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45億年の傀儡

作者: 荒城 醍醐

台風の日に、鳥取砂丘に車で行ったときに思い付いたお話です。

 この町は、もう、だめかもしれない。うまく育たなかった。

 これではディレクター氏が首を縦に振らないだろう。

 カーソルを小路の先へ進ませると、ディスプレイに映し出された町並みがひらけて、町の中央広場に出た。中世ヨーロッパの典型的な町の造り――だと日本人ゲーマーたちが思っているような町だ。実際にはこんな小奇麗な街並みではなかったはずだ。

 マウスで視点を操作してぐるりと見回すが、晴れた昼間だというのにほとんど人が出てきていない。

 噴水の水だけが、生きているように動き続けている。

 活気が無さすぎる。シナリオライターたちも使えないと言うだろうな。こんな『特徴』の町にニーズは無いと俺だって分かる。

 どれくらい遡って育て直せばいいだろうか。

 とりあえず、こうなった原因がわかるかもしれないので、広場にいる数少ないキャラクターと話してみることにする。噴水の向こう側で小さな男の子を連れた町娘がいる。傍観モードを切って通常の操作アイコンを復活させてから『会話』を選ぶ。

「『こんにちは。なにしてるの?』と」

 本来この手のゲームは音声入力方式だが、製作中だから今は手入力しか受け付けない。キーボードで入力しながらそのセリフを声に出してしまうのは、別に俺が変人だからじゃなく、製作者共通の癖なんだと思う。

 地味なエプロンドレス姿の銀髪の町娘がこちらを向いた。

 やけに美人だ。

 かすかに微笑んでいるように見えるが、表情やアクションによる感情表現は、まだ実装していないので、純粋にこのキャラクターの基本デザインがこうなのだろう。

『こんにちは。弟と遊んでいるところよ。旅人さん?』

 人見知りしない明るい性格のようだ。音声による応答ではないので抑揚は不明だし表情も変わらない。代わりに、開発者向けの感情を視覚化するためのするアイコンがキャラクターの頭の上に出ている。なかなか好感度が高いことを示すピンク色の丸だ。

 視線を下へ向けると、弟の方は町娘のスカートに隠れてこっちを見上げている。感情アイコンは紫色の逆三角。警戒心が強いようだ。

「『この町に来たところだ。とりあえず宿をさがしています』」

『宿は二軒よ。西の十字路の宿がお勧めね。おかみさんが世話好きだから』

 情報提供が素直すぎるかもしれないが、モブキャラクターの町娘はこんなものか。弟の方はしゃべらないだろうか。子供の好感度を上げる定番アイテム『アメ玉』を取り出してあげようとしてみる。

 ダメだ。感情アイコンの色が青紫になってしまった。かえって警戒心のほうを強めてしまったらしい。まあ、これはこれで個性的なキャラかな。

 今度は木のおもちゃを試そうかとしていると、現実世界の背後で音がしたのでマウスの手を止めた。鉄の階段をカンカンと登ってくる足音がする。硬い靴底で軽めの人物の足音。おそらくヒールを履いた女性。

 築四十年近いボロアパートは、防音という概念とは無縁で、モニターに向かっていても、こうして現実世界にたびたび引き戻される。それでも和室2DKのこのアパートに住み続けているのは、サーバとその空調を置くための電源工事を快く承諾してくれた大家さんに悪いと思っているからだ。

 ふすまの向こうの四畳半はサーバと付属の装置類が占拠していて、生活空間は実質六畳和室と三畳ほどの台所兼玄関。安さを理由に学生時分から住み続けている。入居したときは築二十五年だった。下見のときから、あの薄っぺらい金属板の階段の音が響くことが気になっていた。とくに今登ってきている人物のように、軽快な駆け足だとアパートじゅう寝てても目を覚ますほどに響いている。

 二階に登りきってコンクリートの通路に入った足音は、俺の部屋の前で止まる。

 とんとんとん、と木のドアをノックする音につづいて、アニメキャラのような声がする。

「オハヨー、雅史。開けるわよ」

 名前を呼ぶあたりで、沙希はすでにドアは開けていて、俺が振り返ったときにはドアを閉めて靴を脱ぎかけていた。

 ポン、と花のように開いた水色のスカートのすそを右手で押さえるようにして足元を覗き込み、左手でハイヒールの止め具をはずしている間、ふわふわにボリュームアップした茶髪がうつむいた顔を隠してゆれている。玄関から二歩進めば和室なのでスリッパなんていうシャレた物は俺の部屋にはない。小柄な彼女も、バレリーナのように爪先立ちで軽快に二歩で板間を渡って部屋に入ってきた。

 彼女は立ったまま前屈し、座布団の上にあぐらをかいてパソコンに向かっている俺の顔の左横に頭をもってくると、両手で前髪をかき分けてディスプレイを見て言った。

「かわいい坊やじゃないの。それとも目当ては美人のおねえさんの方?」

 ここで初めて俺の方を向く。

 顔が近すぎるだろ。振り向くときに、彼女の髪が俺の顔の左半分を掃除していった。

「子供の方だよ。木のおもちゃで懐柔しようとしてたところだ。っていうか、これは開発中の画面だから社外秘なんだよ。もう、見るなよ」

 停止コマンドを入力すると、ここまでのデータをセーブするか捨てるかを訊ねる製作者向けの味気ないメッセージが画面の真ん中に現れた。

 頭より先に指が判断して、データを捨てるほうを選ぶ。Enterキーを押した瞬間に、保存をしておいてもストレージの空きに大差ないから残せばよかったかな、という『迷い』が遅まきながら頭を過ったが、後の祭りだ。どうせ残しても二度と読み出さないだろう、と納得するしかない。

「なーんだ、やめちゃうんだ」

 彼女は前屈していた身体を戻して、ちょっと口をとがらせながらこっちを見下ろす。

「続けてもよかったのか? 飯つくりにきてくれたわけじゃないんだろ」

 朝七時にいきなりドアを開けて入ってくるってのは、それなりの理由があってのことでないとな。

「あらら、忘れちゃってたわけ? 今日はあなたの車で砂丘につれていってくれる約束でしょう? ラクダに乗って、砂でできた像を見るのよね」

 その約束は、たしかにしたさ。昨日の朝、彼女が急に電話でラクダに乗りたいって言い出して・・・・・・。

「台風情報見てないのか? 本州直撃コースだぞ。今日はナシだろ」

「天気予報は見たし、道路情報も見たわ。通行止めとかないわよ。台風って、あのコース予報のすべての位置に常時台風が存在してるわけじゃないのよ。四次元で考えなくちゃ。あの予想どおりなら、今から出発したら、台風が来る前に予報のコースを横切って日本海側へ抜けられて、鳥取砂丘とか見てるうちに台風が南側を通っていって、帰り道は台風の影響ないじゃない」

 たしかにそういうことになるかもしれないが、台風をバカにしてどこかで立ち往生したら、日帰りにはならない。

「台風を侮るなよ。来週でいいだろ? ラクダは逃げないよ」

「今日ラクダに乗りたいっていうわたしの気持ちが逃げちゃうのよ」

 そんなの逃がしていいよ、と言い返すのはやめにして、パソコンで天気予報を確認する。たしかに、今の予報どおりなら、彼女の言うとおりのタイミングだが。そこまで予報を信じるか?

「約束!」

 まっすぐこっちの目を見て、威圧するように言われると、言い返す気力も失せてきた。

 結局、俺は、彼女の言いなりなんだな。俺がパソコンをシャットダウンして上着を着ると、彼女は満足そうに微笑んだ。

 俺みたいな出不精のヲタク系の男は、異性の交際相手にはあまり恵まれない。俺が彼女と付き合えたのはラッキーだと思うべきで、彼女に合わせられる部分は合わせてもいいと思っている。そんなに無茶なわがまま女ってわけじゃないしな。

 初めて会ったとき、兵庫から東京に出てきたと彼女は名乗ってたが、俺が神戸の生まれだと言うと、急にゲームのことに話題を変えてしまった。思えばあのときから彼女のペースだ。自分のことは話したくないのか、毎日のように会って付き合っていても、今だに彼女の家族のことさえ知らない。

 まあ、彼女が独身じゃないなんてことだったら驚くが、それはなさそうだから、このまま付き合って、ご家族にご挨拶、とでもいうことになってから詳しく聞けばいいかなと思ってる。


 空はどんよりと重い雲に覆われていて、空気は湿気に満ちていた。そろそろ日が昇ってる時刻だが、まだ暗い。

 天気予報がない時代の人間だって、こういう天気のときは出かけるのをためらったんじゃないかな。そこそこ当たる天気予報がある現代、台風が向かって来るってわかっているのに、その鼻先を横切って、わざわざラクダに乗りに行く阿呆になりに行くってわけだ。

 先に助手席に滑り込んだ彼女は、さっさとシートベルトを締めて、CDを選び始めていた。

「景気のいい音楽にしてくれよ。眠くならないように」

 エンジンをかけると、彼女がアニソンのCDを入れた。

「あら? 寝不足?」

 朝七時に来ておいて、言うセリフじゃないだろ。まあ、睡眠時間は十分だが。

「いや、寝起きだからな。昨夜仕込んだパラメータで、さっきの町が仕上がるまで寝てた」

 駐車場を出てインターチェンジへ向かう。台風がこのあたりまで到達する予想は明日未明なので、町はふつうに朝を迎えているようだった。

 土曜の朝は車も人も少ないが、駐車場の入り口には車が連なっているところもある。

 ああ、そうか。今日は競馬の開催日だ。府中競馬場の脇を通りながら、明日のGⅠ開催が台風で中止になりそうな中、前日開催に群がる競馬ファンたちの熱意に感心していたが、わざわざ西へ向かって彼女をラクダに乗せに行く自分の境遇を思い出して、まだ台風はずっと先なんだから普段どおりの生活を送るのはあたりまえだよな、と納得する。

「最近、そういう生活が続いてるわけね。あなた今はゲーム製作の、どのへんを担当してるわけ?」

 こいつは難しい質問だ。市街地を運転しながら答えるとなると、特に。

 彼女と知り合ったのは、そもそもゲームの同人イベントで、彼女もそこそこゲームに詳しいから、説明すれば理解できるかもしれない。ゲームに詳しくない相手なら、ちょっと説明できない仕事だが。

「中世ヨーロッパっぽい世界を舞台にしたオンラインゲームの町を育てる担当さ」

「町を、育てる・・・・・・」

 彼女が反復する。質問形ではないが、納得してない口ぶりだな。

「以前のゲームだと、デザイナーが町の細部まで細かくデザインして、プログラマーがそれを忠実に再現してたんだが、最近やりかたが変わってきてるのさ。ほら、都市や国なんかを育てていくゲームってあるじゃないか。ああいうゲーム感覚で、町の住人をまるごと育成するのさ」

