序 歪んだ、あるいは歪められた少年
生きることが嫌で心を捨てた。
死ぬことが嫌で刃物を捨てた。
そうして不幸に酔い痴れた。
* * *
裏路地の夕闇をがむしゃらに走り続けている。
呼吸をする度に鋭利な空気が喉を刺す。酷使している肺が、紐できつく結ばれているかのようだ。一瞬の呼吸の停止が嫌で唾液を飲み込むのを我慢をしていると、口の端からだらしなく唾液が溢れた。無様に溢れ出す鼻水が乾いた唇を濡らし、舌で舐めると不愉快な塩味が口内に広がった。
足元の石やがらくたが薄明かりを反射して鈍く煌めいている。歩幅を変え、時には飛び越えてそれらの上を駆け抜ける。
「いたぞ!」
その声に全身が粟立った。無意識に体が緊張し、寒気が背筋を駆け上がった。人影は無い。後ろを見ても誰も居ない。もう一度振り返って前を見ても居ない。狂ったように背後に振り返る。自らの荒い呼吸が更に焦燥感を掻き立てる。どこに――緊張が最高潮に達した時、人の通れない家の隙間から、走り抜ける何人かの姿が見えた。もはや逃げられない。
通常ならば。
しかし僕には、あまり珍しくもないが、誰もが使えるわけではない力があった。
必要な言葉を唱えると、みるみるうちに手足が霞み、周囲の影が生き物のように蠢いた。次の瞬間、僕は屋根の上にいた。魔法だ。魔法を使える人間にとっては日常で、使えない人間にとっては奇跡である。走っていた小道に沿った家屋、その赤瓦の屋根の最上部に跨っている。隣の木馬に跨るかのように、その移動は簡単に出来る。追手の姿を確認したいという気持ちを抑えて、慎重に屋根の上を移動しながら先ほどの小道から遠ざかる。
深呼吸。しかし無意識に顎に力が入り、がちがちと音を鳴らす歯の隙間から息が漏れ出た。数度繰り返すと呼吸が整い始めた。先程まで僕が居た場所に数人の知り合いが集合したのは、丁度その頃だった。
「――――」
何事かを喋っているがここまでは聞こえて来ない。心配する必要は無かった。この屋根まで登って来られる人は居ないだろうから。
一息ついて、ふと、顔を上げた。
眼前には夕焼けが広がっていた。太陽が遠くで輝いており、夕空を毒々しい赤茶色で支配していた。赤瓦の屋根に反射する陽光が、目を焼き殺さんばかりに燃え上がっていた。まるで遠くで起こった火事に似ていた。静寂の中、聞こえてくる耳鳴りは誰かの悲鳴のようだった。パンにこびりついた青黴のように、青黒い雲が夕空を侵食していた。腐っていた。夕空全体が腐っているかのようだった。
がたんという大きな音が響き、びくりとして肩を震わせた。恐る恐る耳を澄ませると、いくらかの罵倒と共に彼らの遠ざかる気配がした。
僕は歯を食いしばった。その拍子に夕日が滲んだ。
「……」
何が違うのだろうか。何が違ったのだろうか。僕と彼らの間に、一体どれほどの違いがあるというのだろう。
いや、違いは、あった。
中心となる彼は、明らかに周りとは違った。
人目を惹く容姿をしていた。少し癖の強い金髪は幼いながらも活発さを感じさせ、細い眉は凛々しさを醸し出し、高く形の良い鼻はバランスよく配置され、薄い唇は野暮ったさとは疎遠であった。
その容姿が、僕のものであったなら。
容姿故に彼は人々の中心に居た。容姿が良ければ印象も良くなる。誰もが一言交わしたいがために彼に近づいた。そこは愛に満ちていた。幸せの好循環だ。その眼差しが彼の自信となる。その自信は堂々たる振る舞いを支えている。少し彼が馬鹿馬鹿しい悪戯をしようとも、僕達の世代はそれに憧れる。大人たちは温かい眼差しで見守り、時には叱る。そうした経験を経て彼は成長していく。様々な人が集まり、彼は大勢と交流することで交友が広がる。自然と人と話すことが上手くなる。
その人生が、僕のものであったなら。
鮮やかに彩られ、さぞ楽しい人生であっただろう。
そうでない僕にとって、それは寒々しい成長譚でしかなかった。
ああ。
遠くに光があることは知っていた。けれども、他人が邪魔でその全てを見ることは出来なかった。光の降り注ぐ場所は限られているから、そこに入るには他人を押しのけるしかない。でも、そうまでして光を浴びようとは思わなかった。押しのけられたその人は寒さに凍え死ぬだろう。心地よく光を浴びる僕の後ろで、多くの人々が肌を寄せ合い抱き合うことになるだろう。それを無視して幸福に酔う。そんな傲慢なことが許されるだろうか。
許されるのならば――幸福とは、他人を蹴落とした先に待ち構えているものなのだろう。
僕は、幸福の生贄だ。
大人たちは知らない。彼が時折見せる冷たい眼差しを。周囲の笑みは嘲笑であることを。彼らの友情は、きっと贄である僕の上に成り立っていることを。
それは紛うことなき理不尽であった。
ならば次は僕が上に立とう。誰もが及ばぬ力で以って。そうして僕は、彼らが子供時代に犯した過ちを、大人になって逆の立場で犯すのだ。人は、狭量だと僕を笑うだろう。執念深い僕を蔑むだろう。その通りだ。その通りで、それがどうした。僕だけが損をしなければならない理由が一体どこにあるというのか。
その復讐で、僕が幸せになることはきっとない。けれども、そうしなければ僕が救われない。今の僕を救うために、未来の僕が他人を甚振るのだ。
彼は、救済の生贄だ。
人生で十回目の、夏の夕暮れのことだった。