トイレを綺麗にしよう
前回のあらすじ
廊下が綺麗になった。アポロはこけた。
ワックスをかけてピカピカになった廊下の上を、滑る様にして歩いた。廊下掃除の後のこの時間が楽しいのだ。
「次はどこを掃除するの?」
「ああ、次に掃除する場所は、当然」
「当然?」
「トイレだ!!!」
廊下を進んで右側にドアがあり、その向こうにトイレがあるらしい。らしい、というのは僕はまだ使っていないからだ。これまで僕は出来る限り尿意を我慢して、耐えきれない時は外で済ませた。外でするしかなかった。なぜなら、きっとこのトイレはとんでもないことになっているだろうから。
「トイレ、って別に綺麗にする必要ある?どうせ汚くなるじゃん」
「必要ある!!!1日に5回以上使う場所だぞ!入るたびに汚いなぁ、と思ってたら精神がもたないだろ!」
「えー…」
「飲食店や観光地でもトイレの綺麗さが売上に直結するほど、重要な場所なんだぞ。トイレにはそれはそれは綺麗な女神様がいるんやでえ」
「急に言葉遣い変わったけどどうしたの?それに女神様はトイレには行かないと思うけど…」
「とにかく、この家のトイレを使用可能なレベルまで持っていくことは至上命題だ!」
「使用可能だと思うけどなあ」
アポロはぶつくさと文句を言いながら、トイレのドアを開いた。
「使用不可能だ!!!」
こんなトイレ、使える訳がない。日本の清潔なトイレに慣れた僕からすると、耐え難い拷問の様に思えた。
普通の洋式トイレと、トイレットペーパーがあるだけなのだが、とにかく全体的に茶色い。トイレットペーパーの切れ端が床に堆積して変色しているし、トイレの蓋にシミはついている。さらに便座には悪魔の顔みたいな模様が付いている。これは、カビだろうか…
「ちょっと、やっぱり、引くわ」
「ごめんなさい…引かないで…」
女神様もげんなりしていたことだろう。こんなにトイレを汚くしておいて、アポロはべっぴんさんに育っていることが不思議だ。
僕はカバンからゴム手袋を取り出した。絶対に素手で触りたくなかった。
まずは床に散らばったトイレットペーパーを回収して、ゴミ袋は突っ込んだ。本当に、なぜこんなに床に散らばってしまうのだろうか。
「こんなに散らばってたんだねえ」
他人事のようにアポロが呟いた。トイレットペーパーをぶん投げてやろうかと思った。
「ふう、やっと床が見えてきた」
なんでこの家は、床を見るためにこんなに苦労しなければならないのか。床の定義がわからなくなりそうだ。
そして僕は、カバンから粉を取り出した。
「何それ?」
「クエン酸だよ」
「クエン酸?」
クエン酸の粉末。これがあるだけで掃除は随分と楽になる。僕はクエン酸を水に溶かして、汚れている場所に吹きかけた。
「何してるの?意味あるの、それ」
「意味ある。酸性にすることで黒ずみや水垢、尿石を落とすことができるんだ」
僕はトイレットペーパーを切り取り、クエン酸をかけた場所にペタペタと貼り付けた。
「これでしばらくおいておこう」
10分ほど放置したのちに、トイレットペーパーを剥がした。汚れは酸性になることで浮き上がり、つるりと落ちた。
「凄い!!!白い!!!」
「トイレが白いことに感動するなよ」
僕は少し悲しくなった。
ひどい汚れを取り終えたあとは、クエン酸をかけて、ゴム手袋で擦る。これを繰り返すことで、便器に長年こびりついた細かい汚れをあらかた落とすことができた。ゴム手袋で便器を擦っている僕の姿を見て、アポロは信じられないという顔をしていた。おい、お前が引いてどうする。というか手伝えよ。
クエン酸を床や壁に塗り付け、雑巾で拭いた。トイレという狭い空間だが、壁の汚れが落ちることで随分と印象が変わった。
「えええ、綺麗な部屋じゃん!!!」
後ろでアポロが飛び跳ねている。綺麗な部屋、という表現には少し思うところはあったが、喜んでくれているようだ。
「これからは週に一度は綺麗にするように」
「えーーー、こんなに綺麗になったんだし、数年は大丈夫でしょ!」
「トイレの神様に謝れ!」
「ふふふ、女神様は喜んでいるみたいだよ。さっそく新しい奇跡に目覚めたし」
「おお、早いな。次はどんな奇跡なんだ?」
「きっとお掃除にも役立つと思うよ!というかこれで全部解決かも!行くよーーー」
なんだか嫌な予感がする。
「待て、アポロ、一体何を!」
「水の浄化!!!」
彼女は天高く手をかざした。すると、彼女の手から大量の水が出てきた。
「なるほど、水洗トイレってことか。…ってバカタレ!!!」
すぐにトイレは水で溢れた。その水は廊下を埋め尽くし、玄関をびしょびしょにした。
「これで全部綺麗になるわね」
「このバカタレが!!!せっかく綺麗にしたのに、びしょひしょにしてどうするんだ!!!」
「えっ、全部流しちゃえばいいんじゃない?」
「お前は家をなんだと思ってるんだ!!!いいから、早く水を外に出すぞ!!!」
このままでは床が腐る。僕とアポロは半泣きで水を外へ出した。終わった時には、すっかり日が暮れていた。
「二度とじまぜんんん」
アポロは泣いて謝っているが、僕はしばらく彼女を無視した。
こうして1日が終わっていく。結局掃除は予定の半分も進まなかった。なんて作業効率の悪い1日だったのだろう。掃除は大好きだが、やっぱり一人でやった方がいいな。
「まあ、ご飯でも買いに行くか」
僕は泣きじゃくるアポロを宥めて、買い物袋を持った。今日は何を作ろうか。彼女は喜んでくれるだろうか。そんなことを考えている自分に気が付き、少し笑った。
「何笑ってるの?」
「何でもない」
僕たちは食料品店まで2人でゆっくり歩いた。今日食べたいものを話しながら。
非生産的でも、たまにはこんな1日があっても良いのかもしれない。