 インターチェンジから中央高速に乗る。台風が向かってくる西への車は、やはり少ないような感じだ。

「原型となる町はプログラマーが用意してくれてる。そこに人を配置し、交易やら資源やら治安やらの情報を入力して、あとはある程度放置するだけなんだがな。放置しては町の育ち具合にあわせて、何度かパラメータを修正する。その加減が難しくてね」

「ただの単純作業のパソコン番じゃないって言いたいのね」

「ま、そういうことだな」

 高速の車の流れに乗ると、すこし思考に余裕ができた。アニソンが流れる中、会話も弾みだす。

 紗希とは会話が噛み合う。自分の仕事でもあり趣味でもあるゲームの話をしていればいい女の子というのは貴重で、それが彼女と付き合ってる理由かもしれない。

「さっきの子供の町は、今頃放置で育ってるとこなの?」

「いや。あれはやり直しするんだ」

 木のおもちゃをあげそこなった子供の顔がフロントグラスに思い浮かぶ。

「やり直しって?」

「町がうまく育たなかったから、セーブしてあるところに戻って、パラメータを入れなおすのさ」

 仕事として考えるなら、その選択肢しかない。だが、どういう子供だったのかは、興味は残る。消してしまった今となっては、あの子を再現することはできないのだから。

「じゃ、あの子供はどうなるの?」

 気にしているところを訊かれて、ちょっとチクチクするものを感じる。

「消えちゃったんだよ。っていうか、生まれてないところまで戻ってしまうから、もう生まれないな」

 ふてくされたときに唇をとがらせて右にゆがめるのは俺のクセだ。沙希がそれを見ている雰囲気が助手席から伝ってくる。

「再現できないの?」

「最近のNPCはそんなに単純じゃないからな」

 彼女がどの程度知っているかによって、どこから話せばいいか異なるわけだが。

「ちょっと昔までは、NPC、ノンプレイヤーキャラクターと言えば、決まった場所にいて、プレイヤーキャラクターと会話するためのいくつかのセリフを与えられただけの存在だったろ?」

 特徴と言えるのは外見とセリフの口調程度だった。

「ネットゲームでホスト側のサーバ能力が高くなってきて、会話ソフトのように受け答えできるキャラも配置できるようになった。そして『剣士マリアンヘレス』の件が起きた」

「マリアンヘレス? なに、それ」

 ゲームの世界じゃ結構有名な話のはずなんだが、彼女が知らないっていうのは意外だな。

「冒険ファンタジー系のオンラインゲームのNPCさ。プレイヤーのパーティに戦士系が不足してたときの戦力補充のために用意されたキャラで、酒場やギルドにいて、プレイヤーに誘われるとパーティに参加していっしょにクエストを受ける」

「そういうの普通じゃないの?」

「それだけならね。マリアンヘレスが特別だったのは、プロデューサーのこだわりでゲーム本体と同等規模のプログラムを組んでたことさ。彼女はプレイヤーとの会話を記憶して、相手との好感度や親密度に応じて会話したし、ゲーム内の話題だけじゃなくて世間話にも女性プレイヤーとして応じてた」

「それがうけちゃったってわけね、本物の女性と話せない男性プレイヤーたちから」

 彼女の言葉には、かわいい棘があった。

「いや、そうじゃない。そのことを公表しなかったんだよ。彼女をナンパしようとするやつや、惚れちまうやつも現れ、そして、掲示板に彼女のことが書き込まれた。それを読んで、おれも知ってるってやつらがどんどん書き込んだ。クエスト中は他のパーティとの接触はないタイプのゲームだったから、鉢合わせの心配がなかったもんで、マリアンヘレスは同時に何十人もプレイに参加してたんだ。最初のうちは、ヘビーゲーマーだなあって思われてたが、そのうちプレイ時間がダブってるってことがバレた。彼女の正体が発表されたのはその後さ」

「だまされたって訴えられちゃったんじゃないの?」

「大ウケしたのさ。彼女と会話したいっていうゲーマーが殺到して、サーバが止まっちまうほどにね。以来、どのゲームも真似をはじめたってわけだ」

 彼女が斜めに身を乗り出してくる。

「じゃ、わたしがゲームで人間だって思って話してる相手も人間しゃないかもしれないわけ?」

「ちゃんと座ってろよ。その姿勢じゃシートベルトが意味なくなっちまう。大丈夫だよ、各社自主規制で、デフォルト設定では相手がNPCかどうかわかるようになってるのさ。希望する人だけが区別しないでプレイする設定に変えられるってのが主流」

「な~んだ。あ、そういえば、なんか馴れ馴れしいNPCとか、無愛想な酒場のマスターとか居るわね」

「それが多分マリアンヘレス型のNPCだよ。何度も話せば複雑さがわかったかもな。それが目的でゲームしてるプレイヤーも多いよ」

 大型トラックが連なる車線から追い越し車線へ移って加速する間、ふたりとも黙って、軽快なアニソンだけが流れる。

「で? あの子供もそのタイプだから、再現できないってことなの?」

 運転が落ち着いたのを見計らって彼女が話を戻した。

「ああ。マリアンヘレスのときは、彼女ひとりだけが特殊なNPCで、ゲームが提供された時点の彼女は再現可能だったろうけど、プレイヤーたちと出会って人間関係を重ねていくと、彼女はさらに成長する。セーブされてなきゃ再現不能なほど細かい設定にね。今作ってるゲームは、全NPCがマリアンヘレス型なんだ。あの町だけで人口は二百人以上。ひとりひとりデザインなんてやってられないから、NPCだけで時間を流すのさ。基本設定だけやっておいて、あとはNPC同士が人間関係を構築して互いに影響しあう。友人や恋人、憎しみあってたりライバル視していたり。友人が多いキャラもいれば孤独なキャラもいる」

 富士山が見えてもよさそうなところを走っているはずだが、低い雲が空を覆っていて見えやしない。

「その育った町を消しちゃったの? それって残酷」

 とがめるような口調で痛いところを突いて来る。こっちは運転中だぞ。

「ただのプログラムだよ」

 自分でもそう思えないくせに、口からはすぐそのセリフが出た。自然と、唇をとがらせて右にゆがめてる自分に気がつく。彼女が突っ込むのをやめたのは、それに気づいたからかな。


 昼も過ぎ、佐用ジャンクションから北の鳥取へ向かうころには、雨が降り始めた。風も強い。

「雨じゃラクダはやってないんじゃないか?」

 だめだった場合のための予防線を張っておく頃合だよな。

「いいから行くの。中国山地の山越えだからでしょ、雨は」

 ここまで来て引き返すつもりはないんだがな。雨は走っていると降ったりやんだりで、北の空は幾分明るいような気もするから、降っていないかもしれない。

 鳥取市の市街地が見えてきた。海岸付近に丘陵が見える。あの向こうに砂丘があるはずだ。ケチってナビを使っていないツケがここで出てしまって、曲がるところを間違えたが、県庁の前に出てほっとする。

 午後二時過ぎ。暴風圏はなんとか逸れてる。雨も今は降ってない。

 砂丘センターの駐車場へ停めてリフトで砂丘へ向かうとき、眼下に土産屋と駐車場が並んでいるのが見えて、あちらに停めればよかったかな、と思う。

 意外にも観光客は少なくない。

 もしも台風が近づいていなければ、こんなものじゃないんだろうか。リフトを降りて砂地の坂を上ると、遠くに砂丘が見える。すぐ近くにはラクダが数頭繋がれている。

「雨が降る前に乗っとけよ」

「うん」

 わざわざこんな遠くまでラクダに乗りに来たというのに、沙希のテンションは高くない。さては、ラクダに乗りたい気持ちとやらが、すでに逃げちゃったのか?

 数組の先客がいて、そのあとに並ぶ。ラクダの係の人の会話からすると、やはり雨が降るとラクダの営業は中止になるらしい。

 乗ってその場で自前のカメラで記念写真を撮るコースと遊覧するコースがあるが、沙希はあっさり記念撮影を選んだ。乗れさえすればいいらしい。

 待っている間、沙希と並んで海の方向にある砂丘を見ていた。

 長い下り坂の先に砂の丘が見えている。丘へ向かって歩く人と、丘から戻ってくる人がすれ違っている。

「近く見えるけど、あれ、かなり遠くないか?」

 砂丘に登って頂上で海の方を見ている人たちがかなり小さく見える。四、五百メートルぐらいあるかもしれない。

「え、ええ。そうね。あなた、その靴でだいじょうぶ?」

 彼女はどうやら違うことを感じていたようだ。

 スニーカーで来た俺は、ここまでの数十メートルですでに靴の中で砂を踏んでいる状態だった。沙希の足元を見ると、ちゃっかりサンダルに履き替えていた。

 ラクダに乗ったところをデジカメで数枚撮ったら、もうラクダへの興味は消えたのか、沙希は砂丘に向かって先に歩き出す。

「行きましょ。雨が降り出す前に」

 それもそうだが、このあと砂の美術館に寄って帰り道を運転する身としては滞在時間が気にかかる。ここまで苦労して来たんだからじっくり砂丘を体験したい気持ちと、日が変わる前に帰り着きたいという気持ちがぶつかっている。

 小雨がパラつきはじめ、観光客たちが砂丘から足早に戻ってきている。雨具を使っている人も多い。こっちはやっと坂の底に到達したあたりだ。ここからが上り。

 ここまでの下りは、まあまあ大きな砂浜なら経験したことがあるような傾斜と道のりだったが、ここからの上りは、およそ経験したことがないような砂の坂だ。ふつうの砂浜ではありえない角度の坂が、ありえない長さで続いている。

 ラクダ乗り場から見た砂丘は、やはり目の錯覚で近く小さく見えていたらしい。どんどん先を行く沙希のペースに追いつこうとすると、息が荒くなってきた。

 彼女が頂上に到達し、海岸の方を一瞥してから俺を見下ろした。

「早く。普段、運動しないからよ」

 頂上のそう広くないスペースに居た他の観光客たちは、雨が降り出してから減る一方で、あと一組の親子連れだけになっていた。

 足元に視線を戻し、ラストスパートのために膝に手を当てて、上り始めの歩幅を意識して大またであと二十歩くらいかと思いながら数えて進む。

 十歩ほど行ったところで、最後の親子連れが降りていくのとすれちがう。

「ふう!」

 頂上にたどりついてひとつ大きく息をすると、クスクスと沙希が笑っていた。

 唇を尖らせて右にゆがめながら、彼女をわざと無視して海を見る。

 灰色の空が残念な景色だ。

 白波が立つ日本海が眼下に広がっていた。

 砂丘の海側は、斜面と言うより断崖のような角度で、遥か下に波が打ち寄せる浜が見下ろせた。かろうじて降りていけるかもしれないが、上ってきた陸側の斜面と見比べると、とても上ってこれそうにない角度だ。

 数組の観光客が波打ち際に下りていて、傘を広げて撤収しはじめていたが、こっちに上っていくのではなく、大きく砂丘を迂回するルートのようだ。

 自分が登ってきたルートを振り返ると、さっきの親子連れの中の小学生らしい男の子が、右手の急斜面に移って、砂の坂を駆け下りていくところだった。砂丘の斜面を降りきった先の緩やかな上り坂を土産物屋の方へ向かう人の流れができていた。今から雨の中を砂丘に登ろうという組は、もういないらしい。

「頂上貸切だな」

 自然と笑みがこぼれる。雨の中だろうと、独占の満足感はなかなかいいものだ。

 もう一度日本海を眺めようと振り返る途中、沙希に視線をやると、彼女は海でもラクダの方でもなく、俺の肩越しの峰沿いに向かって、近い視線で眉間にしわを寄せて唇をぎゅっと結んでいた。

 不機嫌な顔をして、何を睨んでるんだ?

