◆五 はかなくて
一か月後。
授業が終わり、女子高等科二年一組教室には夕陽が射し込んでいた。西洋式の硝子窓から入る光が磨かれた木机の面を薄く照らし、室内には金の埃が舞っている。
清掃当番で机を片づけていた潤花のもとへ、ひょいと顔を覗かせたのは華乃だった。彼女は箒を片手に持っている。今日は華乃と潤花が清掃当番の日である。
淡い藤色の着物に、白いレースの付け襟を合わせた洋風を取り入れた装いが彼女らしい。
「ねえ、潤花。最近……なんだか明るいわね?」
潤花は一瞬手を止め、華乃を見る。彼女は変わらず純粋な目で潤花を見つめている。最近の彼女は、公爵家の人間になった実感がようやく沸いたのか、砕けた口調で潤花に接している。潤花はそれが嬉しくもあったが、その目に宿る含みに、どこか不安を覚えた。
「そ、そうかしら?」
潤花が動かした机のあった場所を、華乃が箒をかけていく。
「そうよ。なんというか……表情が柔らかいの。ねえ、お聞きになって?恋をすると女性の顔つきって変わるらしいわ」
「は、華乃?」
潤花はわずかに語尾が上ずった。持ち上げていた机を、危うく落としてしまいそうになる。そんな様子に華乃が「ほら」と笑う。けれど、これ以上話を続けられるのは困る。
「雅律会が近いからじゃないかしら」
一年に一回行われる雅律院学園の一大行事、雅律会。学園内にある西欧文化の社交場を模した洋館、桂蘭館に、生徒とその父兄が集まり、交流をする催しだ。
潤花たちは、そこで演奏をする予定があった。今年は、演奏に合わせて一学年上の皇族・瑞奏親王が舞を舞う。皇族の舞と共に演奏することも、それを華族や宮家が揃う場で披露できることは、二度とない名誉なことだ。
「ええ?……また私の勘違い?」
「そうよ。……恋なんて、どうせ家のための結婚が待っているのよ」
潤花は最後の机を戻し、華乃はゴミを捨てて箒を用具入れに戻した。彼女は用具入れの扉を閉めると、そのまま振り返らずに留まった。
「恋愛の先に結婚があるとは、思わない?」
その言葉に、潤花はハッと顔を上げた。だが、すぐに胸がチクリと痛む。確かに、華乃は弦英との恋愛の末に結婚した。
「……考えたこともないわね。ああそうだ、私図書館で調べ物があったの。それじゃあね」
潤花は軽く会釈し、学生鞄を持って逃げるように教室を出た。
◇
雅律院学園の書庫、錦繡館は夕刻前の時間帯は人が少ない。
階段を上り、潤花は二階の静かな書架の間へ足を運んだ。窓の向こうには夕暮れの薄紫が広がっている。背表紙に手を添えながら、ふと反対側から近づいてくる気配に気づいた。
恵風だ。
本棚を挟んで、互いに姿は見えない。けれど、すぐそこに彼の気配がある。彼が本のない隙間にそっと手を置くのがわかった。
その手に、潤花はそっと自分の手を重ねた。二人の手が本棚越しに触れ合う。互いに顔は見えない。
「久方ぶりだな」
恵風の低い声が本棚越しに微かに響き、彼の指がほんのわずかに潤花の指を撫でた。その仕草だけで、心臓がずくりと跳ねてしまう。
「ええ、そうね」
図書館の中は静謐で、音楽堂から聞こえる合唱の音が上手く声をかき消していた。硝子窓から揺れる光が棚に落ち、恵風の影がすこし揺れた。
「……戦況は聞いたか」
「ええ。やや有利とはいえ、予断を許さない状態なのでしょう」
「そうだ。議会でも揉めている。俺の家は……あの通りだしな」
東宮寺家はさらなる進軍を主張している。潤花の胸は、重く沈んだ。
「……あの新しい音霊術、何か活用できないかしら。そうすれば、もっと……」
「使えたらいいが、実現の余裕はないだろうな」
