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ディオス・カーンは、理の塔に入塔した当初から、将来を嘱望された魔法使いの卵だった。
魔力もあり、勤勉で、意欲にあふれた彼は、実技も学力も申し分のない成績を修め、他の追随を許さなかった。
しかし、その2年後に7歳という異例の若さで理の塔にやってきたアルザス・キーア・リンゼイが、さらに異例の飛び級でもって彼と席を並べた5年生の時、あっさりと主席の座を明け渡すこととなったのである。
リンゼイは、恐ろしいほどの魔力量を持っていた。それにもかかわらず、自身の魔力量に振り回されないだけの繊細なコントロール力も持っており、魔法を使うセンスも優れていた。誰が見ても、彼の才能がずば抜けているのは明らかだった。
それが、悔しくなかったと言えば嘘になる。アルザスの存在により、彼の一点の曇りのなかった未来設計に暗く影が差したのは間違いない。
しかし、圧倒的な差というものは、自信喪失までには至らないらしい。むしろ、ディオスは自身を奮起させた。
単に「魔法使い」という意味では、光の魔法使いとして期待されているアルザスの才に及ばぬものの、彼にはまだ、水の魔法使いとして名を馳せるという希望が残っていた。水の魔法使いとしての才という意味では、ディオスの能力が突出していたことには違いなかったのだ。どうせなら、すべての水の魔法使いの頂点として、「水使い」と呼ばれる4大魔法使いの一人を目指そうという、少年らしい野望をも抱いていた。
5年に進学し、いよいよ師匠につくという段になり、彼は期待に胸を膨らませていた。
彼にはまだ、明るい未来が待っているはずだった。
そう、彼女、彼の師であるデイジーにつかまるまでは。
本来、魔法使いの弟子入りは、師匠と弟子の双方の合意のもとで決定するものである。
ディオスもまた、弟子入り可能な師匠がずらりと並んだリストを渡され、吟味に吟味を重ね、自分の才能を最大限活かしてくれる、相性の良い優秀な師匠のもとに弟子入りする気で、水の塔の前に立っていた。
候補の師匠は、二人に絞っていた。二人とも、水の塔では5本の指に入る優秀な魔法使いで、弟子の育成にも熱心な師匠だった。そのうちの一人には、前々からそれとなく弟子入りしないかと声をかけてもらってもいた。断られるはずなどなかった。その可能性を考えてもいなかった。
彼の前には、まだ、明るい未来が開けているはずだった。
だがしかし、そんな心配はそもそも不要だったのだろう。彼は、弟子入りする前に、彼が考えてもいなかった魔法使いに浚われたのだから。
「お前は今から私の弟子だ」
傲岸不遜ともいえる態度、断定的なその一言で、彼の未来は決定された。
デイジー・マーシルは、非常に優秀な水の魔法使いである。次期水使いとも噂される、能力の高い魔法使いだ。
世界中の魔法使いが集う、ここ、理の塔。そして、理の塔を構成する、地水火風4つの塔の一つ、水の塔のトップ。ディオスが理の塔に入る前から、水の魔法使いを目指していた彼にとって、彼女は目指すべき目標の一人であった。けれども、そんな少年の憧憬の念は、理の塔に入ってすぐに霧散することになる。
地水火風、4つの魔法使いの中で、水の魔法使いというのは、本質的に争いごとを好まず、穏やかで物静かな人物が多いと言われている。
だがもちろん、それが全てというわけではなく、デイジーはまさしくその例に漏れた代表ともいうべき人物だった。
水のデイジーは奇人である。決して近づくな。関わるな。弟子入りなんてもってのほか。
理の塔に入った新入生への申し伝えの一つに、そんな事項があった。
水のトップであるはずなのに、弟子の一人もいない魔法使い。そもそも彼女は、塔に所属する魔法使いにもかかわらず、めったに塔に現れることはなかった。噂では、彼女はしょっちゅう王都に出没するらしい。さらに言えば、魔法使いは行政には不干渉と言われているにもかかわらず、彼女は王都で何やら政府関連の怪しい職に就いているという話もあった。
申し伝えを忠実に守っていた優等生のディオスは、だから連れ去られて彼女の研究室に拉致された時でさえ、彼女が誰だか認知できなかった。その時まで、姿どころか、声さえ聞いたこともなかったのである。