 彼女の視線をたどって、首だけ回して振り返る。

 人だ。

 わずか二メートルほどのところに、真っ白な服のカップルが立っていた。

 予想外のことに俺は思わず一歩退いた。

 たしかに頂上には俺たちだけだったはずだ。俺たちのあとに登ってくる人はなかった。じゃ、海岸側から急斜面を登ってきたのか?

 二十歳前後のカップルは、おそろいの白衣のような格好をしていた。女性も長ズボンだ。手前側に居る男は俺よりも体格が良く、二人とも端整な顔立ちをしていた。

 女性は腰あたりまでの黒髪の前髪を中分けにしていて、利口そうなおでこから鼻にかけてのラインがなだらかで目のあたりの堀が深く日本人離れした顔立ちだ。

 何を見てるのだろう。二人は並んで海に背を向けていたが、戻っていく観光客やラクダの方を見下ろすのではなく、ずっと東の方の空を見上げていた。

 そこにはどんよりした低く厚い雲しかない。飛行機とか飛んでる様子もないし、何より雨が降っている。つられて俺も上を向くと、いくら小降りだと言っても顔面に雨が当たって目をしっかり開けていられない。

 雨?

 視線をカップルに戻し、俺はまた一歩退いた。

 彼らは雨にぬれていない。

 二人の顔には水滴がまったくないし、輝くように明るい白色の白衣も、湿った様子がなくてパリっとしている。

 気味が悪い。

 沙希が眉間にしわを寄せていたのは、今の俺と同じ気持ちになったからだろう。

 俺たち二人の不愉快そうな視線に気がついたのか、女性の方が不意にこっちを向いた。男の方もすこし遅れてこっちを向く。

 二人とも顔立ちが整いすぎていて、マネキンかなにかのようだ。ただの美醜の問題ではなく・・・・・・そうだ。表情がないんだ。楽しそうでもなければ不機嫌そうでもない。面をかぶってるように無表情だ。

 このカップルは女性が主導権を握ってるらしい。彼女が二歩進み出てきて、口を開いた。

 彼女の言葉は日本語じゃなかった。

 いや、それが言葉かどうかも疑わしい。俺は語学に堪能なわけでも国外の文化に慣れ親しんでるわけでもないが、あれが言語だとは思えない。

 一番近いのは・・・・・・録音した会話を逆戻しで高速再生したような音だ。

 チュルチュル、キュルキュル、と表現したくなるような音が、不意にブツブツと不規則に何箇所も途切れ途切れになっている。

 彼女の唇が音と同時に小さく動いて見えたのでなければ、彼女が発した声だとは思わなかっただろう。

「いや、ごめん。何言ってるのかわからないよ」

 こっちが謝る話じゃないのかもしれないが、俺に話しかけているらしいので、言葉が通じないことを身振りも交えて伝えようとした。彼女のしゃべりを遮って、だ。

 彼女にこっちの意図が伝わったのか、俺にしゃべりかけるのを止めた。

 彼女はさらに一歩進み出て、俺の様子を観察するように見回した。長い髪がサラサラと肩からこぼれる。やはり彼女は雨に濡れていない。それだけじゃない。彼女の髪は、台風前の強い風の影響もまったく受けていないようにまっすぐ垂れていた。

 彼女が再び口を開いた。だが、俺に話しかけている様子じゃない。こっちの目じゃなく、のどのあたりに視線を向けたまま、例の逆回し音を発している。まるで、こっちを観察して、その内容をだれかにレポートしているようだ。連れの男に向かって言っているんだろうか。

 そうだったらしい。彼女がしゃべり終えると、一歩下がった彼女に代わって、男が俺の前に進み出た。

 男は握手を求めるように右手を差し出してきた。へんに断って心証を悪くしてもいけないと思い、こっちも右手を差し出したが、彼はその手ではなく、俺の左手首をつかんだ。

 えっ?

 何も持っていないように見えた彼の手が触れたとたん、電流のようなものを感じた。あわてて振りほどいて下がろうとしたが、足の感覚がない。

 めまいが・・・・・・視点が思うように定まらない。彼らが無表情にこっちを見ている姿が視界の下に消えていき、一面の雲が目に映る。

 雨風や波の音が消えた。無音だ。

 俺は・・・・・・倒れたのか? 雨粒が顔に当たる感触がある。触覚は生きているようだ。

 両肩をゆすられているのが遠くのできごとのように感じられる。

 ああ、沙希が俺を見下ろしてるじゃないか。心配げになにか叫んでいるようだが、耳鳴りのような音しか聞こえない。

 沙希は顔を上げて彼らの方になにか怒鳴っている。視線をそっちへ向けると彼らが並んで立っているのを見上げる構図になっていた。

 どうやらやはり俺は倒れたらしい。尻餅をついて、上半身を沙希が抱き起こしているようだ。

 白衣のふたりは、俺の顔を無表情に見下ろしている。沙希に怒鳴られているようなのに、沙希を無視しているようだ。

 彼らに無視されたからか、沙希はまた俺の方を見下ろし、なにか叫んでいる。ああ、唇の動きからすると、俺の名を繰り返し呼んでいるらしい。「雅史! 雅史!」と呼んでいる。

 音と、平衡感覚が不意に戻ってきた。

「雅史! 大丈夫?! わかる?!」

 手足も思ったように動かせるようだ。

「あ、ああ大丈夫だ」

 ゆっくりと立ち上がるのを、沙希が支えてくれた。めまいが少し残っているが、どうやら問題ないようだ。

「あなたたち! どういうつもりなの! 彼に何したの?!」

 沙希が傍らに進み出て抗議しはじめたが、彼らはふたりとも俺の顔だけを見ている。沙希を完全に無視するつもりのようだ。

 俺はいったい何をされたのだろう。

 白衣の女性がまた口を開いた。

 あの逆回し言葉をしゃべられてもこっちはわからないのに。

 彼女の口から出たのは、やはりあの音だった。一秒ほどの短いセンテンス。

 それは、俺にとってリアルタイムで意味が理解できる信号ではなかったが、今度は無意味な音ではなくなっていた。

 俺の脳が彼女の発した音を整理して言葉として認識しようとしている。

 彼女は三つの文章を、一度に混ぜて発声したんだ。

 そのうちのひとつは、謝罪だ。俺に衝撃を与えてしまったことが本意ではなかったと謝っている。

 もうひとつは何を行ったかの説明だ。記憶の交換? そうだ、その言葉が意味するところは、男と俺の記憶のコピーを交換したという事実の説明だ。そして俺は、その行為がどういうシステムで実施されるかを理解できる。与えられた記憶のおかげで、だ。

 最後のひとつは、俺がなぜ倒れたかという理由を分析したものだ。彼女にとっては無害な行為と思える記憶の交換に、俺の脳が耐え切れず、一時的な機能障害を起こしたのだろうという分析結果を俺に伝えようとしていた。

 俺が彼女の言葉を反芻している間に、彼女は男と短い会話を行っていた。今度は五つ以上の文章を混ぜて同時に発声していて、俺の耳と脳が聞き取れたのは、やっと一文だけであり、それは、俺の記憶を取得することに成功したかどうかを男に確認するものだった。

 彼女は男のみぞおちあたりに右手を触れてから、俺に向き直った。

 彼女が今度発したのは、日本語だった。

「この意思疎通手段は会得した。私たちの会話に似た音声による伝達だな。効率はあまりよくないが、こちらの方が良いか?」

 彼女の混ぜ言葉も理解できるんだということを伝えようと思い、もう俺の身体は大丈夫だということと、さっきの三文が理解できたということを伝える混ぜ言葉を脳内で作って、なんとか発音しようとしてみた。

 自分の唇から発した音は、俺自身同時には脳が意味を処理できなかったが、反芻して検証したところ、うまく発音できていた。

 だが、彼女には不十分だったのか、日本語が返ってきた。

「理解した。だが、こちらが良さそうだな。伝えたいことは三つだ。わたしはこの時空にあと十八時間ほど滞在する。他の個体とは記憶交換を行うつもりはない。何か言いたいことや訊きたいことがあれば滞在中であれば会話を行う」

 沙希が俺と彼女の間に割り込み、不平を言った。

「あなた、なに偉そうに言ってるのよ! あやまんなさいよ! 彼になにしたのよ!」

 白衣の女性――俺は彼女を知っていて、名前もわかっているが、それを発音することはできなかった――は沙希を見もしない。まったくの無視らしい。

「いいんだ沙希。車に戻ろう」

 沙希の肩に手を置いて、砂丘をいっしょに降りるように促しながら、白衣の彼女を振り返ると、突然、記憶が間欠泉のように頭の中で噴出した。

 数え切れないほどの、彼女の表情の記憶だ。

 記憶は、体験することではない。決してリアルタイムの出来事ではなく、時系列に連なったものでもない。脳に刻まれた断片情報の山なんだ。

 常に思考の表舞台にあるわけじゃなく、脳内の棚や引き出しに片付けられている。なにかの拍子にそれが表舞台に出てくるんだ。

 たとえば俺は中学のときの初恋の女の子のことを記憶している。だが、四六時中彼女のことを思い浮かべているわけじゃない。なにか思い出す鍵になるようなことがあって、片付けられた場所から、それを取り出しているんだ。

 思い出す、ってやつだ。

 思い出そうというきっかけさえあれば、初恋の彼女との出会いがどうだった、とか、遠足のときの思い出とか、恋のライバルの顔とかも連想して思い出すことができる。

 今、白衣の彼女についての記憶が溢れ出たのは、この場を去ろうとしたからだ。彼女との別れの場面が鍵になって、過去の――俺ではなく交換で与えられた記憶の元の持ち主にとっての――彼女と別れる場面の彼女の表情の記憶が一度に噴出したんだ。

