二話 忌まわしきアダ名
「――それでは」
リスティは言葉少なに行ってしまった。
中等部と高等部は学舎が異なるので、いつまでも妹と一緒にはいられない。
毎日の事でも寂しさを感じてしまうところだが、凛然として去っていくリスティの方には特に感慨は無いらしい。
後ろを振り返らないばかりか、同級生らしき生徒から『おはようございます』と挨拶されても視線すら向けていない。
……しかし、なぜ同級生から上司のような扱いを受けているのだろう?
肩口まで届く優艶でサラサラな髪、芯が通っているように伸びた背筋。
リスティの後ろ姿を見るだけでも凡百の生徒と一線を画していることは分かるが、教師までへりくだるように挨拶をしているのは只事ではない。
リスティの怜悧な瞳には支配者然とした雰囲気を感じなくもないが、実は中等部で孤立しているのではないかと心配してしまうところだ。
「ほらほらアロン君、もう行くよ」
僕が妹を目で追っていると――レイリアさんから急かすような声が飛んできた。
レイリアさんは声を掛けるだけでなく、僕の腕を掴んでえいえいと引っ張る。
彼女は見かけによらず膂力が強いので、僕はオモチャ売り場で駄々をこねていた子供のように引っ張られていく。
「はい、すみません。行きましょうか」
たしかにリスティとの別れの余韻に浸っている場合ではない。
少々手荒な連行ではあるが、僕はリスティの背中が見えなくなるまで見送る自信があったので正しい判断だ。
しかし……僕は小柄な体躯とはいえ、女性の細腕であっさり連行されてしまうと複雑な思いだ。天は二物を与えずとは言うが、これでレイリアさんは頭脳も明晰なのだから全く隙がない。
「――今日の影召喚。アロン君なら私より凄い影が出てくるんじゃないかな?」
二人となった通学路で談笑しながら歩いていると、影召喚の話題となった。
同じ高等部という事で、レイリアさんも影の召喚日を把握しているようだ。
高等部では噂の種になることもあって、上級生であっても知らない人間の方が珍しいくらいだと聞く。人気者のレイリアさんなら把握しているのも自然だ。
影は人によって千差万別。
極稀にだが、強大な力を持った影が現れることもある。学園高等部で興味の対象となるのも当然の事だろう。
「さすがにレイリアさんほどの影は無理ですが、僕としては戦闘向けの影を手に入れたいところですね……」
召喚者の魔力量が多ければ多いほど、強大な力を持った影が現れる傾向が強い。
レイリアさんが『僕なら凄い影が出てくる』と言っているのは身内贔屓もあるだろうが、僕の魔力量が人並み外れて多いからだ。
僕とリスティは特殊な環境で生まれた影響から、常人とは比較にならない隔絶した魔力を持っているのだ。
だが、魔力量の多さと影の強力さは必ずしも比例するわけではない。
魔力量が多くとも影が貧弱という者は珍しくないし、その逆もまた然りだ。可能性的には僕の影は期待出来るはずだが……蓋を開けてみないことには分からない。
そして仮に強力な影を得られたとしても、レイリアさんの影を凌駕することは難しいだろう。レイリアさんも膨大な魔力を持っている人だが、それを加味して考えても彼女の影は規格外だ。
レイリアさんが学園外にまでその名を轟かせているのは、家柄や容姿端麗な外見の影響もあるが――彼女が桁違いの影を持っているからなのだ。
『おはようございますレイリア様』
『レイリア様……』
学園が近付くことで生徒たちの数が増えていき、次々に挨拶が飛んでくる。
リスティは同級生に敬語で挨拶されていたが、レイリアさんに至っては『様』付けだ。才色兼備のお嬢様なので崇敬対象となっているのだろうが、とても一学園生の通学風景とは思えない。
そんな彼女の隣を歩いている僕に視線を向ける者はいないが、しかしこれでも普段より上等な扱いだ。どういうわけか僕は危険人物のように思われている節があるので、普段は腫れ物扱いであからさまに避けられているのだ。
もちろん、品行方正に生きている僕に疚しいことは一切ない。
悪事を働いていないどころか、将来の目的を考えて目立たないように生活しているほどだ。それなのに高等部に上がって一カ月で、なぜか先輩からも避けられているのが現状だ。……不可解な話である。
生徒の海を悠然とレイリアさんが抜けていく。
僕とは別の意味で距離を置かれている傾向もあって、レイリアさんの歩みを止めるほど親しげに絡んでくる人間はいない。