デイジーは、淡い水色の髪に、濃い群青の瞳の、非常に地味な女だった。特徴的な丸眼鏡をしていてすら、そこらへんに埋没してしまいそうな、存在感のない人間。
それでも、その声には力があった。他者を従わせる絶対的な力だった。
そして、そんな地味な外見と性格は、全く一致していなかった。
ディオスは、勝手に彼女に弟子にされたあげく、放置された。
現在に至るまで、ディオスがデイジーに何かを教わった、という覚えはない。彼女に何をされたかといえば、主に、実験台にされた、の一言に尽きる。開発途中の水の魔法の被害にあった回数は数えきれない。基本、雑用係として、良いように使われた。会議の代理出席など、まだ学舎の塔の学生時代から当然のようにやらされた。何を思ったか、見知らぬ山の中に放置された。理の塔に帰るまで、1週間を要した。お金を持っていなかったので、危うく売り飛ばされる目にあった。気づけば、湖の中に突き落とされたこともあった。
――思い出したくない過去だ。
弟子をとって立派に独り立ちした今でさえ、年に2,3回はかるく被害にあっている。
塔代表の集まりに代理で強制参加させられるなんていうのは、別に大したことではない。退屈なだけの会議で、時間の無駄と感じたって、それがいかほどのものか。そう、いつでもデイジーに取って代わろうと狙っている副代表を差し置いて、代表代理に仕立て上げられたとしても、単に横からの視線がうっとうしいというだけのことだ。
塔長が、いかにも意地わるげに話を振ってきたとことも、どうということではないはずだ。
「水のディオス。意見をどうぞ?」
塔長の声に、皆の視線が集まる。
火のブリジットが目を眇め、風のバージルがにやりと笑うのが、視界に映る。
おまけは、塔長の満面の笑み。
――いい加減、面倒くさい。
「カリム殿のお考えは、つまり塔長に引退していただき、大地の塔のトップとしての役割に専念していただきたいということでよろしいのしょうか」
「な、なぜそのような」
大地の塔代表は、挙動不審にも視線をさまよわせる。
「確かに、塔長に大地の塔のトップとして仕切っていただくなら、大地の塔としては安泰ですからね」
にっこりと、嫌味なほどの笑顔を大地の塔代表に送る。
塔長に引退してもらい、自分が名実ともに塔代表になろうなんて図々しい了見だ。本気でそんな妄想を抱いているのなら、自分こそ引退すべきだろう。
未だ塔最強の魔法使いを、塔長から退かせるばかりか、さらに大地のトップの座からも追うなんて、それこそばかばかしい。ありえない選択だ。
なんだって、そんな誰にでもわかることすら認識できないこんな阿呆が、塔代表の地位にいられるのか。塔長も、いたずらが過ぎる。
「しかし何分、リンゼイもカノンも、私の同期で未熟。塔長を務めるにはまだまだです。しかも、塔に所属していない、行方も分からない彼の方に塔長を引き継いでいただくとすれば、4塔の代表が探し出して、そろって頭を下げるくらいでも足りないのでは?」
まさか、下の者に彼の方と交渉させるというわけにも参りませんでしょう?
そう続ければ、いったい何を考えていたものか、カリムは完全に言葉を詰まらせる。
「そうですな。名ばかりの塔長というわけにも参りますまい。行方が分からないのではいかんともしがたい。現状では、塔長に引き続き頑張っていただくしかありませんね」
風のバージルが当然のように続ければ、火のブリジットも、
「幸いにして、塔長の魔力はいまだ底知らず。後継の話も、いずれ考えねばならないにしても、候補はいるわけだし、焦ることでもあるまい。
さて、議題も終わっている。これから予定もあるので、これで失礼するよ」
半ば呆れたようにそう続け、颯爽と立ち上がる。
「そうですね。私も失礼しよう。次は、久しぶりに水のデイジーに会いたいものだが」
バージルも続いて立ち上がり、ディオスに笑いかける。
「師匠には伝えておきます」
会えればね、という言葉を飲み込み、苦く答えれば、バージルは面白そうに笑い声を立てる。
「期待しないで待っているよ」
デイジーの連続欠席記録は、ゆうに3年を超えている。
おそらく、次も欠席するのは、ほぼ間違いない。