時間の重み
「こんばんは」
学校のクラブが終わり、息を切らしながら裏口の扉を開けた。
「いらっしゃい霞ちゃん」
熱が籠る厨房で、香織さんは汗を拭きながら微笑んだ。
「遅くなりました」
「いいのよ、さあ入って」
「ありがとうございます」
急いで厨房を抜け、従業員の着替え室に向かう。
ロッカーに入っていた服に着替え、店内に急いだ。
「よ!」
厨房奥ではフライパンを左手一本で振りながら右手を上げる隆史が居た。
小学校から学校のクラブ活動を一切しなかった隆史はずっとお母さんの手伝いをしてきた。
馴れた手付きは、さすが10年のキャリアを感じさせる。
「お待たせ」
「いいよ、これ3番テーブルな」
「うん」
厨房の受け取り口から皿に盛られたオムライスを素早くお盆に乗せ店内に、夜7時の店は満席だった。
「いらっしゃいませ」
料理を運び、次のお客様に水を出す。
店内には従業員が私以外にもう1人いる。
でも20席を越える食堂を回すのは大変だ。
「霞ちゃん、今日も元気だね」
「ありがとうございます!」
「霞ちゃんを見ると元気を貰えるな」
常連さんから声が掛かる。
元気一杯返すと別のお客様からも、2年間店を手伝ったお陰で、この町にすっかり馴染めた。
「お先です」
「はい、お疲れ様」
8時を回り、最後の従業員さんが店を後にする。
後は私と隆史、そして隆史のお母さん、香織さんで充分。
「ふー疲れた!」
ようやく最後のお客様が帰り、店内に静寂が訪れた。
「隆史君、お疲れ様」
テーブルを拭きながら飲み物を並べる。
もちろん、ちゃんと購入した物。
「霞ちゃん、隆史でいいのよ、隆史で」
「....そんな香織さん」
香織さんは疲れた様子も見せず、コップに入った炭酸ジュースを飲み干した。
お酒に強い香織さんだけど、まだ大切なお客様が1人来るので、今はお預け。
「どうなのよ隆史?」
「ど、どうって...」
「なに考えてるの、学校に決まってるでしょ?
あんたもう高3だから、進学とかって意味よ」
「あ、ああ」
「ひょっとして霞ちゃんの事と勘違いしたのかな?
霞ちゃんも顔が赤いわね」
「母さん!」
「おばさん!」
「冗談よ、冗談。
あと霞ちゃん、私の事は香織ちゃんだよ」
「はい」
冗談と言いながら、しっかりおばさんには訂正を入れる。
確かに40歳には見えないけど。
「全く、それなら母さんこそ、おじさんとどうなのさ」
「ち、ちょっと隆史、あんた」
隆史の言葉に香織さんが固まる。
本当。分かりやすい人だ。
「で、どうなの?」
「そんな、泰明さんと私はそんな...」
隆史の追い討ちに服の裾をつまみながら香織さんは俯いてしまった。
本当に綺麗な香織さん、その可愛い仕草に思わず見とれてしまう。
「すみません、遅くなりました」
暖簾を外した店内に1人の客が入って来た。
今日も残業してたんだ、お父さん。
「おや噂をすれば、だ」
「何が?」
隆史の言葉に首を捻る。
でも視線は香織さんから離さないね。
「お父さんお疲れ様」
「ああ霞、今日もご苦労様、ちゃんと手伝ったか?」
「うん」
私と隆史は視線を合わせる。
後は2人の時間。
「ほら母さん」
隆史はお父さんを見つめている香織さんの肩を叩いた。
「あ、あの泰明さん、今日は良い金目鯛が入ってまして」
「おお!」
「煮付けにしますね」
「そりゃ楽しみだ!」
大好物の料理に嬉しそうなお父さん。
すっかり体型も戻ったね。
「さて、後は」
「うん、2人に任せて」
私達は着替える為、席を立った。
「おい霞!?」
「隆史、あんた!」
「はい、おじさんビール」
「はいおつまみ。
タコわさび隆史が作ったの、好きだったでしょ?」
「そうだな」
