プロローグ、あるいは姫の追憶
地獄を見た。朱と赤の炎に包まれた、きれいな地獄だった。
人間は早死にする生き物だった。だから、彗星のごとく落ちる火の矢、焼かれる皮膚の臭いに、わたしは軽蔑していた。
とある王国と呼ばれた制度の、とあるか細い腕をした姫。だだっ広く、金と銀の装飾のほどこされた一室では、ちょうど百一人めのメイドが、槍によって殺された。
「お逃げください」
それは、最後のメイドが言い残した言葉だった。
わたしが死ねば、あとは王のみが残る。王が死ねば、王国は滅ぶ。そうして、今まで繰り返してきたのだ。
まるでほかのなにをも寄せ付けないような、柔らかい純白のドレス。わたしは裾を握ると、こじ開けられた扉の前で槍を抱える兵士たちを一瞥した。
「グリム王国の次期王女は貴殿か?」
それを率いるのは、深い鍔のシルクハットにまっ黒な紳士服を着こなした、方眼鏡男だった。その微苦笑は、戦火とはかけ離れた何か得体のしれない恐ろしさを感じて、右手に握られていた懐中時計は、まるでわたしの致死の時間を確認するためのもののようだった。
「いいえ、何かの勘違いでしょう。わたしは勝負札が好きな、ただの貴婦人ですわ」
「貴婦人。その美しい召し物、そして若さからして、その言葉はあまりふさわしくありません」
「あら。うれしいわね。でも本当よ。私は――この五十三枚目のカードを、後世に生み出そうとしているのだから」
白紙のカード。
「さしずめ。あなたには娼婦のほうがお似合いだ」
それは、ほめ言葉なのかしら? わたしは鏡を見た。
わたしは本当にずるい女だ。右手に握られた白紙のカードは、この勝負札というゲームの戦況を一瞬で覆す、禁忌のカードなのだ。
「それに今は関係ありません。あなたが貴婦人と呼ばれることに関しては」
「ありましてよ? わたしは――五十三枚目と婚約し、新たな王国を作ります」
「――全員、あの姫を捕えよ」
鋭く低い声に、兵士たちも身震いした。一瞬出遅れて、棒立ちしていた足が一斉に動きだす。
「もし――わたしたちを救ってくださる王子様がいるのなら」
わたしは、祈った。
これは、戦争だ。戦争に勝ち負けはなかったが、終わりはある。それにはあらかじめ則っていたルールが存在するのだ。
「どうか。本当の意味での終わりを、迎えられますように」
ある姫は祈りをささげる。十三本の槍が心臓を貫いてもなお、彼女は微笑を絶やすことはなかった。
グリム王国という、小さくてまだできたての国だったが、王であるグリムローセ・ヴァルシュタインの娘、グリムロッテは、幼いころからもって生まれた能力に、周囲から避けられていた。
「――残念ながら。私はかの王、アーサー・ペンドラゴンではありません。その使い、としてここに参上したまででございます」
グリムロッテの最期と同時に、かつて民を見守っていた時計塔が鳴り響いた。時刻は十二を指していた。彼女が王宮の一室から突き落とされると、彼女の涙ひとつぶひとつぶに魔法がかかったみたいで、いつまでも煌めき夜空に漂っていたのだ。
シルクハットの男は口角をあげた。
足元には、靴だけが残っていた。それがグリムロッテの靴だとわかると、「妙な女だった」踵を返して、そうつぶやいた。
時と、世界のまったく異なるある場所。
天野時雨という名の少年は、相変わらずの自分の癖に、嫌気が差していた。
まだ、右の頬が痛い。そろそろ僕も、捨てられるのではないか? という不安が心の奥底でちくりと刺さって今でも抜くことができない。
シグレは小さなため息をひとつ吐くと、それと同じくらい小さな木造アパートの、階段をのぼって行った。
酔うことのできない身体にこもった熱を冷ますかのように、夜風を懸命に浴びる。201号室。シグレはそこの住人だった。
ドアを開けても、見知らぬ世界が広がることはあり得ない。
あるのは、机と座椅子、そしてテレビ。冷蔵庫の中には飲みかけのチューハイが入っており、基本的に一人でご飯を食べるときは冷凍食品だけだ。
「疲れた」
まるで、SNSのつぶやき。果汁の風味が染み出た不味いチューハイの缶を傾けて、くしゃくしゃに丸まった紙が散らばった床に座り込んだ。手土産にもらった、真っ赤な皮のリンゴ。シグレは一かじりするだけで、あとは捨てた。
シグレは、高校受験に失敗した。
そんな奴がこの世に存在するのかとせせら笑いをしたあの時の自分を、今でもシグレは静かに呪っていた。
シグレがはじめて酒に手を染めたのは、16の春だった。
「自分の稼いだ金で酒を買ってなにが悪い」
あの日は格別酔っていた。練馬に越してから一か月通ったバーで、そんなことをいつも叫んでいた。何に惹かれたのか、そんなシグレにも彼女ができたのだ。
ただ、さきほどいざこざがあって、顔面に平手打ちを食らったから、ヒリヒリ痛む右頬を抑えながら、布団のあるロフトにのぼった。
シグレがここを選んだ理由。親に捨てられ、世間に置いてかれた自分が、いつでも死ねるようにと。わざわざ天井の高いロフト付きの部屋を借りながら、すすり泣いて生きているのだ。
「死ぬか」
寝れない夜は、そんなことを口ずさむ。
シグレはメガネをケースに仕舞い込むと雲に隠れたおぼろ月を見上げていた。
そして、死んだように眠る。月の模様は、今でもウサギの餅つきに見えると教えてもらえなかったから、彼には死神のようなものに見えていたのだ。