Mr.ハラスメント
俺は、ハラスメントが嫌いだ。
いや、正確に言えば、ハラスメントという言葉が嫌いだった。
昔なら冗談で済んだことに、いちいち名前がつけられる。
例えば、部下に「根性が足りない」と言えばパワハラ。
女性社員に「見た目がいいから得だな」と言えばセクハラ。
家庭で妻に「女なんだから気を利かせろ」と言えばモラハラ。
酒を強引に勧めればアルハラ。
そのうち呼吸しただけで、ブレスハラスメントとでも呼ばれるんじゃないか。
「まったく、息苦しい世の中だ。お前らもそうは思わんか?」
そう愚痴をこぼす俺に、部下たちは曖昧に笑うだけ。
少し離れた席では、若い連中が楽しそうに談笑している。
俺が近づくと、不思議なくらい静かになる。
最近の若者は、上司との付き合い方すら知らんらしい。
妻は露骨にため息をつき、子供たちは目も合わせない。
会社の連中が、陰で俺を「Mr.ハラスメント」と呼んでいることも知っている。
上等だ。
そんなある日、社内通知が届いた。
《ハラスメント防止研修・受講対象者》
もうこの《対象者》という書き方が気に食わない。
まるで俺に問題があるみたいじゃないか。
いっそ人事部に抗議しようとしたが、欠席すれば社内評価に響くらしい。
仕方なく受講することにした。
会場には、他部署や別会社から集められた、百人を超える受講者がいた。
開始時刻となり、席に着く。
講師はやけに穏やかな声の男だった。
「ハラスメントは、相手がどう受け取るかが重要です」
でたよ、またそれか。
受け取る側が勝手に傷ついたら、何でも加害者にされる時代だ。
俺は腕を組み、適当に聞き流した。
「では、ここから体験型研修を行っていただきます」
机の上に、黒いゴーグルが置かれた。
話を聞くと、最新式のVR機器らしい。
装着すると、視界が暗くなった。
こりゃあちょうどいいや。
俺は目を閉じ、そのまま眠った。
*
肩を揺すられ、目を覚ます。
「本日はお疲れさまでございました。研修は以上となります」
講師の声だった。
俺はゴーグルを外し、欠伸をしながら会場を後にした。
……何も覚えていない。
それどころか、久々の快眠だった。
まぁ、参加したという実績は残したんだから気にする必要はない。
帰宅すると、妻が夕食を並べていた。
「今日は遅かったわね」
「お前に関係ないだろ。おい、ビールはどうした」
「はい、しっかりと冷やしておいたわよ」
「え?……あぁ」
少し拍子抜けした。
いつもなら、しかめっ面で口も利かないのに、今日は満面の笑顔。
なんかいいことでもあったか?
食卓では、息子がスマートフォンでゲームをしていた。
「食事中くらいスマホを置け。そんなだから頭も目も悪くなるんだ」
「ごめんなさい、気を付けるよ」
素直にスマホを伏せ、笑顔で食事を始める。
ふと息子の隣を見ると、娘の髪形がまた変わっていた。
「なんだぁその髪は。全然似合ってないぞ」
「やっぱりかぁ。教えてくれてありがとう、お父さん」
娘は嬉しそうに笑った。
妻も息子も娘も、嫌な顔ひとつしない。
それどころか、俺の言葉をありがたがっているように見えた。
翌朝、会社でも同じようなことが起きた。
挨拶の声が小さいと部下に怒鳴っても、深々と頭を下げる。
「部長に叱っていただけて、光栄です」
書類の不備を見つけ、担当者を全員の前で問い詰めても、周囲は笑顔で拍手した。
「さすが部長。勉強になります」
俺は確信した。
やっと世界が正しくなったのだ。
俺が変わったんじゃない。
周囲の人間が、ハラスメントなんてくだらないと、やっと分かったに違いない。
それから俺は、遠慮をやめた。
気に入らない部下は気分のままに怒鳴った。
女性社員には触り、絡み倒した。
部下にはガンガン酒を勧めて、昔の武勇伝を聞かせてまわった。
店員の小さなミスには、怒鳴り声をあげて叱り倒した。
家ではソファから動かず、妻を顎でこき使った。
それでも皆笑い、感謝される。
最高だった。
——最初の一週間は。
十日もすると、奇妙な物足りなさを感じ始めた。
会社でも、家庭でも、誰も俺を拒絶しなかった。
怒鳴れば感謝される。
侮辱しても笑顔を返される。
ハラスメントなんて誰も言ってこない。
それは俺が望んでいた世界のはずだった。
だがなんか違う。
手応えが全くないのだ。
やつら一体どうしたんだ。
そうじゃないだろう。
いや、待てよ。
もしかして……皆で俺を罠に嵌めようとしているのか?
