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蝶は嵐を起こす 弥勒の決死圏シリーズ#01  作者: 柿ノ木コジロー
第三章・意味不明なるシヴァ
13/38

01

 九月のバンコク。国際空港から一歩出るなり、いきなりものすごい雨で迎えられた。


「原子核反応に見られる複雑性と単純性、これを量子カオス論という観点から説明することが私の近年の課題です、しかし、カオス理論を物理の世界で実際に応用できるか、という難問は依然、私どもの前に……」

 ボビーはさっそく風呂に浸かりながらブツブツと練習している。

 一番の難関であった撮影はすでに日本で完了していた。

 会場には風邪で声の出ないオバサンとして参加するので、もうこんなにしち面倒くさいセリフは必要ないのだが、それでも雰囲気だけはいつも身につけていなくてはならない。


 カオスって何よ、セリフを復唱しながらもボビーは心の中で文句をたれている。

 混沌はあくまでも混沌よ。理屈で説明できないから、混沌なんじゃあないの?

 一匹の蝶が羽ばたいただけで、竜巻が起こったり消えたり? まるでファンタジーの世界。

 私たちのチームをごらんなさいよ、こんなバラバラな連中があちこち駆けずりまわって準備して、一つの成果を出そうとジタバタあがいている。蝶よりずっと働いているのに、そよ風ひとつ、起こせないじゃない。成功するかも分からないし。


 ボビーが風呂から上がった時ちょうど、シヴァが外から帰ってきた。

 野球帽を目深にかぶった頭から服からすっかり濡れそぼって、入り口のマットにぽたぽたとしずくを落としている。

「どこ行ってたの」

「買い物」透明なビニールの袋を抱えていたが、どさりとテーブルの上に置く。

 ガラクタのような基板やら部品がごちゃごちゃに入っていた。雨水も入り込んでいる。

「機械なのに、濡れていいの?」

「ちゃんと乾かせばね」

 返事しながらも、すでに彼は目の前のガラクタに夢中になっていた。ボビーは小さくため息。

「とにかく、先にシャワー浴びた方がいいわ」

 くしゅん、と小さなくしゃみを聞いてとりあえず言ってみる。

 彼ら二人は、すでに学会の関係者として王宮に近いオリエンタルパレスにチェックインしていた。身柄を確保しようとしている博士が滞在するはずのホテル・リバーサイドガーデンとは、三ブロックしか離れていない。

 当の博士はまだ入国していないが、シヴァがこんなに付近を歩きまわっているようでは、先に関係者に見つかってしまわないだろうか?

 案の定、少ししてから部屋の電話が鳴った。

 出ると、彼らの隣のセントラルホテルにいるサンライズ・リーダーからだった。

 バックヤードの作戦拠点として、リーダーはキタノやカンナと共に、並んで建つ別ホテルの一室に陣取っていた。

「シヴァいるか?」

 機嫌が悪そうだ。

 ボビーがみると、シヴァはちょうど風呂場に入ってしまった。

「今シャワー使ってるけど、何か伝える?」

「現地連絡員から今聞いたが、ヤツ、リバーサイドガーデンに入って行ってフロントに尋ねたそうだ」

「えっ?」


 デニス・ミシュラーがここに泊まるって聞いたけど、本当? いつ来るの? 部屋はどこ?


「まだ発信器をつけてないから、連絡員に見張らせていた。それでいきなりこれだ」

「あら……近づかないように言ってあったのに……」


 どういうことだろう、シヴァったら。


「オレも伝えたはずだが……まあいい、彼が風呂から出たら電話をよこすように言ってくれ、再度話すから」

 電話を切ってから、テーブルの上に積まれた部品の山と、バスルームの方を交互にみる。

 テーブルの上にはすでに、水がたまり始めていた。

 やはり、どう見ても成功するとは思えない……ボビーは腕組みのまま徐々に大きくなる水たまりを見つめ、大きく息をついた。


 シヴァが電話を入れる前に、リーダーが彼らの部屋に訪ねてきた。

 部屋の入口に立ち、中でコーラを飲んでいたシヴァを呼ぶと

「隣の部屋に来い」くい、と手まねきする。

 意外にも、シヴァはコーラの瓶を置いて、黙ってついて行った。


 しばらくたってから、シヴァが一人で戻ってきた。

「どうだった?」

 ボビーが聞くと、シヴァはコーラの続きを飲みながらテレビを点けた。

「どうって、別に」

 テレビはちょうど、日本のアニメを放映していた。タイ語なのでボビーにも何を言っているのか一言もわからない。

「怒られたんでしょう?」

 え? ってな顔をしてシヴァが言った。

「リーダーに教えてもらったよ。デニスは今週末の金曜にチェックイン。部屋は2112」

 拍子抜けしたボビー、「あ、そう」としか答えようがない。

「ああそれから」全然こたえていないようにシヴァが付け足した。

「オマエは指示があるまでガイシュツキンシだって」


   やっぱり、そのくらいは言ってくれないと。


「『外に出るのは自由だ』って言ったら」


   そしてやっぱり、この子は言う事聞かないんだ。


「ならば出ていいって」


 もう、何ていい加減なリーダーなの、ため息をつきかけたボビーの方に、くるりと向き直ってシヴァが言う。

「その代わり、女の子に変装して出ろってさ。ねえ、変装の仕方を教えてよ」


 デニス・ミシュラー博士は彼らの掴んだ情報通り、金曜の午後にリバーサイドにチェックイン。さっそく、タイのテレビ局が取材に入っていた。

 シヴァは結局、少女に化けることもなく、週末はおとなしくホテル内で過ごしていた。



 国際シンポジウムは予定通り始まった。

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