三五話 誕生してしまうソムリエ
都会に出稼ぎに行く息子のような温かい見送りを受けて、僕は宿舎に向かった。
もちろん宿舎を正面から訪ねたりはせず、こそこそと宿舎の裏手へ回り込む。
宿舎の一階には守衛室があるが、ここを回避することは必須条件である。
強引に押し通ることは可能だが、そんな強硬手段を取れば宿舎は大騒ぎになる。
もう一人の部隊員に勘付かれてしまえば、カーラの説得どころではないのだ。
僕は狭い路地へ入り込み、宿舎を見上げる。
宿舎は五階建て――部隊は賓客扱いを受けているとの事から、二人は最上階に泊まっている可能性が高いような気がする。
問題はどうやってそこまで辿り着くかだが……僕には手段の当てがある。
「フェリ、お願いしてもいいかな?」
国境の壁を越えた時のように、上空から宿舎を攻めてみようという訳だ。
一般的に、上層階のセキュリティは下層階に比べて甘い傾向がある。屋上の鍵は外から解錠可能なものが多いし、上層階の窓は施錠を怠っている事も多い。
「…………」
僕のお願いを受けて、フェリはマフラー状態からモヤッと気体へと変化した。
そしてそのまま『掴まりなさい』とばかりに僕の頭上へ移動する。
……意外なほど素直に応えてくれたので、こちらが戸惑ってしまうほどだ。
もしかすると、部隊の脅威をフェリにも語って聞かせたからなのかも知れない。
フェリは魔獣との戦闘などでは協力意思を見せないが、今回ばかりは油断できない相手だと分かってくれたのだろう。
「ありがとう、フェリ」
僕が片手を上に掲げると、フェリは僕の手を掴んだまま急浮上した。
今回は不測の事態が起きても対応出来るように、片手での運搬だ。
……なにやら前回より速い速度になっているのは慣れたからなのだろうか?
片手での運搬という事もあって急上昇の勢いで脱臼しそうだったが、もちろん僕の立場で文句など言えない。
「――あ、そこから入ろうか」
目標である五階。
期待通りに廊下の窓が開いていたのでフェリにお願いすると、フェリは換気扇に吸い込まれる煙のようにヒュッと室内に入り込んだ。
僕が気配を殺して室内に降り立つと、フェリも無音で漆黒のマフラーに戻る。
グッジョブなフェリを褒めてあげたいところだが、しかしまだ油断は禁物だ。
宿舎はホテルのような造りになっているが、廊下から気配を判断する限りでは部屋には人が在室している。ここで不用意に物音を立てるわけにはいかない。
そして、人の気配があるのは二部屋。
部隊は最上階に宿泊している可能性が高いと考えていたが、二部屋のみが埋まっているという状況からすると、僕の推測は的中していたようだ。
おそらくどちらかの部屋に――カーラが居る。
問題はどちらの部屋にカーラが滞在しているか、という事だが……ここまで絞り込めば特定は難しいものではない。
なにしろ部隊の二人には大きな違いがある。
一人は四十歳過ぎのおじさん、もう一人は十四歳の少女――これだけの情報が分かっているのであれば、名探偵の僕に特定できないはずがない。
僕は部屋の前へ移動する。
僕の狙いは、ドアの隙間。
グレードの高い宿泊施設であっても、部屋の気密性は決して完璧ではない。
ドアの隙間から室内の空気が漏れることは避けられない――そう、おじさんと少女なら一嗅ぎ瞭然である……!
僕の五感の鋭敏さは相当なものだ。
無駄に聴覚が鋭いせいで聞きたくもない陰口を聞くこともあったが、これまでの辛苦は支払うべき代償だった。僕の優れた五感は、今日この時の為にあったのだ。
今この時、僕は――匂いソムリエとなる!
くんくん……なるほど、なるほどね。
僕は頷きながらドアの隙間から漏れ出る匂いを嗅ぎ分けていく。
僕自身が犯罪の臭いを漂わせているような気もするが、これは正義を為す為に必要な事なので仕方がない。マフラー状態のフェリが引いている気配がするのは気のせいだろう。
そして僕の判別は早かった。
正直に言えば、僕でなくとも部屋を特定することは難しくなかったはずだ。
その部屋からは甘い香りがしていた。
少女特有の甘い香りではなく、甘ったるく感じるほどに濃厚で華やかな香り。
この香りは、カカオだ。
街の人々の目撃証言に『お菓子を大量に抱えていた少女』というものがあった事からすると、おそらくカーラが部屋でチョコレートでも食べたのだろう。
チョコ好きのおじさんが在室している可能性も懸念して別の部屋も嗅いでいるが、そちらからは仄かな加齢臭が漂っていた。
消去法から考えても、この部屋にカーラが居ることは間違いないはずだ。
次の問題は、カーラとの接触方法だ。
部隊衆は別の場所に滞在しているので、この宿舎を利用しているのは部隊の二人だけだ。訪ねてくる人間が限られている状況下ともなれば、迂闊にノックをして訪問する訳にもいかない。
古参部隊員に扉をノックする音を聞かれたら不審感を抱かれてしまうのだ。
かといって、このまま扉の前でカーラが出てくるのを待つのも論外だ。
ここは遮蔽物のない廊下なのだから、こんな場所で待機していれば他人に発見されるのを待っているようなものだ。
それにカーラの部屋からは水音が聞こえている――シャワーを浴びているようなので、あの子がすぐに部屋の外に出てくるとは思えない。
こうなれば、取るべき手段は一つ。
神国の施設。それは才能の高い子供たちを養育する場であり、部隊候補生を育てる場でもある。戦闘訓練は当然として、他国での潜入任務を想定して語学や隠密技術も叩き込まれる事になるのだ。
もちろん僕も例外ではない。
僕はポケットから針金を取り出す。
そして鍵穴に針金を挿入して解錠を始めた――そう、ピッキングである!
これなら扉をノックする音が響き渡ることなく、静かに入室することが可能だ。
この程度の扉の鍵を開けることは初歩の初歩。
僕の解錠技術をもってすれば児戯に等しい。
――カチャ。
小さな音を立てて鍵は開かれた。
咄嗟に周囲を見渡すが、誰かの関心を引いた様子はない。
僕はササッと速やかに部屋の中に入る。
シャワーの水音はまだ続いているので、カーラにも気付かれていないようだ。
まさか施設で学んだピッキング技術が役に立つ日が来るとは思わなかったが、芸は身を助けるとはよく言ったものである。
「…………」
心なしかマフラーのフェリから冷たい気配が漂っている気もするが、僕とて好きで犯罪行為に励んでいるわけではないのだ。
さて、後はシャワーから出てくるのを待つだけだが……僕は部屋の中を見渡す。
部屋の中にはお菓子が散乱していた。
カカオの匂いの発生源であるチョコレートの空き袋も床に落ちている。
ここがカーラの部屋であるのが確定的になったのは喜ばしいことだが、しかしこの汚部屋の惨状はいただけない。
短期滞在の部屋であっても散らかし放題にしていては駄目だ。宿泊施設の清掃員に全てを任せっきりにするというのはモラルに欠けている。
まったく仕方がない……だらしない妹分の為に、僕が片付けてあげるとしよう。
明日も夜に投稿予定。
次回、三六話〔開かれたバスルーム〕




