ベック・センジアート
自宅兼研究所だった建物は、深い森の中に身を隠すようにぽつんと建っていた。
ルーシアにとって森の中は、まるで広い庭であり、贅沢な遊び場だった。 虫を追ったり、木に登ったり、体力を身に付けるには充分すぎる場所だった。 いつも一人だったが、寂しいと思ったことはなかった。 毎日が楽しかったからだ。
だが今は、どこか心細さを感じる。 いつもは心を和ませていた鳥の鳴き声も、物憂げに響いているように思う。
しばらく歩いていると、モーリスは
「まず寄って行きたい所がある」
と進路を変えた。 ルーシアも直感で向かう場所が分かった。 モーリスが言わなければ、ルーシアが言うところだった。
二人が寄って行きたかった場所は、モーリスの妻であり、ルーシアの母ファーレンの墓だった。
月命日には、必ず二人で墓参りをするのが当たり前だった。 ついこの間来たばかりのファーレンの墓には、まだ鮮やかな色を残している花が残っていた。 森の中に、一際静かな空気が流れていた。
二人はいつもの様に、小高く盛られた墓の前にひざまずくと、手を組んで祈りを捧げた。
「ファーレン、私はルーシアと共に、少し遠くへ行かなくてはならなくなった。 しばらくここへは来れないが、必ずまた来る。 それまで、待っていてくれ」
モーリスは墓に言い聞かせるようにゆっくりと言い、静かに目を開けた。 そして横にひざまずくルーシアを見ると
「さあ、行こうか」
と立ち上がった。
「どこへ行こうとしているのです? ランダ・ド・モーリス所長?」
背後から掛けられた静かな声に驚いたモーリスは、弾けるように振り返り、ルーシアをかばう様に身構えた。
「ベック・センジアート! お前!」
「あなたに『お前』などと呼ばれる筋合いはありませんよ、モーリス所長」
センジアートは静かに答え、銀縁眼鏡をクイッと上げて微笑んだ。 その両側には、三人の男たちが並んでいる。 さっきの男たちと同じ黒いスーツに黒いサングラスをしている。 ルーシアは、一抹の不安を覚えた。
「所長と呼ぶな! 私の研究はもう、終わったんだ」
モーリスは低い声で言いながら、センジアートを睨んだ。
「お前のせいでな」
ソレを聞いて、センジアートは小さく笑った。 我関せずといった風に鼻を鳴らすと、手を腰に当てた。
「では、所長とは呼ばないことにしましょう。 これからあなたは、僕の下で働いてもらうことになるんですから。 さあ、行きましょうか」
センジアートが指を鳴らすと、周りに立っていた男たちがモーリスたちに近づいた。 その手には銃が握られている。
「センジアート。 私はお前の言う通りには動かん。 お前がそんな黒い腹をしていたとは、正直がっかりした! 私は、ルーシアと共に、自由に生きる!」
モーリスは少し後ずさりをしながら、ルーシアをその背中で守っていた。
「ふふん。 果たしてそれは、ルーシアの幸せといえますかねぇ?」
センジアートは再び鼻を鳴らした。
ルーシアは父の背の後ろでずっと話を聞いていたが、二人の会話の意味が理解出来ないでいた。
そもそもベック・センジアートという男、モーリスの研究所で昔から働きながら勉強をしていた誠実な研究者だったはずだ。
当然、ルーシアもよく知っている人物。
モーリスについて研究のアシストをしながら、他の研究者たちと仲良く過ごしていた。 いつも一人で遊んでいたルーシアに
「たまには勉強も必要ですよ」
と勉強を教えてくれたのもセンジアートだった。 彼の教え方は上手く、机の前にじっとしていられないルーシアに、丁寧に楽しく教えてくれた。
何人かいた研究者たちの中で、一番好きだったのもセンジアートだった。
だがあの優しかった横顔は、今やその破片すらも消え、醜く歪んだあくどい顔になっていた。
「何故……?」
ルーシアには何故父とセンジアートが対峙しているのか、まだ理解できないでいた。
センジアートは、モーリスの後ろに居るルーシアを覗き込むように言った。
「ルーシア。 君はまだ知らないんだね。 いや、知らないほうがいいのかもしれない。 けれど、このままだったら君は確実に不幸になってしまうと、僕は思うんだ。 これは、君を救うためにやっていることなんだ。 何も怖がることはない」
「えっ?」
「やめろ! この子には関係ない!」
モーリスの悲痛な叫びに、センジアートは甲高く笑い声を上げた。
「笑止! 何を言っているんですか? ルーシアが一番関係しているというのに。 やはりあなたは彼女に、死ぬまで話さないつもりなのですね?」
「…………」
モーリスは口を閉じ、センジアートを睨むように見つめていた。 ルーシアは二人を交互に見比べながら、この状況をつかみきれないでいた。
『お父さんとセンジアートは一体、何の話をしているの?』
「さあ、こんな所で話をしても始まりません。 続きはゆっくりと僕の研究所でしましょう。 さあ」
センジアートが手下の男たちに指図すると、彼らは言われるがままにつかつかとモーリスとルーシアに近づいてきた。
パーーーーン!
「なに!」
突然の銃声に、センジアートの手下たちがひるんだ。 モーリスが、さっき拾った銃を空に向かって撃ったのだ。 銃声に驚いた森の鳥たちが一斉に飛び立っていく音が降り注ぐ中、モーリスはセンジアートへと銃口を向けた。
「次は貴様だ! これ以上へんな真似をしたら、撃つ!」
「ふふ……」
センジアートは余裕をたたえて口角を上げた。
「モーリスさん、そんな震えた手に僕を撃ち抜く度胸があるとは思えませんね。 さあお前達、二人を連行しなさい!」
改めてセンジアートの指示を受け、男たちは自分たちの銃をモーリスに構えながら近づき始めた。
「く……来るな!」
モーリスは震えている体をおして、もう一度引鉄に指をかけた。
パーーンッ!
「うわっ!」
慌てて足を上げる男たちの足元に土煙が舞った。 モーリスは後ろで小さくなって耳を塞いでいるルーシアに、視線を送った。
「ルーシア! 今のうちに逃げなさい!」
「で、でも父さんは?」
「私は大丈夫。 すぐに追いつくよ。 ルーシア、生きなさい……私の愛する娘よ」
「父さん?」
「さあ、早く!」
モーリスの叫びに、ルーシアは唇を噛んだ。 選択している場合ではないことが、ルーシアにも分かっていた。
「くっ!」
ルーシアは素早く立ち上がると、走り始めた。 見送るモーリスの瞳には、熱い願いがこもっていた。 それを無駄にしまいと、ルーシアは木々の間を走り抜けた。
パン、パーーンッ!
後ろで、発砲する音が数発聞こえてきた。
「父さんっ!」
振り向いたルーシアに、父の姿は見えるはずがなかった。 木々の間に、銃声の名残が響いていた。
『早く行きなさい!』
モーリスの声が聞こえた気がした。 ルーシアは身を切る思いで背中を向け、再び走りはじめた。
――――