 今見せている無表情な顔ではなく、生き生きとした感情に満ちた表情だ。泣いている顔もあるし、笑顔もある。そして、悲しそうにこちらを見つめる、最後の別れの記憶。

 この記憶の主にとっての、彼女との今生の別れの記憶だ。

「雅史?! 大丈夫なの?」

 沙希の声が、記憶の洪水に沈みかけていた俺の意識を現実に引き上げた。

「あ、ああ。行こう」


 沙希に支えられるようにして、なんとか駐車場まで戻って来た。

 シートに深く腰掛けて目を閉じると、大きなため息が出た。さっき男に腕をつかまれたときに流し込まれた他人の記憶は、ちょっと油断すると芋づる式に蘇ってくる。

 俺が体験したわけではない記憶。しかし、脳に刻まれた記憶には俺自身のものかどうかの区別がない。自分が、見、聞き、体験した記憶として蘇るのだ。それは俺が体験したはずのないようなものなのに。

 自分が本当に体験したことなのかどうかが不確かになり、自分という存在が怪しくなってしまう。

 安易に思い出してはだめだ。まるで夢の中で別人としてすごし、目が覚めた瞬間に本当の自分の境遇と混ざってわからなくなったときのような感覚。それが延々と続く。

「本当にだいじょうぶなの?」

 助手席に回って車内に入った沙希の声が、すぐ近くでする。

 目を開けると、沙希の心配そうな瞳が見下ろしていた。助手席から身を乗り出して俺の顔を覗き込んでいたようだ。

 俺が目を開けると、すこし安心したのか彼女は助手席に座り直した。

 フロントガラスを雨水が伝っていく。かなり強い雨になってきた。

「悪いな。ちょっと運転して帰れそうにないな」

 日帰りのつもりだったのだが、この記憶の混乱とうまくつきあう方法を身につけないと、とても長時間の運転などできそうにない。

「そんなのいいじゃない。近くに泊まるとこくらいあるでしょ。ごめんね、わたしが運転できればよかったんでしょうけど」

 そうだな。今日は泊まって台風をやり過ごすか。ふたりとも明日帰ってなきゃいけないわけじゃなし。眠れば記憶が整理されて、本当の自分の記憶と、さっき受け取った記憶の区別がちゃんとつくかもしれない。

「なんだったの? あのふたり。何をされたの?」

 俺だって分かってるわけじゃない。だが沙希には何が起きたかまったく理解できなかっただろう。

「あの男――いや、男に見えたやつなんだが、あいつに記憶の交換をされたんだ」

 考えるより先に口が動く。そうだ、俺は”知っている”彼は人間じゃない。人工物だ。

「やつが持っていたある人物の記憶が俺の脳に書き込まれて、かわりに俺の記憶をコピーして取り出していった。そのやり取りに俺の身体が耐え切れなくて、めまいを起こした」

 日本語で説明するのがもどかしいが、俺はその原理を理解していた。その機能を彼に与えたことを記憶しているからだ。

「やつは人に似せて造られたモノだ。俺が彼女のために造った」

「しっかりして! あなたがそんなモノ造ったはずないじゃないの!」

 そうだ。造った記憶があるから、そう言ってしまっただけだ。地球人の俺に作れるはずがない。

「わかってる。わかってるんだ! でも区別がつかないんだ、他人の記憶と自分の記憶が!」

 ハンドルにを持つ手に顔を伏せたら、クラクションが鳴って、はっ、として顔を上げる。

 おかげで正気に戻った。

 記憶を分けようとすると、そのために記憶を呼び起こすことになってしまい、その量に圧倒されてパニックに陥っていたらしい。クラクションの音に驚いて、呼び起こしていた記憶がリセットされて救われたようだ。

「どうやら、くよくよ考えないほうがいいみたいだ」

 笑顔を作って沙希の方を向いたとき、運転席側のガラスを、コン、コンとたたく音がした。

 反射的に振り向くと、見たことのない男だった。雨具も持たず雨に濡れながら、車の中を覗き込んでいる。

 黒っぽいスーツ姿は観光地に似合っていない。パーマがかった長髪は濡れてワカメのように頭に貼り付いている。

 右の手首を額に当ててひさしを作り、手はだらりとさせていた。その手首をガラスに押し当てていて、左手でノックしていたようだ。

 クラクションを鳴らしてしまったので様子を見に来た人だろうか。痩せ型で、知的だが神経質そうな目つきだ。

「さっき砂丘でお会いになった相手のことで、ちょっとお話をうかがいたいんですがね」

 丁寧だが威圧的なしゃべり。刑事ドラマの刑事のようだな。

 もしも本当に警官だとすれば、彼に手に負える話じゃない。

「誰とも会ってない。ただの観光なんです」

 とりあえず丁寧な言葉を使ってみる。言っていることは嘘なわけだが。

「ええ、あなたが観光で来たのは知ってますよ。でも、会ったでしょう? 彼らが今日ここに現れると予言――いや、予告、予想かな。とにかく、現れると言った者の言っていることが本当かどうかたしかめたいのですよ。そして地球に害があるのかどうか。あるとすればどう防げば良いのか」

 どうやら警官じゃないらしい。

「ま、わたしはあんまり信じていないクチなんですけどね」

 彼は微笑んだ。助手席にいる沙希にも笑いかけた。こちらの警戒心を解くつもりで笑ったのかもしれないが、むしろ怪しげな雰囲気が増したようだ。

 車のエンジンはまだかけていない。窓を開けるためだというフリをしてにエンジンをかけて急発進したら、オサラバできるだろうか?

「ちょっと待って」

と、応じるように思わせる受け答えをして、キーレスのイグンッションに手を伸ばす。

「いえ」

 男が語気強く言った。思わず、手が止まる迫力があった。

「降りていただけますか? 雨も降ってることだし、下の美術館にご一緒しましょう。入場料はこちら持ちでいかがです?」

 男はまた笑みを浮かべていたが、場の空気は張り詰めてしまったままだ。

 沙希の方を見てみると、彼女は唇をぎゅっと結んで男を睨んでいる。さっき、砂丘の上で俺より先に彼女たちを見つけたときの表情に似ているが、あのときに比べたら毒気は薄い。

 彼女の向こう、助手席のガラスを伝う雨越しに、黒服の男が立っている。

 意識して駐車場を見回せば、正面と出口付近に停まっている車はどちらも黒塗りの大型セダンで、雨が降っているというのに運転席のドアを三十度ほど開けた状態で黒服が一人ずつ立ってあたりを見回している。

 しかも、その誰もが、雨の中でサングラスをかけているという徹底振りだ。

「ステレオタイプだな・・・・・・」

 聞こえないようにつぶやいたつもりだが、男には聞こえたようだ。

「支給品じゃないんですが、結局、似たような格好になっちゃいましてね。さて、傘はお持ちですか?」

 傘は車に積んである。台風に向かってドライブしてきたのだから当然だ。

 後部座席のジャンプ傘に手を伸ばしながら、

「沙希は車で待ってろ」

と、沙希に声をかけたが、言い終わるより早く、

「バカ言わないでよ! いっしょに行くわよ!」

と、言い返された。


 こいつら、この程度の雨だと傘はささないらしい。視界が狭まるからか、手がふさがるからか知らないが、濡れながら平気で歩いている。

 話しかけてきた男が前を俺と沙希の歩き、すぐ後ろに一人。すこし離れて斜め後ろに二人。俺たちを見張る役はすぐ後ろの一人だけらしい。さらに後ろの二人はまわりに気を配っているようで、まるでSPに守られているVIPの気分だ。

 駐車場から坂道を下ると、すぐに砂の美術館が見えてくる。男は、本当に俺たち二人の入場料も払って、建物へ先導する。

 普段の土曜がどれほどなのか知らないが、入場客はそんなに少なくない。建物の中は砂の像が展示されたフロアと、上から眺める二階があった。男は迷うことなく二階のキャットウォーク状になった窓際の手すりつきの通路へ向かった。通路は行き止まりになっていて、男は奥まで行って像を見下ろすように立ち止まった。

 俺と沙希が傍まで行くと、五メートルほど離れて黒服が二人立ち止まった。もう一人は窓際の通路に入るあたりでわざとらしくあたりを見回している。

 展示物は下で、そんな場所で見回しても建物と人しか見えないんだがな。あやしげな黒服三人の脇をすり抜けないかぎり、俺たちがいる場所までは来られないわけで、営業妨害で注意を受けそうなものだ。

 とにかく、雨をしのげる、オープンな場所での会見の場が設定された。

 で、いったい俺が話をする相手は何者なんだ?

 わざわざ話をするために移動したというのに、こっちを向きもせず砂の像を見下ろしている。

「さて、お話しの続きをしましょうか」

「の前に、まず、名乗ってくれ。それからだ」

 男は不思議そうな顔で俺の方を振り返る。

「そんなもんですかね。児玉と言います」

「名前じゃなくて」

 男はまた笑った。緊張の場面で自分しか笑えない冗談を言うのが趣味らしい。悪趣味だな。

「何と言ったら安心して話していただけます? 公安? 国家安全保障局? ああ、NSAよりもNASAだって言ったほうがそれっぽいですか?」

 また自分だけウケて笑っている。

 ちゃんと答えろ、と怒鳴りつけようとした瞬間、やつの笑顔が消えて真顔で向き直った。

「あなたが知らない組織ですよ。この件に関して超法規の権限もある」

 法の裏づけがない権限など、ひけらかしてもしかたないと思うが、少なくとも車二台と五人の人間を動かせる権限があるわけだ。

「なら、名前はいいよ。何をやってるどこの組織なんだ?」

「表の政府組織が動けないような事柄に取り組む、国境なしの便利屋ですよ。場面に応じて必要な権限が与えられています。今回については、この国で無制限の権限が与えられて

います。こりゃあ、大ごとだって、上が思ってるってことですね」

 名乗る気はないらしい。児玉というのも偽名だろう。確かに俺が知らない団体名を名乗られてもな。しかし名は体を表すと言う。さっき彼が例に挙げた組織も、名前から団体の目的がわかるわけだし。

「ここがお嫌なら、鳥取県警の取調室でもいいし、美保基地か米子駐屯地でもいいですよ。それとも日本海にイージス艦でも浮かべてお話ししましょうか? 米空母がお好みかな?」

 俺の寝室に並んでいるミリタリー系のプラモのことを知ってると言いたいのか。気味が悪い。俺が鳥取砂丘へ来て、あの女性と出会ったのは偶然なんだ。さっき会ったばかりだ。どんな特殊組織でも、あれから俺の素性を調べて、プラモの嗜好まで調べられるわけがない。

