一話 厄災の少年
第一部はプロローグです。
また、夢を観た。
お決まりの悪夢は毎晩のことになる。
夜中に何度も起きるので僕の眠りはいつも浅い。
今の僕は近くに妹がいるだけでなく、少ないながらも友達だっている。
自分では満たされた生活を送っているつもりだが、この十年間悪夢を観なかった日が無い。あの『施設』から妹と逃げ出して以来、律儀にも毎日毎晩だ。
悩んでも無益なので気持ちを切り替えて生活を送っているつもりではあるが、心の奥底では引っ掛かっているのかも知れない。
不眠症の影響で頭をぼんやりとさせつつ、眠気覚ましに洗面台で顔を洗う。
鏡に映る目には、相変わらずの濃いクマだ。
ただでさえよくない目付きが更に悪化しているが、もはやこの顔に慣れつつあるのが我ながら恐ろしい。……いや、朝からネガティブな思索に溺れてはいけない。
今日こそは、学園で沢山の友達を作るのだ。
暗い心では人が逃げていく。ポジティブに爽やかな気持ちで挑むべきだ。
ポジティブ、ポジティブ…………ポジティブ!
「おはようリスティ、今日も爽やかな朝だね! 朝の光が僕らを祝福してくれているようじゃないか!!」
食卓に入るなり、妹に爽やかな挨拶を送った。
若干ポジティブシンキングが行き過ぎてしまった感は否めない。
「……おはようございます、兄さん」
うむ、妹は引いている。
普段より不自然に爽やか過ぎたのがまずかったのか、整った柳眉を崩している。
いや……引いているというよりは心配していると言った方が正しいだろうか。
万年寝不足な僕なので『おはよう……』とテンション低めな挨拶から入るのが常だが、今日はイケないお薬でも服用しているような豹変ぶりを見せているのだ。
僕が道を外れてしまったのではないかと心配しているのだろう。
「何かあったんですか?」
妹から不審な言動を追求されて、返答に困る。
なんとなく、と正直に答えてしまうと『兄さんは精神が不安定』という印象を与えかねない。ここは上手く誤魔化さなくては……そういえば、都合の良い言い訳がある。
「ほら、今日は影を召喚する日だからね。待ちに待った日なんだから気が逸るのも仕方がないよ」
言い訳がましく弁明してしまった感じだが、僕の言葉に嘘は無い。
起床してから今に至るまで意識してなかったのが本音ではあるものの、影の召喚をかねてより楽しみにしていたのは事実だ。
そう――影の召喚。
影とは、己の分身のような存在だ。
成人扱いとなる十五歳で、初めて所持することが許される存在でもある。
理論上は子供でも影を召喚すること自体は可能だが、初めて影を召喚する際には特殊な道具が必要不可欠であり、その道具は国によって厳重に管理されている。
必然的に子供が影を得ることは不可能になっているという訳だ。
影という単語に説得力があったのか、リスティは納得した様子で頷く。
「兄さんが高等部に上ってから一カ月……今日がその日というわけですか」
高等部に上がれば影を得られることは一般に知られているが、詳細な日程まで知っている者となると学園関係者に限られる。
リスティも学園生ではあるが、僕の一つ年下なので学舎が違う中等部だ。
優秀な妹であっても高等部の情報に疎いのは仕方がない事だろう。
実を言えば夕食時に僕の影を見せて驚かせるつもりだったので、意図的に召喚日をリスティに教えてなかったという事情もある。
つい話の流れで教えてしまったが、表情に乏しいリスティが驚いてくれたので僕的には満足だ。……リスティは影の召喚日を当日に知ったのが不満そうだが。
僕が妹を驚かせて満足していると、ご機嫌斜めなリスティは冷たい声を出す。
「浮かれるのは結構ですが、私たちが動くのは私が影を得てからですよ?」
リスティが動くと言っているのは、僕たち兄妹の目的に関する話だ。
僕たちには果たすべき目的があるが、その為の〔力〕が致命的に不足していた。
目的の為に必要な力――それが影だ。
人にもよるが、影は強大な力を召喚者に与えてくれるものだ。そして、僕たちが影を手に入れれば困難な障害であっても乗り越えられるという確信がある。
かつての僕は、自分の力不足を認められずに妹に心配を掛けてしまった。
だからこそ『二人が影を手に入れるまで無謀な真似はしない』と僕はリスティに誓ったのだ。それは当時のリスティを安心させる為の誓いだったが、今もその約束は生きている。
「もちろん分かってるよ。僕がリスティとの約束を忘れるわけがないよ」
「……そうでしょうか?」
むむっ、まるで僕が約束を反故にしてばかりであるかのような扱いだ。
幼い頃は僕の言葉を疑ったことなんか無かったのに、可愛い妹はすっかりスレてしまっている。僕がリスティとの約束を守れなかった事なんて……おや、結構あるような?
