◆七 琴の音に
『極秘!奏和国華族の醜聞 ——東宮寺・西城院両家、密通の噂。音霊術の悪用か。新術式を独占?』
そんな言葉が、太い字で印刷されていた。
「近頃、東宮寺公爵家が嫡男、恵風殿と西城院公爵家長女、潤花嬢が“密かに逢瀬を重ねている” との噂が急速に広がっている。しかもその仲はすでに深く、学園内の練習室に人払いをした状態で長時間二人きりでいたとの目撃談が複数。
その裏では、両家が水面下で密談を重ね、『音霊術を悪用し平民を私利私欲に操る計画』を結んでいるとの情報もある。
あろうことか両家がこの術を隠蔽し、“自家の影響力を拡大するため政界に働きかけている”との証言もある。これは、戦時下の我が国を揺るがす重大な背信行為である。
――奏和国を思う有志一同」
ビラの文章には、あり得ぬ憶測とおびただしい悪意が混ざっていた。
「なんだ、これは……!」
「おい、そこの者を取り押さえろ!」
怒号とともに数名の警備兵が走り出し、桂蘭館の外を走る黒ずくめの男を押し倒した。ただならぬ音が響き、男はそのまま引きずられていく。
だが、ビラに書かれた内容の衝撃は消えない。無数の視線が恵風と潤花に向けられていた。
会場の混乱は急速に広まっていく。
「……潤花!」
そんな時、怒声が大広間を震わせる。席を外していた潤花の父が、数名の役人を押し分けるようにして中央へ姿を現した。その顔は、怒りで朱を通り越し、蒼さえ帯びて見える。
「これはどういうことだ!」
ビラを握りしめた潤花の父が歩み寄るたび、紅絨毯が揺れるように感じられた。潤花は震える足を押しとどめ、恵風の横へ出る。
——いけない、否定しないと……!
「お、お父様……わ、私が東宮寺の者となど……!」
震える声を遮るように、恵風が一歩前へ出た。着ている黒の燕尾服の裾が揺れる。
「俺から彼女に言い寄りました。以前より個人的にお慕いし……」
次の瞬間、乾いた衝撃音が大広間中に響いた。
勢いよく恵風は紅い絨毯へ倒れ込む。彼を殴ったのは、紛れもなく潤花の父だった。
「恵風っ!」
潤花は反射的にひざをつき、恵風の肩を抱き寄せた。あまりにも耐えがたい光景に、目の前がぐらりと揺れる。だが、潤花は唇を噛み締め真っ直ぐに父を見据えた。
「治癒魔法を扱う西城院家の者が……っ、個人的な感情で暴力を振るうなど……!恥ずべき振る舞いです!」
潤花の声は震えながらも鋭く、父を真っ向から射抜いた。大広間の空気がさらに凍りつく。
「黙れ、潤花!お前は……本日をもって無期限の謹慎だ!」
間髪入れず振り下ろされたその言葉に、潤花の息が止まった。涙がにじみそうになるのを、必死に噛みしめて堪える。
恵風の父も駆け寄り、怒りのまま息子を見下ろした。
「恵風……お前もだ!よりにもよって西城院家の女に誑かされるなど!恥を知れ!」
叱責の言葉は冷たく、恵風の胸を深く抉った。
その時である。
大広間の扉が勢いよく開いた。
◇
「失礼いたします!至急の報せにて……!」
軍服を着た役人が蒼い顔で駆け込んできた。その空気だけで、ただ事でないと誰もが悟った。
「何事だ!」
「カルディア帝国軍が……南港付近からに急襲上陸。すでに帝都へと進軍しているとの情報あり!!!」
誰かの手からグラスが落ち、砕ける音が虚ろに響く。
「海軍は何をしている!」
恵風の父が役人に詰め寄った。
「海軍の常駐班が応戦中です。陸軍はもう向かっていますが、このままでは二日ほどで帝都へ到達する恐れが……」
「帝国へ出兵した軍も呼び戻せ!こちらが優先だ!」
潤花の父だけでなく、軍と関わり合いのある華族が役人の元へ集まり始める。
「既に。ですが距離があり、間に合うか……」
怒号と報告が交錯し、大広間は混乱の渦と化した。潤花の父は深く息を吸い、拳を握り込んだ。
「仕方ない……私も南港へ出る」
恵風の父もすぐさま前に出た。
「俺も行く。……うちの弟子で残っている者はどれだけいる?」
「二十名程でございます」
侍従が答える声は震えていた。恵風はよろめきながら立ち上がり、父の前に出た。
「俺も出ます。一人でも多い方が良いでしょう」
「わ、私も野戦病院で治癒にあたります」