 これも冗談のつもりなんだろうか。しかし、児玉と名乗った男はもう笑っていない。

「ここでいいよ」

 こっちが折れてしまった。

「では、さきほどの続きのお話しをしましょうか」

 さっきの続き、つまり砂丘で会った相手のことを話を聞きたいと言っていたんだったな。

「ああ。さっきはとぼけて悪かった。たしかに砂丘で人に会ったよ。何が知りたいんだ」

 まだ、児玉の目的はわからないから気を許したわけではないが、向こうがすでに知っていることを隠してもしょうがない。

「それは本当に『ヒト』でしたか?」

 この調子で行こう。児玉がすでに知っていることを話させて、それを肯定してやってればいい。

「厳密には『ノー』だな」

 児玉は唇の端で笑った。こっちの意図に気づいたらしい。

「相手の女性と会話しましたね?」

「そうだな」

「彼女が六度話し、あなたが三度話している」

「回数はよく覚えてないがそんなもんだ」

 児玉はわざとイエス・ノーで答えられる質問をしているらしい。

「実は、遠くから監視しつつ集音してました。彼女のセリフのうち四つめと最後のふたつと、あなたのしゃべりの最初と最後については聞き取れた。彼女は日本語を会得したと言い、日本語をバカにして、最後に三つのことを言った。十八時間という滞在時間と、記憶交換をもうやらないということと、何かあれば、あなたは彼女とまた話せるってことでしたね」

「そうだ」

 聞いていたんだったら、録音もしているだろうし、わざわざ俺に聞くまでもないだろうに。

「それ以外の会話は何語です? あなたも一度使いましたよね?」

「ああ、使ったな」

 イエス・ノーで答えられない前半部分は無視して後半の問いにだけ答えた。どうやら児玉はそれが気に食わないらしく、俺がなにかいうまで次の質問をしないつもりらしい。

 沈黙が続く。

 また、俺が折れた。

「何語かなんて、固有名詞を言ったところで、あんたが知らない名前のモノさ。言語というのかどうかも疑わしいね」

 児玉が自分の組織について答えたときの回答を真似させてもらった。実際、日本語でどう表現してよいのかもわからない。

「あなたは彼女の言った言葉が全部理解できた?」

「いや、最初のは理解できなかったし、あとのも彼女は自分の連れに喋っていたのがほとんどだ。理解できたのはわずかだな」

 そろそろ、こっちが情報提供者の側にさせられてるようだ。

「あなたはなぜ理解できた?」

 どうする?

 児玉の目的も分からない。彼が望むのは世界平和か? 地球を守る正義のヒーローなのか? それとも、高度な技術を悪用しようとする悪の手先か?

 そもそも、そんな単純な善悪では推し量れないのが現実世界の実情だろう。特定の国や陣営の正義は、他者にとってもそうだとは限らない。

 そして俺はどういう立場で誰を守ろうとして答えるんだろう。

「どうしてかな?」

 とりあえずはぐらかす。児玉の出方で、彼の組織の目的がわかればいいんだが。

「『記憶交換』?」

 児玉は微笑んだ。

「彼女がそう言ってたな」

 肯定したところで、どうせ彼女が日本語で口にした言葉だ。どこまで本当の意味を児玉が理解しているかはわからないが。

「・・・・・・テレパシーか催眠教育のようなものですかな?」

と、児玉たちは思っているわけだ。あるいは、そう装って俺から情報を引き出そうというワナか。

 児玉という男は、どうやら任務に忠実なタイプのように見える。任務を逸脱して自分の欲望を優先させるようなタイプの悪人には見えない。まあ、これは、映画やドラマの役者が演じるエージェントのタイプに当てはめれば、ということになるが。

 しかし、記憶交換というキーワードで、児玉が言ったようなテレパシーや催眠教育のことだと思うようなやつがいるか? 『交換』だぞ。

 児玉は知ってるんだ。車の中で沙希に話した内容だって、盗聴なり読唇なりされたかもしれないじゃないか。

「いや。ヒト一人分の記憶をコピーして交換した。俺の記憶と、彼女の連れが持っていた人物の記憶だ」

 児玉は大げさに両手を広げて驚いてみせた。

「ほぉ! 先進科学を知る人物の記憶がまるまる一人分あなたの頭の中に追加されてるのですか! そりゃあ、すごい」

 知っていたくせに。

「科学技術が詰まってるとは限らないだろ。その人物は詩人や俳優のように科学技術や理論とは無縁かもしれない」

 詩人や俳優をバカにするつもりは毛頭ないが、俺の頭の中の別人の記憶を根掘り葉掘り調べられるのはたまらない。

 ああ! しまった。彼の記憶のことを考えて、スイッチが入ってしまった。また、記憶の洪水が・・・・・・。

 飲まれてしまう! 脳が、彼の記憶の棚から技術的なことを検索しはじめてしまった。とんでもない量の知識だ。しかも、技術を俺が理解するのに必要な基礎理論や公式までを引き連れて蘇ってくる!

 だめだ、頭痛が・・・・・・クラクションを鳴らさないと・・・・・・スイッチを、連鎖を切るのにきっかけが必要だ。

「雅史! どうしたの?! だいじょうぶ?!」

 沙希の声が遠く篭って聞こえる。

 そのとき、

「おにいちゃん! 走っちゃだめなんだよ! ママにいうんだからね!」

 小さな女の子の高い声がクラクションになった。

「うるさいなあ。おまえはいつも、ママ、ママって」

 兄のほうも小さいが、妹の前だからか大人ぶったしゃべり方をする。

 正気に戻ると、ちいさな兄妹が黒服たちの間を抜けて、通路の行き止まりまで追いかけっこしてきていたのだとわかる。

 彼らの視点は低く、俺のベルトのあたりだ。大人たちが真剣な話をしているなんて気がつきもしない。彼らの視界には大人たちの脚と腰が、公園の遊具のように立っているだけのように見えてるに違いない。

 兄妹の母親らしい人物が、サングラスの黒服たちの顔色を伺いながら、兄妹を連れ戻しにやってきた。

 児玉が人差し指を立てて左右に振って、黒服たちにこの場を離れるように指示したようだ。男たちは、持ち場を離れ出口の方へバラバラに歩き出した。

「猶予はあと十七時間以上ある。できれば、あなたに彼らへのインタビューをお願いしたいですね」

 児玉もこの場を去るつもりらしい。

「なにが目的なんだ? 科学技術なのか?」

 去っていく児玉の背中に呼びかける。

「『真実』ってやつですよ。彼らの目的と手段に興味があるんです」

 児玉は振り返らずに手を振ってキャットウォークを歩いていく。

 彼女を危険視しているんだろうか。俺の情報次第では危害を加えるつもりがあるのか?

「彼女は観察しているだけだぞ! 手段は・・・・・・」

 おそらく俺の頭の中の別人の記憶が反射的に彼女を弁護しようと俺に働きかけている。

 俺は一階にいる観光客に聞こえるかもしれないのをお構いなしに、児玉に向かって叫んでいた。

 児玉が立ち止まった。

 しまった、これが彼の手だったのか?

 振り返った児玉は笑顔で声をださずに唇だけを大げさに動かした。

 そして、また手を振って出口へ向かって行ってしまった。

 児玉は知っていた。じゃあ、いったい俺から引き出したい情報は何なんだ。

 彼の唇は正しい答えを――俺が叫ぼうとしていた言葉を言う動きをしていた。

 『タイムトラベル』と。


「タイムトラベル?」

 車に戻って市内へ向けて走り出したところで、沙希に児玉の唇が何と言っていたかを話すと、沙希は「何それ?」と言わんばかりに訊き返してきた。

「俺は見なかったけど、沙希は見てたんだろ? 彼女たちが何もないところから現れるところ」

 俺は砂丘の頂上近くでへばって足元を見てたからな。

「ええ。最初ふたりの足跡の部分の砂がへこんだの。そして幻みたいに透けて身体が現れて、次第に濃くなって。二秒くらいだったかしら。・・・・・・ちょっと待って、じゃ、あのふたり未来人なの?」

 信号待ちで沙希を一瞥する。彼女はこっちを見ていた。

 記憶の洪水が起きないように、意識して無意識を努める。頭で考えて答えずに、口が勝手に動いて答えるように、知っていることをありのままに答えるぞ、と心に言い聞かせていた。

「ちがう。過去から来てるんだ。地球人じゃない」

「過去から?」

 青信号になった。運転中のほうが無意識に回答できてありがたい。安全運転だ、安全運転。

「ああ。タイムトラベルは過去から未来への一方通行なんだ。後戻りはない。彼女は自分たちと同じような種が現れるのを観測するために宇宙のあちこちの星々に散らばっている科学者のうちのひとりだ。タイムトラベルで星と生命の進化を早回しで見てきたんだ」

 自分の口からすらすらと出てくる答えは、地球の常識では考えられないようなものだった。

「過去って、いつごろから?」

「俺がもらった記憶の主は彼女が観測をスタートさせるときに彼女と別れ別れになっちまってそれっきりだから、彼女がどれくらいすごしたかは知らないよ」

「あの、男の人に見える人工物が持っていた記憶、って言ったわよね。ロボットか人造人間みたいなものにコピーされていたわけ? たとえば宇宙の年齢とかで比較できないの?」

 たしかにそうだ。現在が宇宙ができて何億年かということと、この人物の記憶と比較すれば、彼女が生まれた時代はわかる。

 あぶない。『彼女が生まれた時代』がキーワードになって、生まれたばかりの彼女の姿の数々が頭に浮かんできた。記憶に飲まれそうになる。

 計算だ、計算。彼らの暦を地球の年に換算して・・・・・・。現代の地球の科学で測定されている宇宙の年齢ってやつは、科学の発展とともにコロコロ変わるから、こいつを彼の科学知識に照らして補正する・・・・・・。

 あとは引き算だ。

「四十五億年前だ。彼らの文明の世代。地球ができたころからずっと見てきているんだ」

「そ、そんな昔の地球なんて、人間が立っていられないわよ。空気だって温度だって」

 そもそもの科学力が違いすぎるんだ。俺たち地球人の常識は通用しない。

「地球環境からの悪影響を遮断できる。彼女たちは傘もさしてないのに雨に濡れていなかった。大気や温度も同じさ」

「それで、ずっと地球を観察してきたの? ・・・・・・ちょっと待ってよ。研究結果をどうするつもりなの? タイムトラベルが一方通行なら、過去に持ち帰れないじゃない。彼女の文明の四十五億年後に報告するっていうの? 彼女が属してた学会どころか、文明そのものだって残ってるわけないわ。残ってたとしたらまったくの別物になっちゃってるでしょう? それとも、報告を待つほうもそっくり文明ごとタイムトラベルしちゃうのかしら」