「まぁそれはそれとして……今日は影も手に入ることだし、晩ご飯は僕が腕を振るうから楽しみにしててね」
旗色が悪かったのでサラリと誤魔化しておく。
一時凌ぎの対応が兄不信を進行させている気がしないでもないが、僕とてリスティとの約束を破りたくて破っているわけではない。
リスティから『問題を起こさないように』と言われてはいても、普通に生活しているだけでトラブルが向こうからやってくるのだ。
――コンコン。
朝食後にお茶を啜りながら兄妹の時間を過ごしていると、玄関の扉を叩く音が耳に届いた。もちろんトラブルがやってきたわけではない。
朝からこの家を訪ねてくる人間の心当たりは一人しかいないが、厄災どころか慈愛に満ちた人なので幸せを運んできてくれたようなものだ。
「……あの人も毎日ご苦労なことですね」
リスティが切り捨てているようにも聞こえる感想を漏らしているが、もちろん優しい妹が冷たい発言を口にするはずもない。
僕の脳裏では『いつも迎えに来てくれて嬉しい!』と正確に翻訳されている。
「それじゃあ、行こうかリスティ」
いつでも出発出来るように身支度は済ませてある。お迎えに来てくれた人を待たせる訳にはいかないのだ。
いそいそと僕が玄関の扉を開けると――予想に違わぬ笑顔が待っていた。
「おはよう、アロン君」
見惚れるような上品で柔らかい微笑。
光を吸収する黒髪は厳然とした印象を与えかねないが、その笑顔が冷たい雰囲気を吹き飛ばしている。明らかに育ちが違うことを感じさせる彼女は、実際に押しも押されもせぬお嬢様だ。
幼い時分に彼女――レイリアさんを助ける機会があったので、それを切っ掛けに親しくさせてもらっているが、本来なら僕では影も踏めないようなお姉さんだ。
「おはようございますレイリアさん。いつも迎えに来てもらってすみません」
「――そうですね。もう顔を見せなくて結構ですよ」
挨拶がてらお迎えに感謝を告げていると、リスティが横から言葉を挟み込む。
もちろんこれは拒絶しているわけではなく、レイリアさんを気遣っての発言だ。
「ふふっ……いいのよアロン君。リスティちゃん、私の顔が見たくないなら別の部屋を用意するよ?」
当然の事ながら、優しいお姉さんがリスティの真意を読み取れないはずがない。
レイリアさんが僕とリスティを別居させようとしているのは、このマンションには部屋が沢山余っているので、広い部屋で快適に過ごしてほしいという心遣いだ。
そしてそう――このマンションはレイリアさんの実家が所有する建物であり、僕たち兄妹は厚意でその一室に住ませてもらっている。
この国を訪れたばかりの頃、幼い僕たちには身寄りどころか戸籍すら無かった。
そんな僕たちの衣食住の面倒を見てくれているばかりか、今もこうして親しく接してくれている。レイリアさんには足を向けて寝られないというものだろう。
レイリアさんは巨大財閥ランズバルト家の一人娘。ランズバルト家は金銭に不自由していないとはいえ、いつか受けた恩は返したいものである。
――――。
「兄さんに関わるのは止めて下さい。率直に言って非常に迷惑です」
「ふふっ……リスティちゃん、自分の我を押し付けては駄目よ?」
リスティとレイリアさんが姉妹のように仲良く歩いているので微笑ましい。
知らない人が聞けばいがみ合っているようにも聞こえる会話だが、もちろんそんな事はない。可愛い妹がレイリアさんを遠ざけようとしているのは、彼女を思ってのことだ。
なにしろ僕たち兄妹が果たすべき目的は、最終的には一つの国が敵となる。
この国、武国に対しては敵対的な行動を取るつもりはないが、レイリアさんと早い段階で離別しておくべきという意見には同意せざるを得ない。
光り輝く宝石のような彼女を、僕たちが曇らせてしまう訳にはいかないのだ。
レイリア=ランズバルト。
この国が誇るランズバルト家の一人娘であるレイリアさんだが、彼女はただのお金持ちのお嬢様などではない。
レイリアさんは学園の最上級生であり、僕の三つ年上の十八歳。
彼女はその若さで、まだ学園生という身分でありながら、学園内どころかこの国で知らない人間がいないほどの有名人なのだ。
それはランズバルト家の一人娘という肩書によるものではない。
まず挙げられるのが、容姿端麗な外見だ。
腰まで届く艶やかな黒髪、綺麗に切り揃えられた前髪。そして、完成し過ぎているほどに整った顔立ちだ。
名のある職人が造りあげた人形のような外見だが、しかし彼女と直接対面して人形のようだと形容する人間はいないだろう。
レイリアさんの瞳には、目が合った者を従わせるような強い意志がある。
僕などは何も悪い事をしていないのに土下座してしまいそうになるほどだ。
いや……過去の恩義を利用する形で生活全般の面倒を見てもらっているのだから、僕が土下座をするだけの理由は充分にある。
むしろ死体のように這いつくばって感謝すべきだ――うむ、土下座がしたい!
