サンライズ、蝶を見る
もう一度、と彼らは言った。
「もう一度、集中して」
止めてくれ、血を吐きながら彼は叫ぶ、心の中で。
もちろん本物の血は一滴も流れていない、叫びも外には漏れてはいないだろう。
それでも
彼はずっと、血を吐き、叫び続けている。
一目散に逃げ出したいのに、逃げ出せない。縛られているわけではない、しかし、これができるようにならなければ、ここから出られない。契約と義務と責任感とで縛られた精神と肉体、逃げ出したらもう、自分には何も残されていない。
守りたいものが、守れなくなる。心から大切な人、大事に思うものたちを。
ここで耐えなければ。
「もう少しだ」
白衣の男が涙に滲んだ視界の端から語りかける。その声はくぐもって小さく、歪んでいる。
「これができなければ、アンタは死ぬんだよ。本番ならばすでに死んでいる」
脇から姿の見えない誰かがあざけるように告げる。その声も遠くの世界から届くようだ。
そんなことは分かっている、十分。お前たちに言われなくても。
目の前には被験者。幾枚もの誓約書におそるべき量の機密事項を厳守する旨を誓約させられ、この場に、彼の前に連れてこられたアルバイト学生だ。
今から彼の心に入り込み、『シェイク』を使ってある行動をさせねばならない。
元々人の心を読んでその意思を操作することは、できるはずだった……ごく自然に。
しかしそれがどうしても自身の意志で制御できない、肝心な時に。
ここに『採用』されてから通常勤務の合間に、開発部という部署に呼ばれては訓練を受け続けていたのがこの意思を読み取る『スキャニング』とそれをこちらの意のままに操作する『シェイク』だった。
通常勤務だけでも、かなりの負担となっていたのに。
彼は散漫になりがちな意識をどうやら手元に手繰り寄せ、再度、涙を拭いて目の前に座る被験者の目を覗きこむ。
二人の間に張り巡らされたコードやケーブル、それぞれから各種端末に伸びる色とりどりの線がジャマになってどうしても気が散ってしまう。
これが自在にできねば、今後この場では生きていけない、それは何度も説明されたことだった。
彼は愛する人の笑顔をふと頭に浮かべ、そのくるくると変わる表情を一瞬だけ自分の中だけで愛でると、また、深く息を吸って意識をど真中に集中させた。
先ほど、一度だけ上手くいったのだ、途中まで。目の前が落ち込むように暗くなり、男の声が響いた、心の声。
ああ、まだ時間がかかるんだろうか? 腹減ったなあ。
ややくたびれた柔らかいテノール、頭の中一杯にそれが響いたとたん、馴染みの痛みがきりりとこめかみを刺す。これをやろうとすると必ず襲われる頭痛、その前兆だ、彼はぐっと奥歯を噛みしめ、目をつぶる。
来た、頭痛がくるということは正解に近づいているということだ、よし、そのまま行け。そしてそのままシェイクだ。キーを掴め。
(……唐揚げ買って帰れば、そうだなナカマルの、いやここから帰るならトウブのデパ地下で)
これだ
「柚子胡椒風味、一〇〇グラム一四八円」
彼ははっきりと言葉を発した。相手の瞳孔が開く。
がつん、と脳天に喰らう衝撃、つい「くっ」と息を詰める、だが相手の思念パターンを完全に引っ掴んだ、白衣の連中がボードに走らせていたペンを止めて息を詰めて見守っているのが分かる。
「よく聞いて、そこから立ち上がり……赤いボタンを押して」
「ストップ!」いきなり電流が走り、「!」彼は横殴りに吹っ飛んだ。
白衣の一人が大股で近づき、彼の腕を掴んで乱暴に引き起こす。
まるで犯罪者を椅子に戻すような性急さでリクライニングシートに戻すと、乱れたケーブルを端からチェックする。
「……何を」するんだ、と言う間もなく白衣が遮る。
「先にシェイクじゃない、スキャンを! 相手の思念をちゃんと読みとってからシェイクだ、何度言えば理解できるんだ」
視界は完全に滲んでいる。ショックで掛けていたはずの眼鏡もどこかに吹っ飛んだらしい。
激しい頭痛は更に酷くなり、赤と黒とのもやが速い鼓動に併せて目の前のもの全てを覆い尽くそうとしていた。
黒い影は被験者だろうか、中途半端なシェイクを受けて、呆然とした様子で椅子に身を投げ出している。動こうともしない。
このままではまずい、廃人になる可能性もある。
「頼む」彼を、任せてくれ、実験とか訓練とかではない、彼は今、打ちのめされている、精神的に激しいショックを受けている、任せてくれれば彼の意識を修復してみせる……
そう告げようと言葉を探すが、すでに白衣の連中は目の前の男から全てのケーブルを外し、別の機械にかけようと新しく線を張り巡らしている。「アンインストールを」「まだ間に合うぞ」まるで被験者がそうなってしまったのは中途半端なシェイクをかけた彼の責任でもあるかのように、頭痛と吐き気に苦しみ椅子に沈む彼を無視するかっこうで処置を行っている。
一人がようやく、眼鏡を拾って彼に手渡した。
震える手でそれを受け取るが、顔にまで持っていけない。
「今日はここまでだ」
白衣の男の言い方は穏やかで労わるような響きだった、だが、彼にはどちらにしても同じ事だった。
できないということは、死刑宣告に等しい。
少なくとも、ここで生きていく資格はない。
「御苦労さま、サンライズ」
彼はよろめきながら、シートから立ち上がった。
汗なのか、涙なのか、すっかり濡れそぼった顔をここに通うようになってから必需品となっているタオルでよく拭いて、後も見ずに実験室を出る。
背中から追って来る声にうなずきもせず。
「明後日、同じ時間で」
聞かない振りをしても、耳に入る。そして別のつぶやきも。
「……せっかくの能力がありながら、自在に使えないとはね」
畜生。
視界に乱舞する黒い染みと、脈動とともに襲う頭痛とに苛まれながら彼は後もふり向かずに本来の仕事場に帰っていった。
そこですら、居場所はあるのかは常に不安に駆られてはいたのだが、とにかく、そこに居るしかない……しがみつくしか。
ようやく眼鏡をかけることができたのは、開発部棟の外、少しいったあたりだった。
目の前に落ちていた黒い何かを踏みそうになり、ようやく足を止める。
蝶だった。カラスアゲハのようだ。
すでに翅は朽ち、命は終わろうとしている。
「お前は」何かをしてきたのだろうか? この輝ける世界で。
踏み潰してやろうと思った、ひと思いに。
しかし、彼にはどうしてもそれができなかった。