 沙希の言う通りだ。研究成果はどうするんだ? ああ、しまった。また信号待ちだ。彼女との別れの場面を思い出してしまった。何度となく、彼女を引きとめようと説得した場面の記憶が蘇る。

 例の混ぜ言葉で、彼女をどんなに愛してるかを伝えながら、彼女が初回のタイムトラベルで飛んだ先の時代には、すでに自分たちの文明は滅んでいるだろうという予想の妥当性を主張する。そんな場面が何度も思い出される。そして悲しそうな目で答える彼女の言い分はいつも同じだ。

 俺への――俺がもらった記憶の主への――愛情と、彼女が自分の短い人生で成したいことの意義と、生きる意味を語る言葉を、彼女は同時に伝えてくる。

 そして、俺は、彼女の言いたいことを理解しているんだ。頭では理解しているが、感情が納得していない。

 ああ、なんてことだ。

 探究心。なんて遠い言葉なんだろう。それは『欲』ではない。自己満足とは別物だ。欲ではないがゆえに満たされることはない。生きる意味を、真実を知ることの先に見出す。

 彼女が属する科学者のグループは、タイムトラベルを活用して星と種の生い立ちを観察しようと計画した。各人が出来たての惑星に移り、タイムトラベルを繰り返して未来を観察することで、過去の自分たちの星で何が起きたのかを知る計画だ。歴史が再現されるのをその目で見る旅だ。

 その計画で得た知識を、自分たちの世界へは決して持ち帰れないことを知った上で、遠い未来へ旅立とうというのだ。

 遠い遠い未来、自分たちと同じような種が、別の星でも生まれることを確認できたら、さらに未来でその観察結果を発表しあう。その得られた成果を何かに転用するわけでも、社会に還元するでもなく、ただ真実を確かめることだけが目的。

 そうする自分を許してほしいと言う彼女に対して、彼女に同伴する人工体――自分の分身を授けることで答えた自分。そして、最後の別れのとき、自分の記憶を人工体にコピーしたことが、ついさっきのことのように思い出される。

 後ろの車のクラクションが俺を運転席に呼び戻した。

「雅史? 信号青よ。大丈夫?」

「あ、ああ。意識が四十五億年前に行ってたようだ」

 そうだ、あれらはすべて四十五億年前の記憶なんだ。

「ごめんなさい。いろいろ訊かないほうがいいみたいね」

「いや、別に」

 俺はこれからずっとこの記憶といっしょにすごさなきゃいけないんだろうか。

「・・・・・・彼女、いったいこれまでどんな地球を見てきたのかしらね」

 そうだ。彼女がどんな地球を見てきたのか。俺の頭の中の記憶の主も知らないことだ。

「ほら、そこ。ホテルだわ。駐車場もあるみたい。ゆっくり休みましょ。


 小奇麗なビジネスホテルのツインにチェックインして、俺はすぐさまベッドに突っ伏して眠った。

 自分以外の記憶が元になった夢を見てしまうのではないかと怖くなったが、運転と、記憶交換の疲れからくる眠気が勝り、そのまま眠ってしまった。

 夢はまったく見なかった。もしくは、見たが覚えられるほどの余裕が脳になかったのだろう。

 ベッドに突っ伏して十秒後に目が覚めたような感覚で、それこそ時間が跳んでいる。時計を見ると七時過ぎをさしていた。

 夜か? それとも翌朝になったのか? 朝だとすれば十五時間ほど寝ていたことになる。

 となりのベッドに沙希は居ない。ベッドを使った様子もない。そうすると、夜なのか?

 窓に歩み寄ってカーテンを開ける。

 夜景だ。

 眠っていたのは三時間ほどだったらしい。まあ、たしかにそれくらいの休憩ぐあいだ。まだまだ疲れやだるさは残っていて、もういちどベッドに横たわればぐっすり眠れそうな体調だ。

 沙希は買い物か食事だろうか。バスルームにも気配は無い。

 熱いシャワーをあびて備え付けのガウンだけ羽織ってバスルームから出て部屋を見回すが、まだ彼女は帰ってこない。

 台風はどうなったかと思い、車から持ってきた荷物をあさり、ノートパッドを取り出してキーボードを接続し、入り口の横の小さなテーブルに置く。ホテルの部屋にはLANが伸びていたが、自前の回線でネット接続し、台風情報を開いた。

 台風は今朝見た予報の中心コースを進んでいて、この位置からだと、もう『過ぎた』と言っていいような状況だった。もし、日帰り観光になっていたなら、今頃台風が横断し終わった東海道を東進しているころだ。

 モニターを見ていたら、沙希が言っていたことを思い出した。

 あの彼女が、いったいこれまでどんな地球を見てきたのか、だ。

 表計算ソフトを起動し、頭の中から彼女のタイムトラベルに関する情報を拾い出す。その数字をすぐさま地球の暦に変換する計算に集中することで、連想の鎖を断ち切った。

 彼女に聞いていたタイムトラベル計画によれば、生物が現れるまでは一度のタイムトラベルで跳ばす時間を長くし、生物の進化によって、さらに刻んで細かいタイムトラベルにしていったはずだ。

 今は、およそ五百四十五万年に一度、彼女の母星での一日に相当する十八時間程度ずつ観察のために滞在しているはず。

 彼女にとっての『昨日』は、人類が『ヒト』として現れたかどうかっていうころだ。

 表計算画面に式を打ち込んで連続コピーする。計算されて出てきた年代をネット上の地球の歴史と見比べてみる。

 彼女にとっての十二日前は地球の生物にとっての大きな変化のころだ。K-T境界のどちら側の一日だったのだろうか。恐竜が闊歩する暖かい地球か、隕石で地獄と化した後の地球か。

 さらに遡っていて、妙な符合に気がついた。

「定期的な大量滅亡・・・・・・?」

 見出し語のリンク先を開けて記事を読む。

「ネメシス。仮説上の太陽の伴星・・・・・・」

 この星が、オールトの雲から定期的に彗星を送り込み、地球に衝突した彗星が定期的な大絶滅を起こすのだという仮説。

 四十五億年前の彼女の話が蘇る。

 彼女が属する科学者グループ内には、人類の発生についていくつかの説があった。

 彼女たちの星と同じ条件の星があれば、必然的に同じような人類が発生するという説と、人類の発生は単なる偶然の産物だという説。さらには、創造主のような介在者が居て、環境操作により条件づけられて生まれたのが自分たちだという説も。

 彼女の自説が『必然』説だったから、当然彼女はそれを観察しているだけなのだと思ってしまっていたが、はっきりそうだと彼女が言ったわけじゃない。

 たとえば彼女が、地球に対して自分の母星で起こったことを再現して、同じような人類が発生するかどうかを検証しているのだとしたら。あるいは、進化の枝が、彼女の母星と異なる方向へ進むたびに、リセットボタンを押してやり直しているのだとしたら。

「彼女は・・・・・・ネメシスだったのか・・・・・・」


 そのときドアをノックする音がした。

 沙希が帰ってきたのだろう。

「はい」

 返事をしたのだが入ってくる様子がない。オートロックで鍵を持たずに出たのかな。

 ネメシスの情報を表示しているブラウザを閉じ、ドアまで歩いてサムターンを回し、ノブを引く。

 入ってきたのは、沙希ではなく児玉だった。

「お目覚めの様子だったので、ご機嫌伺いです」

 児玉は一人だった。

 手を広げて制すのを無視して部屋の奥に入ってきてしまう。

 さっきカーテンを開けたのを見てたんだ。

「何の用だ。用は済んだだろ。俺に聞かなくてもいろいろ知ってるんだろ?」

「言ったでしょう? わたしはあんまり信じてないクチだって。確信がほしいんですよ。わたしを信じさせてくれるようなね。でないと、やるべきこともできませんからね」

 何を言ってるんだ、こいつは。

 俺の視界の隅にテーブルの上のノートパッドが映った。

 計算表が表示されたままになっている!

 そうだ。ブラウザソフトは閉じたが、タイムトラベルの周期を地球年代に換算した表はそのままだ。

 あれを児玉が見たら?

 いや、何だかわからないだろう。地質年代を諳んじてるような人間なら、大絶滅と一致している数字が含まれていることに気がつくかもしれないが。

 俺を見る児玉の視線が、テーブルの方に流れた。勘がいいやつだ。

 児玉が画面を見ていたのは、ほんの数秒だった。

「・・・・・・なるほど。捨て置けない状況のようですね」

 彼には数字の意味するところが理解できたらしい。

「やはり、あなたにはもう一度彼女と話していただく必要がありますね。あなたにはその義務がある」

「義務?」

 児玉は振り返った。

「ええ。地球人類の代表として、地球に生きる生命の代表として。彼女に訊いてくださいよ。『また、やり直すのですか?』と。『我々は失敗作なのですか?』と!」

 彼は真剣そのものだ。

 なにか言って受け流そうとしたのだが、口の中が乾いて言葉が出ない。

「あなたには義務がある。彼らが選んだのはあなたなんだから。あのふたりは、あなたとしか話すつもりがないんですから」

「ふたりじゃないよ。人間は彼女だけだ」

 苦労して、やっと出た言葉はこんな言葉になってしまった。

 言わなくても良いことを。

「男のほうは? 人間じゃない? じゃあ、アンドロイドかなにかなんですか? 兵器を持ってる?」

 矢継ぎ早に質問を連ねる児玉は、昼間のような余裕を感じさせない。俺は顔の前で両手を振って静止しようとしていた。

「いや、ちがうちがう。兵器なんかないよ。彼女のための助手みたいなもんだ。俺に渡された記憶の主が、彼女へのプレゼントとして造ったモノなんだ。自分の姿に似せて。ほら、引っ越す友人に自分の似顔絵人形を贈るようなものさ。武器なんてつけるわけないだろ?」

 否定するだけでよかったのに、情報の垂れ流しになってしまった。

「なるほど。では、あなたが造ったも同じだ。造ったときの記憶があるのでしょう? 詩人さんじゃなくてよかったですねぇ。また造れたらすばらしいことですよ。それができないにしても・・・・・・」

 児玉が顔を寄せてきた。

「止め方は知っているんでしょう? 壊し方も」

「そんな仕組みなんてないよ。有機体なんだ。意識や人格はないから生物として扱われていないけど、止めるっていうのは死ぬのと同じことだよ」

「なるほど!」児玉は額をくっつけんばかりに迫ってきた。「殺せばとまるんですね。そして、重要なのは彼女のほうで男はおまけだと」

 殺す気満々のようだ。

「もう、出て行ってくれよ! さあ!」

 児玉を押し返すと、彼は抵抗せずにドアの外まで押されて歩いていく。

「こっちの準備ができたら、彼女ともう一度話してもらいますよ。いいですね。彼女が我々を滅ぼすつもりかどうか尋ねるんです。そして答えがイエスなら、なんとか思いとどまるよう説得してください。それでもだめな場合がわたしの出番です」

 彼をドアの外に出してドアを閉めると、急に静かになった。さすがに廊下でわめき続けるつもりはないらしい。

 帰っていったか?