「まさか……ハラスメントの証拠を集めて訴える気なのか?」
そう考えると、不思議といろいろ合点がいった。
「ふざけやがって! そうはいかんぞ!」
そっちがそう来るなら、こっちにも考えがある。
ハハ、悔しそうなやつらの顔が目に浮かぶな。
次の日、唐突に部下を褒めてみた。
「おい、昨日の資料、よくできていたじゃないか」
「は? 一体どうしたんですか、部長」
その瞬間、部下の笑顔が消えた。
俺の疑念が確信に変わった。
「上司としてたまには褒めてやらんとな。当たり前のことだろ?」
思い通りにはならんぞ、といった感じで答えた。
「体調、悪いんですか? 最近特に寒いので、部長も気を付けてくださいね」
「ん? おぉ……ありがとな」
困った顔を見たかったのだが、本気で心配された。
どういうことだ。
まさかこいつらは本当に――これを望んでいるのか?
狼狽えていると、周囲の社員が集まってきた。
「部長、遅刻しました。早くみんなの前で問い詰めてください」
「ねぇ、部長。今日の服どう? いつもみたいに触ってくださいよ」
俺は気味が悪くなり、早退の旨を伝えて逃げるように会社を出た。
最寄り駅前で部下と遭遇する。
「あ、部長! 今日も飲みに連れてってくださいよぉ。また昔の武勇伝聞き——」
全部聞く前に逃げた。
あいつも駄目だ。
「な、なんなんだよ一体!」
仕方なく家に帰ると、妻が玄関で待っていた。
「今日は早いのね。どうかしたの?」
「あぁ……、実はな——」
妻に話そうとすると、子供たちが玄関に走って来た。
「お父さん。ほら、廊下も走ったし、僕、今日も悪い子だろ?」
「私たち、お父さんを待ってたんだよ」
思わず身体が震えた。
「今日はどうしたの? あなたらしくないわね」
家族全員が笑っている。
勢いよく玄関を飛び出した。
とりあえず近くのレストランへ入る。
「いらっしゃいませ。あ、いつもご指摘ありがとうござ——」
俺は飛び出した。
冷や汗が止まらない。
あたりを見回すと、街中を歩く人々が俺を見ていた。
全員が笑っていた。
「うわあぁぁ……やめろ!やめろぉぉぉ!」
人目につかない場所まで駆けだした。
肺が痛い。
「違う……」
頭を抱え、その場にうずくまる。
笑ってほしいんじゃない。
言うことを聞いてほしかったんじゃない。
じゃあ俺はなんだ?
悔しがられたかったのか?
怯えられたかったのか?
「……いや、違うな」
ようやく気付いた。
「俺は……、ずっと怖かったんだ」
馬鹿にされてるんじゃないか。
笑われているんじゃないか。
そんなことばかり考えていた。
だから自分を大きく見せようとした。
相手を小さくすれば、自分が大きくなった気がした
。
「くだらないプライドで……」
とにかく威張り続けた。
虚勢を張り続けた。
その結果がこのザマだ。
……俺、中身空っぽじゃねぇか。
「すまん……みんな、すまなかった」
——研修終了条件を満たしました——
「……な、なんだ?」
「ご自身で気づかれたようで何よりです。これにて研修は終了ですね」
どこからか声が響いて、急に視界が暗転した。
*
目を開けると、俺は研修室の椅子に座っていた。
黒いゴーグルが、目元を覆っている。
講師がゆっくりと外してくれた。
周りを見ると、まだ何人か座っていた。
時計を見る。
現実では、まだ三時間しか経っていなかった。
「いかがでしたか。あなたの望んでいた世界は」
講師の声は、研修前と変わらず穏やかだった。
俺は文句も言い返せないほど憔悴していた。
「あなたが体験した仮想世界は、こちらですべてモニタリングしていました」
最悪の気分だった。
あの無様な様子を見られていたなんて。
「またお会いすることがないように祈っております。お疲れさまでございました」
ふらふらと外に出る。
冬の風がやけに体に染みた。
「……たまには、土産でも買っていくか」
帰り道、駅前のケーキ屋に寄った。
妻と子供たちのために手当たり次第に選ぶ。
「ただいま」
何年ぶりに言っただろうか。
妻が出迎えたので、ケーキの箱を見せる。
「おかえり。あら、どうしたの? お土産なんて珍しい」
「いや、たまには良いかなと思って。いつもすまんな」
妻はきょとんとして俺を見た。
「今日はどうしたの? あなたらしくないわね」
その言葉に思わず震えた。
まさか、ここはまだ——
「でも嬉しい。ありがとうね。ご飯の後で一緒に食べましょうよ」
「あ……、あぁ、そうしよう」
妻の笑顔に荒んだ心が洗われるようだった。
「あ、今日の皿洗いは俺がやるよ」
「ほんとに? どうしたの? 浮気でもしてんの?」
「ち、違うよ……」
散々な言われようだが仕方ない。
Mr.ハラスメントの称号が外れるのは、もう少し先の話になりそうだ。




