしたきまぐれみたいな奇跡であって、もう二度と会えないのだろうか。
その可能性が頭に浮かぶと、部屋の床ごと崩れ落ちてしまうかのような絶望感に襲われた。
私は、彼のことを信頼していた。だからこそ、すべてを打ち明けようとそう思っていたのに。彼がいてくれなかったら、私のループはまた失敗に終わるんじゃないのか。
それとも、彼が現れたせいで流れが変わって、むしろ死期が早まったのだろうか。
いやいやそんなはずはない。
図書館でボヤ騒ぎがあったとき、助けてくれたのは彼だったじゃないか。根拠のない不安を抱えたところで仕方がない。
やはり、彼に会ってみるしかない。この世界でまたシェルドに会えたら、洗いざらい話すのだ。彼に相談して、今後の展開と対策について一緒に考えてもらおう。
「よし!」
気合いを入れるように頬を両手で強く叩いた。不安はまだ拭えないけれど、それでも、やらなければならないことがある。
まずはカレッジに行かなくては、何もわからないのだ。