 ドアの覗きレンズから見てみたが、廊下に彼の姿はない。

「ふう」

 安心して、ゆっくり考えるためにテーブルに戻ろうとすると、またノックの音がした。

「もう、放っておいてくれよ!」

 テーブルの前から動かずにドアに向かって言ったら、ガチャリと鍵が開く音がしてドアが開いた。

「なによ。なにかあったの? はい、おにぎりと下着の替えよ」

 コンビニ袋をさげた沙希が、持って出ていた鍵でドアを開けて入ってきたのだ。


 児玉が来たことは話したが、ただの俺の思い過ごしかもしれないネメシスの件は、まだ沙希には話さないでおいた。

 すこし風に当たってくるから、と、ひとりで外に出ようとしたが、沙希はいっしょについてくると言った。

 ホテルを出て自分の車は出さずタクシーを拾ったが、児玉たちが見張っている様子はない。

 タクシーに乗って砂丘へ向かってもらい、後ろの様子を目を凝らして見たが、それらしい追跡者は居ない。

 砂丘を張っているんだろうか。

 いや、プロの追跡術が俺に見破れないだけなのかもしれないな。

 今度は土産屋が並んでいるあたりから砂丘へ向かった。風があるが、天気は回復していた。やや欠けた月があたりを照らしている。

 砂丘の上には誰も居ない。

 とにかく彼女は会話に応じると言ったのだし、制限時間前なのだから、あそこまで行けば話せるのかもしれない。

 また靴を履き替えなかったことを後悔しながら、砂を踏んで進む。

「ねぇ、彼女と話すつもりになったの?」

 風で暴れる髪を押さえながら沙希が大きめの声で言った。

「確かめたいことができたんだ」

「なにを?」

「確かめてから話すよ」

 そうだな。人類滅亡の話なんて、軽々しくするもんじゃない。

 息を切らしながら頂上にたどりつく。誰も居ない。夜の砂丘だ。

 なんて呼びかければいい? 彼女の名前にあたるものは知ってるが、日本語では発音できない。例の混ぜ言葉でキュルキュルと喋るか? 彼女の出身地と属するファミリーのようなものの性質を紹介する文と彼女の性格の良さを称えるような意味を混ぜて一度に発音する音が、彼女の呼び名にあたる。

 いや、彼女は日本語をマスターしたと言ったんだし、こっちがへたに合わせることはないのか。

「話したいことがあるんだ。姿を現してくれ!」

 これで十分だろう。

 三メートルほど先の地面の砂が、キュッと音を立てて足型にへこんだ。沙希に聞いていたとおりの現れ方で、彼女らが現れた。

 沙希が見たときは、過去からのタイムトラベルを終えての出現だった。今度はタイムトラベルしていたわけではないが、この世界からずれた時空、タイムトラベルを可能にする場所に居て、現代に留まっていたんだ。同じところからの出現だから、現れ方が同じだということだ。

「話したいこととは何ですか? 聞きましょう」

 彼女が無表情に話しかけてきた。

「お願いだ、教えてくれ。六千五百万年ほど前に、この惑星に隕石を落としたのはキミか? その前にも、地上の生命を何度も滅ぼしたのか?」

 彼女は小首をかしげ、ちょっと間を置いてから答えた。

「そうです。わたしが修正を行いました。我々と同じタイプの種を出現させるには、必要なことなのです」

 彼女は眉ひとつ動かさなかった。

 その言葉は、何億、いや、それ以上のとんでもない数の生命を奪ってきたという告白にあたるというのに。

「どうしてそんなことができるんだ。みんな、生きてるんだぞ!」

「『どうして』、『できるか』・・・・・・?」

 彼女は、俺の問いを理解できないと言いたげに繰り返した。

「『なぜ』、『できない』のですか?」

「そ、それは、良心があるからだ!」

 彼女にも良心はあるはずだ。だから俺に話すチャンスをくれたんじゃないのか? 単なる情報収集のつもりだったのか?

 俺が家でやってる町育てのときの、あの、子供に木のおもちゃを上げて話をしようとしたように。

 だが、俺もそのあと、あの子供を消し去ったことを後悔した。相手はただのプログラムだというのに。

 彼女にとっての俺は、あの町の子供なのだろうか。そして交換した記憶は木のおもちゃなのか? 彼女は俺たち地球の現存種を壊滅させることを迷いもせず消せて、後悔もしないのだろうか。

「あなたの恋人――それとも配偶者って言えばいいのか? 最初のタイムトラベルのときに、もう彼に会えないと思って悲しまなかったのか? 彼は特別な存在だっただろう? 死んでしまって、もう今では何十億年も経って、決して生き返らない。キミはそういうことをその何億倍も起こしてきてるんだぞ」

「・・・・・・『良心の呵責』・・・・・・。あなたの記憶の中にあった言葉だ。しかし、有機生命体を特別視する価値観が理解できない。石が風化して崩れるのと、ヒトが代謝を止めて死ぬのとに事象としての差はない。『魂』や『永遠』という言葉は詭弁だ」

 価値観が違いすぎる。説得できない相手なのか? 地球の生命を実験物として軽んじているんじゃないんだ。自分や恋人も含めた『命』と、足元に転がる小石とに貴賎がないんだ。ある意味、相対的に彼女たちは自然を尊ぶということなのか。

 原石を叩いて割って磨かなければ、美しい宝石細工は完成しない。彼女にとっては、地球人類を滅ぼすことはそれと同義なんだ。

「この星にはわたしの意図とは関係なく重力に引かれて落ちてくる隕石もある。わたしが落とす隕石とどこが違っている? わたしが落とすと知らなければ、あなたたちにとっては同じ隕石でしかない」

「だが、今は知ってる。落ちなくて済むなら落とさないでほしいんだ。俺たちをどうするつもりなんだ」

 俺が彼女に向かって一歩進むと、彼女の脇にいた人工物の男が、ピクリと反応した。彼女をガードしているんだ。

「それは必要なことだ。この地球は、わたしたちと同じタイプの種族の出現が再現可能であることを確かめるために存在している。今の環境にしたのも、生命を発生させたのもわたしだ」

 俺が食いついている相手は創造主だということか。だが、自分が作ったから好きにしていいという理論は認めないぞ。

 彼女の次の言葉を予想し、待ったが、彼女の言はそうではなかった。

「もしもここでやめてしまって、目的の種族の出現に使用しないのなら、この星とこの星の生き物はすべて無意味な存在にならないか? 最後までやってこそ、意味があるのだ」

「そ、そんな理屈・・・・・・」

 何か言い返さなくては。考えている間に、さらに強力な追い討ちがある。

「五百十四年後三つの衝突物によって、この星の生命体の九十六%が命を失い、九十二%の種が絶滅する」

「これからじゃなくて、もう、何かやってるのか?!」

 彼女の沈黙は『イエス』だった。

「そんな、勝手よ! 何してもいいって思ってるわけ?!」

 俺の横でここまで黙っていた沙希が叫んだ。

 だが沙希の言葉にはまったく反応がない。無視しているようだ。地球生命代表は、ほんとに俺ひとりと決めているってことなのか。

「今から止められないのか?!」

 俺が呼びかけると彼女はちゃんと答えた。

「もう向かってきている。正確にヒットするように微調整するよう指示すれば終わりだ」

 微調整? 誘導装置みたいなものがあるのか? 彼女はタイムトラベルのたびに十八時間ほどしか滞在しない。あとの時間には存在していないから、なにか装置が残って誘導してるんだ。四十五億年も? それとも一回のタイムトラベルごとに別の機械なのか。そうだとしても五百四十五万年も動き続けてることになる。

 彼女と彼女の連れの人工物は、海に背を向けて南の空を見上げた。

 そこにあるのは・・・・・・

「月か?」

 風化もせず、地殻変動の影響もない安定した場所にあるわけか。

「そこまでです!」

 俺の後ろで声がした。声の主は児玉だった。彼は拳銃を構えている。

「準備があると言ったでしょう、せっかちな人だ。でも目的の情報収集はできました」

 彼の部下らしい男たちは、スーツではなく黒い軍服を着て小銃を持っていた。人数も十人ほどに増えている。砂丘の斜面に展開し、頂上を包囲しているようだ。

「児玉さん、聞いたでしょう。もう彗星は向かってきている。彼女たちを殺したって手遅れだし・・・・・・」

 殺せるわけもない、と続ける前に児玉が強い口調で遮った。

「いえ! 微調整の設定がまだだと。誤差によって衝突を免れる可能性が、今ならある! いや、今しかない!」

 彼はやる気だ。

 一方、創造主側は身構えてさえいない。

「ふたりとも伏せて!」

 児玉が言ったふたりとは、俺と沙希のことだ。

 俺は沙希に飛びついて砂の上に伏せた。

 一発の拳銃の音につづいて、フルオートの銃声が四方八方から押し寄せた。銃声は途切れることなく十秒以上続いた。

 銃声が止んだとき、大きな耳鳴りが残ってまわりの音が消こえなくなっていた。

 顔を上げて児玉を見ると、彼は拳銃を構えたままだったが、彼の右手の拳銃は遊底が下がったままで、銃身の先が露出していた。全弾撃ちきったんだ。

 首をひねって創造主の方を見ると、なにもなかったかのようにふたりともふつうに立っている。

 昼間の雨と同じだ。彼女たちが望まないものは彼女たちに触れることはできない。

「無駄です。おやめなさい。もうすぐ調整指示も終わります」

 彼女は児玉に呼びかけていた。俺以外は無視じゃないのか。

 しかし、わざわざまだ終わっていないことを告げなくても。児玉にしてみれば、まだチャンスが残っていることを教えてもらったようなものじゃないか。彼があきらめるような人間とは思えない。

 伏せたまま再び児玉のほうを見てみると、彼は伸ばした右手の拳銃を捨て、その手を上着の内側にやった。彼の右手が高々と差し上げられたとき、その手に握られていたのは、新しい銃ではなく、リレー走のバトンのような黒い筒だった。

 児玉は笑みを浮かべている。彼が笑うのは、笑えないジョークを言ったときじゃなかったか?