お箸を取るお父さん。
ビールのグラスはちゃんと二つ並べた。
「それじゃ霞を送って来ます」
「ああ頼むよ」
隆史の言葉を聞き流すお父さん、すでにおつまみに夢中だ。
でもビールの栓は開けない、一緒に楽しみたいんだろう。
「それじゃ香織さん、また明日」
「ありがとう...霞ちゃん」
厨房奥から聞こえる香織さんの声。
真っ赤になってるだろうな。
「ふう」
「お疲れ様、コーヒーで良い?」
「ありがとう」
自宅に着いた私達はのんびりとする。
これは大切な時間。
「どうぞ」
「旨い」
美味そうにコーヒーを飲む隆史。
私もゆっくり楽しむ。
「...あの2人、なかなかだな」
ポツリと隆史が呟いた。
「うん、まだ2年しか経ってないし」
「そうだな」
お父さんと香織さんはお互い惹かれあっている。
あの日、2年前に初めて行った時から、私達父娘の運命が始まった。
それは隆史と香織さんもだったそうだ。
「...でも分かるな」
隆史がコーヒーカップの縁をなぞりながら再び呟いた。
「分かる?」
「ああ、母さんも泣いてばかりだった」
「香織さんが?」
元気一杯な香織さんだけど、12年前に彼女も夫を不倫で失っていた。
最初に聞いた時はショックで声が出なかった。
「隠れて泣いてるのを何度も見たんだ」
「...そう」
息子に見られない様に隠れて泣く香織さん、
その姿を想像する私の心は締め付けられた。
「時間薬かな」
「時間薬?」
「爺ちゃんが言ってた、時間が経てば心の傷は塞がって行くって。
完全には治らないだろうけど」
隆史のお爺ちゃん。
元々は香織さんのお父さん夫婦が始めたのが今の食堂だった。
5年前、お爺ちゃん夫婦の引退を期に今の店に改装され、お洒落に生まれ変わった。
「...それって隆史も?」
「.....」
「ご、ごめんなさい!」
私ったら軽はずみな事を!
「....分かんない」
「...隆史」
軽率な言葉に隆史は怒るで無く天井を見る。
何かを思い出す様に。
「俺、5歳だったから。
ある日突然だった、いきなり親父が女の人を連れてきて...1年ぶりに会える、親父と遊べる、そう思ってたのに」
隆史の父親は単身赴任先で女と不倫した。
女が妊娠した事で、女の家族から香織さんは離婚を迫られたそうだ。
「母さんもさ、何日も前から親父が帰って来るのを楽しみにして、大好物を朝から作って...」
「止めよう」
隆史の言葉は私の記憶を呼び戻した。
ある日突然友人と思っていた同級生からみんなの前で言われた言葉、
『あんたのお母さんPTA会長と不倫してるんだって?』...最悪。
「でも、母さんの幸せそうな顔。
あんな顔、俺10年振りに見たんだ」
隆史は顔を綻ばせた。
「そうなの」
「霞はどうなんだ?
おじさんは幸せじゃないのか?」
「幸せだと思う、間違いなく」
素直にそう思う。
心の傷はまだ深いけど、この町に来て日に日に元気なるお父さんは間違いなく香織さんから幸せを貰っている。
「でも、やっぱ、まだ2年だもんな」
「うん」
そう、まだ2年、私自身心にはまだアイツが、母が居る。
「俺、母さんには幸せになって欲しいんだ!」
「うん、私もお父さんに幸せになって欲しい!」
私は隆史と頷きあった。
「俺達って端から見れば相当なマザコンとファザコンだな」
「うん、間違いなくね」
高校ではそう思われている。
その一方で、私と隆史は恋人同士とも...
「母さん達が結ばれたら、俺達も踏み出せるかな?」
「うん、きっと」
その日が来れば、私は隆史と...始まるんだ
香織さんとお父さんが再婚を決めたのはそれから5年後、私達が大学を卒業した年だった。
その年、私達も結婚を決めた。