「――今日は早いですねレイリア様!」
おや、珍しくも積極的に女生徒が絡んできた。
挨拶をするだけでなく、こちらに歩む速度を合わせるように追従している。
いつもより少し遅めの通学となっている影響なのか、普段は見かけない先輩だ。
先輩はレイリアさんに声を掛けた後、傍らを歩いている僕の存在に気付く。
そして朗らかだった先輩は、僕を見た途端――その顔を不快げに歪めた。
うぅ、なんたることだ……。
なぜ初対面の先輩に、自室で害虫を発見したような目で見られるのか。
レイリアさんのファンとして近くにいる僕が気に食わないのか、はたまた僕の悪評を真に受けてしまっているのか、いずれにせよ酷い話である。
そして先輩は、主に忠言をするかのようにレイリアさんの近くに顔を寄せる。
……嫌だなぁ、これは絶対に悪口を言われてしまうパターンではないか。
僕は聴覚が優れているので、聞きたくもないのに先輩の言葉が耳に届く。
「アレって例の『狂人』じゃないですか? あまり近付かない方が……」
「――――黙りなさい」
予想に違わない酷い発言。
罪無き心がザクザク傷付けられていると、レイリアさんが陰口を断ち切った。
静かで穏やかな声だが、しかし強い意志をぶつけるような言葉だ。
レイリアさんのあまりの迫力に、先輩は「ひっっ」と小さな悲鳴を上げて座り込んでしまったほどである。
少し先輩が気の毒になるが、目の前で陰口を叩かれた僕も気の毒だったので差し引きゼロとも言える。悪口を本人に聞こえるところで口にするというのは、相当に残酷な行為なのだ。
しかし、『狂人』か。
僕くらい良識的な人間は珍しいほどなのに、なぜ僕の事を『狂人』や『気狂い』などと呼ぶ人間がいるのか。ほぼ同じ意味のアダ名が二種類もあるという事実に底知れぬ悪意を感じるぞ……。
いや、噂に気を揉んでも仕方がない。
ネガティブな内容に思いを馳せるより、レイリアさんが僕を庇ってくれたことを喜ぶべきだ。お姉さんの弟分を守るという想いは恐縮なのだが、やはり素直に嬉しい。
それに今回は、幸いにも被害者がいないままに丸く収まっている。
先輩は尻餅をついて怯えてはいるが、外傷もなく失禁しているわけでもない。
そう、過去にレイリアさんは同様のケースで失禁させてしまった事があるのだ。
優秀なお姉さんなので〔お漏らせ職人〕の才能もあるのかと心配していたが、今回は反省を活かしてくれたのか先輩が踏み留まってくれたのか、通学路での惨事は回避された。
――いや、待てよ。
安堵している場合ではない。
弟分として、今後起こりうる不測の事態に備えておくべきではないのか?
レイリアさんが他者を失禁させてしまったら、弟分の僕がそれをフォローする――そう、僕が替えのパンツを常備しておくのだ!
パンツ……いや、ここは敬意を表してパンティと呼ばせてもらうが、僕が常にパンティを携帯していれば不測のお漏らしも怖くない。
うむ、これは悪くない案だ。
唯一の懸念があるとすれば、持ち物検査でパンティが発見された時に弁明が難しい事だろう。災害に備えて防災グッズを持ち歩くかの如く、来るべきお漏らしに備えて下着を持ち歩くこと自体はおかしいことではない。
しかし、男が女性物の下着を所持しているとなると話は変わる。
下着泥棒の類だと誤解されると、ただでさえ悪い僕の評判が悪化しかねない。
僕が頭を悩ませていると――海を割るように葛藤を中断させる声が掛かる。
「行きましょう、アロン君」
先刻の迫力が幻であったかのようなレイリアさんの温かい笑み。
お漏らし未遂事件など起きていないように錯覚するほどだが、もちろんそんな事はない。現在も先輩は尻餅をついたまま震えているし、周囲の学園生はその姿に引いている空気だ。
僕とレイリアさんの前で女生徒が地べたに座り込んでいるわけなので、僕たちが不穏な事をしたのではないかと疑われている。
いや、正確には僕たちではない――僕が疑われている……!
だが僕たちの評判の差を考えれば、ごく自然な成り行きだとも言える。
なにしろ優等生のお嬢様と悪評著しい僕だ。
そんな二人の前で女性が怯えていれば、誰がどう考えても僕の仕業だと思うはずである。僕だって自分が怪しいと思うくらいだ……うむ、本当に僕が罪を犯したような気になってきたぞ!
しかし僕の悪評が増えるのは悲しい事だが、これは涙を飲まざるを得ない。
レイリアさんが悪く言われるよりは、僕の悪評が加算される方が望ましいのだ。
次回、三話〔断ち切る連鎖〕