 彼が親指を動かすと、筒の先から朱色の眩い閃光が発せられた。

 発炎筒だ。

 彼はそれを持った右腕を、ぐるぐると回した。

 誰かに合図を送っているんだ。いったい誰に?

 あの腕の回し方で、発炎筒が回っているように見える方向といえば、月夜の暗い海だ。

 水平線の手前あたりで、音もなく赤い閃光がいくつも続けて光った。

 艦砲?! ミサイル?! 児玉は本当に軍艦を呼んできていたんだ。あの笑みは、自分もろともこの砂丘を吹き飛ばせという指示を送った自らの行為をジョークに見立てて笑ったものだ。

 ここに砲弾やミサイルが飛んでくる! 逃げ場はない!

 意味がないことと知りながら、沙希の頭を庇うように、ぎゅっと抱きしめた。

 空気を裂いて飛来する弾の笛のような音と、沖の方からの遠い発射音が連続して届いた。

 音よりも砲弾やミサイルが先に来るはず。

 だが、爆発も、爆発の音も着弾の音もしない。

 顔を上げて見てみると、伏せている自分の頭の上あたりの高さに、艦砲の砲弾や翼付きの長いミサイルが、先を下に向けて空中で止まっていた。

「殺すことを咎めておいて、自分では死のうとする。理解できませんね」

 どうやら彼女が俺たちを救ってくれたらしい。彼女たちは砲弾やミサイルが爆発してもなんともないんだろうに、わざわざ爆発させないようにして、この砂丘に居る人間たちを守ってくれたんだ。

「調整指示は終わりました。わたしがここに留まれば、指示を変えさせようと無駄な努力を続けるでしょうから、もう、次の年代へ移動します」

 彼女たちの身体が、白く光りながら透け始めた。

「五百四十五万年後へ?」

 沙希と支え合いながら立ち上がって声をかけた。姿が消えかけているが、まだこっちの声が聞こえるんだろうか。

「ええ。結果を見に」

 返事があった。

 彼女が微笑んだような気がしたのは、気のせいだろうか。


 彼女が消え、白い光が消えると同時に、空中で浮いていた砲弾やミサイルが支えを失って落下した。

「あっ!」

 無駄なことなのに、爆発に身構えたのは、俺だけだったんだろうか。砲弾やミサイルはサクサクと砂に突き刺さって、もちろん爆発などしなかった。

 児玉が戦闘部隊に合図をすると、彼らは児玉だけを残して浜の方へ消えていった。沖の船から上陸した部隊だったらしい。

「夜明けまでに後片付けするのがたいへんだ」

 児玉は、砂に林立するミサイルや砲弾を見回して言った。

 彼女は去ってしまった。彗星はまだ遠くて手が届かない。月への命令を取り消せる者も居ない。もう、この場で、地球人類の未来のためにできることなどないのだ。

 終わった。児玉にとっては手痛い完封負けだろうが、とにかくもう、ノーサイドだ。彼もやるだけのことはやったさ。

「これからどうするんだ?」

 俺が尋ねたのは今夜これからどうやって砲弾を片付けるかって意味じゃなく、将来についてのことだ。

「猶予は五百十四年ありますからね。月にある調整装置を見つけて壊すなり逸らすなり。あとは、近づいてくる物体を打ち落とす防衛装置で彗星を迎え撃つ準備なり」

 質問の真意は伝わったらしい。

 えらく前向きな回答だ。それに切り替えが早い。

「自信のほどは?」

「さあ。きびしいですね。民間の援護射撃がほしいところです。民意を盛り上げてくれるようなのをね。たとえば『超古代文明の宇宙人の記憶を持つ男の予言』とかがベストセラーになってくれたりするといいんですが」

 児玉がいつものように笑った。このジョークは俺も笑えた。

「俺たちは、もう、ホテルへ帰っていいかな?」

 児玉は頷きながら右手を差し出した。

「さようなら。あなたとお会いできて光栄でした」

 彼と握手をして砂丘の頂上から下り始めると、児玉は俺と握手した手で敬礼していた。


 砂丘の斜面を降りきって、緩やかな上り坂になるあたり、児玉から十分に離れたところで、俺は立ち止まった。

 数歩先まで歩いた沙希が、それに気がついて振り返った。

「どうしたの? 雅史」

「それで?」

 俺は沙希に尋ねた。

「君は何者なんだ?」




 俺の質問に沙希は即答できず、何と答えるかちょっと考えたようだったが、それは二秒ほどのことで、そのあとあきらめたように笑った。

「急に言うから、誤魔化すタイミング失っちゃったじゃないの」

 そうだな。われながらいい不意打ちだったよ。

「どうしてそんなこと訊くの?」

 彼女は両手を広げて小首を傾げた。

「君は彼女にずっと無視されてた。児玉にも言葉を返した彼女が、第一発見者のはずの君を完全無視だ」

 沙希は今度は腕組みして頷いた。

「それだけ?」

「児玉も君にはなにも質問しない。しかも彼と君の質問はうまく噛み合っていて、同じ目的のようだった。ネメシスの件のヒントを出したのも君だ。もともと君は出身地を誤魔化していた。急に砂丘へ行きたいと言っただけじゃなくて、砂丘へ上るタイミングも君がリードしてた」

「あら、すごく怪しいわね」

 他人事のように彼女は笑った。

「児玉の組織に情報を与えて彼を動かしたのは何者か。そして、児玉はなぜ、異性人の記憶を持つ俺をこうもあっさり自由に行かせるのか。情報源が君で、君が一緒だから俺を行かせたんだと考えれば筋が通る。さっきの児玉の敬礼も、君へなんだろう?」

 沙希はため息をついた。

「たいした証拠があるわけじゃなかったのね。やっぱりすぐシラを切ればよかったわ」

 彼女はまっすぐ俺の方へ向き直った。

「わたしはね、彼女の仲間に母星を壊滅させられた宇宙人よ。地球人と同じ、彼らの研究対象にして失敗作ってことね。

 わたしたちは地球人より少し科学が進んでいたの。そして、彼女の仲間の観察者は、地球の彼女とはちょっとずれて現れたわ」

「ちょっと?」

 五百四十五万年の旅を繰り返せば、誤差が生じても不思議はないがな。

「ええ。五百年くらい前だった。同じようにわたしの母星の人間と接触し、やはり同じように失敗作として削除するって宣言されたの。余命四百年ほどってね。予言は残念ながら埋もれてしまって信じられてなかった。近づいてくる彗星は観測されていたけど、母星の近くを通過するので無害とされていたの。世紀の宇宙ショウってことで、みんなが興味を持っていたというわ。

 ところが彗星は、母星のすぐ近くに来てからコースを変えた。月の調整システムが作動したのよ。

 月の、っていうのは実は正確じゃないわね。だって、月そのものが調整システムだったんですもの」

「月そのものが?」

「ええ。衝突によって地上の人類は死に絶えたけど、宇宙にいた者は生き残った。そして四百年前の予言をみつけた。さらに、同じ境遇の星が宇宙にたくさんあるのも見つけた。同じような成り立ちと、同じような生物進化。そしてどの星もかならず、そっくりな月が浮かんでいるの」

 地球とそっくりな星が宇宙のあちこちに存在し、同じ月を抱いている。そして、タイムトラベルする創造主が居て、仕組まれた進化をしている生物たちがいる。そんな様子を想像してみた。そのいずれの星でも、地球人類と同じレベルの人類は、失敗作かいいとこ進化の踏み台として滅ぼされる運命にある。

「彼らはタイムトラベルで五百万年以上をとばしてしまうけど、衝突させるもののコントロールや地殻プレートのコントロール、地磁気や気候なんかも、自分が不在中も調整し続ける必要がある。でもそんな機械を金属とかで作ったって、何億年も使い続けるなんてできないわ。

 だから彼らは巨石で機械を作った。石同士の位置に意味を持たせて回路の代わりにしたの。容積はとんでもなく大きくなるけど、そもそもの元サイズが大きいから十分なわけ。車一台分の精密機械の機能を月全体で再現するなら、効率悪い造り方でもいいわけよね」

「しくみが分かってるのか?」

 もしそうなら、地球の被害は防げる。

「いいえ。あくまで彼らにとって簡単だったってだけよ。彼らはシンギュラリティの向こう側の存在なのよ」

「シンギュラリティ・・・・・・技術的特異点、か」

「わたしたち人類は、技術的特異点をもたらすことができる機械を作ることは可能かもしれない。でも、その機械に生身でついていくことはできない。置いてけぼりよ。ところが彼らは、種として進化していて、その向こう側まで行ってる存在なのよ」

「つまり、君らにも月は手に余る装置だってことだな」

「そうね。わたしたちは同じ境遇の星にちらばって、彼らが現れるのを待つのよ」

「復讐が目的なのか?」

 沙希はため息がちに笑った。

「いいえ。わたしたちの星を滅ぼした本人が次に現れるのは五百万年以上先なのよ。わたしたちの文明なんて、おそらく痕跡も残らないわ。わたしたちがやっているのは警告よ。悲劇を繰り返さないように、体験を伝えているの。

 でもどこに行っても、体験話だけしたって信じてくれないわ。そこで、それぞれの星に彼らが現れるのを待って、理不尽な創造主との交渉を記録することにしたのよ。

 彼らのタイムトラベルの出現の前触れを発見し、直前にだけれど、いつどこに現れるのか予測できるようになった。

 そして待つこと百年。地球が第一号の事例よ」

 そうとは知らず、俺は異星の彼女と付き合ってたわけか。

「誤解しないように言っておくけど。タイムトラベルの前兆が見つかったのっておとといのことよ。そしてあなたは別に交渉役に選ばれた特別な人物ってわけじゃないわ。地球にいるわたしの仲間の中で、鳥取砂丘に一番近い場所で暮らしていたのがわたしで、そのわたしの連れだからってことであなたが対象になっただけなの。もしも彼女がわたしと話してくれるならわたしが話すつもりだったんだけど、おおかたの予想どおり、彼女は自分の観測対象となる星の人類としか話さなかった。わたしが異星人だってわかったのね。つまりほかの研究者のサンプルが混じってたのに気がついて無視してたのよ。で、そういうときのための予備にっていっしょに来ていたあなたが彼女と話すことになった」

「やっぱり俺はきみに操られてたんじゃないか」

 ふたりしていつものように笑った。

 正体を明かした沙希は、俺との距離を保ったまま尋ねた。

「で、これからどうする? わたしたち」

 決まってるじゃないか。

「今までどおりさ」

 彼女に右手を差し出したら、彼女は駆け寄ってきてその右腕に、両腕をからめてきた。

 この手を解きたくないから、ホテルへのタクシーが拾えるまで、砂だらけのスニーカーを履いたまま歩くしかないな。


         了

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