潤花の声はか細いが、芯は折れていない。
「お前たちは謹慎だと言っただろう!」
父二人の声が重なって響いた。まるで重石のように、若い二人の胸を押し潰した。潤花は唇を噛み、父へ強く一歩踏み出す。
「おかしいと思われませんか……? 諸国軍の上陸直前に、あのようなビラが撒かれるなど。音霊術の悪用などという噂で、国内の術者の動きを封じる意図があったのかもしれません!」
一瞬、父の目が揺れた。恵風も続く。
「前線で戦う者がいるというのに何もせず見ているだけなど、華族のすることではありません!」
「……聞けん。謹慎は謹慎だ」
潤花の父も、恵風の父も、目を伏せるようにしてそう言い残した。そして他の家々の父兄とともに、急ぎ足で桂蘭館を去っていった。
扉が閉まる乾いた音が、大広間にいつまでも残っていた。
◇
雅律会は急きょ中断となり、大広間は急速に人の気配を失っていった。
潤花は父に命じられた侍従により寮へ戻され、そのまま自室に押し込められた形となった。部屋の襖一枚隔てた廊下には侍従が二人、無言で立ち番をしている。
その気配が畳に重く沈み、逃れる道を塞いでいた。
——恵風……
先ほどの広間での出来事が脳裏に焼きついて離れない。侍従の影がそわそわと動く音に耳を澄ませながら、潤花は布団に座したまま、拳を膝の上で固く握った。
その時、部屋の襖を小さく叩く気配がした。侍従が一瞬だけざわつき、襖を僅かに開けて低い声で言った。
「潤花様、北御門家のお嬢様が」
じわりと胸が高鳴る。開かれた襖越しに小春の姿が見え、その背に夜の光が溶け込んでいた。彼女はどこか、難しい顔をしていた。
「入っていただいて構わないわ。短く済ませますから」
侍従は逡巡したが、やがて襖が開かれた。
「潤花」
小春がそっと入り、襖が閉ざされる。彼女はうぐいす色の着物の袂から小さな紙を取り出し、潤花へ差し出した。
「恵風くんから。弦英と華乃、それから私を経由して、ようやくここまで来たの」
息が止まる。震える指で受け取り、慎重に和紙を開く。筆跡は、恵風の、あの整った真面目な書きぶりだった。
『夕ぐれの かがり火ゆらぐ 松風に
いのちのかぎり 君にまた逢う』
読み終えた瞬間、潤花の胸の奥に熱いものが一気に満ちあふれた。
「まさか、前線に……?」
「ええ。つい先程ね。弦英と華乃、それから他の生徒の有志も数名、後を追うって。裏門に集合しているそうよ。私は立場上、残らなきゃだけど」
小春は瑞奏親王の婚約者であるため、前線に出ることはできないそうだ。
潤花は、琴爪の入った牡丹柄の琴入れへと視線を向けた。桃色の牡丹が夜灯に照らされ、淡く呼吸するように浮かび上がる。
「私も……行くわ。行かなくては……!」
決意が声となってこぼれた。小春の瞳が驚きよりも早く、覚悟を受け止めて深く光った。
「わかったわ」
小春はそっと襖へ歩み寄り、そっと隙間から廊下を覗き見る。
「西城院家の侍従は二人とも真面目すぎて、気配の変化に敏いみたいね。でも……」
くるりと振り返り、小春は悪戯めいた笑みを浮かべた。
「少しの間なら、私が気を引いておけるわ」
潤花は大きく息を吸い、琴爪入れを握った。蝶番の金具がかすかに鳴った。
「お願い、小春」
「任せて。はい、これ」
小春は再び袂から結ばれた細い長縄を取り出した。
「これ、どうしたの……?」
「ある人に協力してもらってね。さ、早く」
小春が廊下へ出ると、すぐに侍従たちへ声を掛ける。
潤花はその隙に縄を机の脚に括り付け、窓を開けて外へ投げた。潤花の部屋は女子寮の二階にある。十分な長さだった。
袂に琴爪入れを仕舞い、靴を履いて窓枠に足を掛ける。縄を掴み足を壁に伝わせて降りてゆくと、あまり時間を使わずに地面に足が着いた。
夜気が頬を刺し、潤花は走り出した。木々のざわめき、遠ざかる侍従の声。すべてを背に残し、音楽堂へ。
楽器庫は暗く、油の匂いと木の香が混ざり合っていた。琴入れの胴に手を触れた瞬間、まるで愛しい者の名を呼ばれるように胸がしんと温かくなる。
「恵風……」
琴を抱え、裏門へ走る。月が高く、石畳を白く照らしていた。