「――先日もあなたの敵に兄さんが襲われたのですよ? あなたに僅かでも良心があるなら、兄さんに近付くような真似はしないはずです」
おっと、いけない。
リスティがレイリアさんの為に距離を置こうとしているのは分かるが、聞きようによっては責めているようにも聞こえてしまう内容だ。
僕たちは将来的に犯罪者として手配される可能性があるので、今の内にレイリアさんと距離を取っておくべきという気持ちは理解出来る。
だがそれは自然な形でフェードアウトしていくべきであって、レイリアさんの心に傷を残すような離れ方はするべきではない。
つい先日、僕がレイリアさん絡みの案件で襲撃を受けたことは事実だ。
レイリアさんは資産家の一人娘なので誘拐などの犯罪に巻き込まれやすい立場にいるが、彼女のガードは極めて高い――そこで、彼女と親しくしている僕を狙う者が出てくるという訳だ。
ランズバルト家から資金援助を受けているほどに密接な関係であり、一見すると隙だらけに見える僕を標的に選ぶことは分からなくもない。
条件的にはリスティも近いのだが、人気者の妹の周囲にはいつも人が居ることもあってか、過去の襲撃は僕に集中しているのだ。
「大丈夫だよリスティ。あれくらいは襲われた内にも入らないよ」
僕はレイリアさんほど才能豊かな人間ではないが、育った環境の影響で身を守る術には自信がある。今回の襲撃者には戦闘向けの影使いが何人か存在していたものの、影を持たない今の僕であっても対応は難しくなかった。
僕の正直な感想には、レイリアさんも笑顔で同意してくれる。
「そうよリスティちゃん。アロン君があの程度の愚物にやられるわけないわ」
ぐ、愚物……。
僕を実の弟のように可愛がってくれている影響なのか、レイリアさんは僕の敵対者には大変厳しい傾向がある。そして『あの程度』という言葉からすると、どうやら襲撃者を直接確認しているようだ。
事情が事情だけにランズバルト家へ襲撃者の身柄をお願いしたのだが、まさかレイリアさんが直接関わるとは思わなかった。
「レイリアさん、あの人たちは警察に引き渡したんですか?」
「ふふっ……あの連中とは、もう二度と会うことは無いわ」
返ってきたのは肯定とも否定とも取れる言葉だ。
家の商売敵による仕業かも知れないので尋問くらいはしていると思うが……もしかして、殺ってしまったのだろうか?
……いやいや、優しいレイリアさんが無慈悲な事をするはずがない。
おそらく真心を込めた説得で襲撃者を改心させたのだろう。
「そうですか……やっぱりレイリアさんは優しいですね」
「もう、アロン君ったら」
僕が思わず心情を吐露すると、レイリアさんはニコニコしながら僕の頭を撫でてくれた。リスティが「優しい……?」と訝しげな声を漏らしているように聞こえるのは幻聴だ。
だが頭を撫でられるのは嬉しいが、この状況に甘んじているわけにはいかない。
なにしろここは天下の往来。
通学途中の学園生もいるので、いつまでも頭を撫でられていれば無用なトラブルの元になる。それでなくとも人気者のレイリアさんと親しいという事で、僕は常日頃から妬みの対象となっているのだ。
「そろそろ行きましょうレイリアさん。このままでは遅刻してしまいます」
僕はスルリとお姉さんの手から逃れる。
のんびりしていたせいか、普段より通学が遅れているのも事実だ。僕のせいで優等生のレイリアさんを遅刻させるわけにはいかない。
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……より長編になるかも知れません。
次回、二話〔忌まわしきアダ名〕