戦時中は何事にも余裕がない。この新しい音霊術が実戦に即した術になるかどうかも分からない。二人は手を繋いだまま、しばし沈黙した。
弦英たちを呼び出した日から、ひと月程が経った。音霊と、その効果の差異を確かめようにも東宮寺と西城院が一緒にいるだけでいらぬ噂が立つ。そればかりか、対立を煽られる。
「また見合いが入ったわ」
「俺もだ。そろそろ身を固める見通しを立てないと、と母様がうるさくてな」
東宮寺家も西城院家も、互いに見合いが上手くいっていないことを知っているのだろう。「先に越されるわけにはいかない」と焦る両家の思惑は、着実に二人を追い詰めていた。
「私たちの関係は……。両親や学園の皆もお認めにはならないと思うわ」
「それでも、折を見て話すしかない。戦争が終わらないことにはどうにもならないが……」
恵風が難しい顔をしているような気がした。潤花の指先が、ほんの少し震えた。その揺れを、恵風は確かに感じたのだろう。繋いでいた手が、ぐっと強く握られた。
「……潤花」
その声が、不思議なくらい熱かった。
「戦争が終わったら、祝言を挙げよう」
「え……?」
時が、止まった。そんな感覚がした。
祝言。
ずっと夢見つつも、叶えられないと思っていた言葉。潤花は、繋いだ手の向こうで頭が真っ白になるのを感じた。
——どうして……?
「祝言って……本気で言っているの?」
あの時は感情が溢れて、抑えきれずに零れ落ちてしまった。その結果、恵風は「俺でいいなら」と言ってくれた。でもそれは、潤花の気持ちを踏みにじらないための優しさだと、心の奥底で思っていた。
恵風の本心で関係を続けているのでは。本意でもないのに、操を立てるつもりなのではないか。そんな不安が、じわりと広がる。
「私、勝手に想いを伝えてしまって……その、迷惑だったんじゃ……」
隠せないほど、声が震えた。
その瞬間だった。
本棚の向こう側で、恵風の手が離れた。気配が動く。棚の向こう側から回り込んできて、潤花の手を静かに取った。
「本気じゃなければ、こうやって触れる訳がないだろう」
「ちょっ……誰か来たらどうするの」
彼の顔を、直視することができない。しかし、どこか落ち着かない焦燥感が肌に触れた。
「来い」
潤花はそのまま図書館の更に奥、人の寄りつかない古書の間へと引かれた。
◇
錦繡館の木の香りが濃い二階のそのまた裏側に古書の区画がある。滅多に人の寄りつかない細い通路で、ステンドグラスの光も入らない薄暗がりにはランプの灯だけが揺れていた。
手を引き止められるようにして立ち止まった潤花を、恵風はゆっくりと振り返る。そこまで来て彼はようやく手を離した。
薄ぼんやりとしたその空間に浮かぶ恵風の眼差しは、今まで見たどんな時よりも真っ直ぐで、熱い。彼が一歩近づいた瞬間、潤花は空気の密度が変わるのを感じた。彼の体温が、距離のないところまで迫ってくる。
ほんのりと落ち着いた香と、恵風自身の汗の匂いが混じった、この数か月ですっかり好きになった匂いが、ふわりと鼻をかすめる。
胸が、勝手にじんと熱くなった。
着物の裾がふたりの間で触れ合い、さら、と柔らかい絹の音が小さく鳴った。
「潤花」
名前を呼ぶ声は、少し掠れていた。しかし恵風は、すぐには言葉を出せなかった。喉の奥で何かがつかえるように、ぎこちない沈黙が落ちる。
沈黙の中で恵風の指先が頬に触れた。その手は驚くほどあたたかい。指の温度がじわりと肌に染み込んで、潤花は呼吸をひとつ呑み込んだ。
恵風は伏せていた目を上げると、意を決したように拳を握る。
「俺は……その、うまく言えんな。とにかく」
彼は潤花の方へまた一歩近づく。吐息が、潤花の頬にかかる。
「潤花が……」
言葉に詰まって首筋がわずかに赤くなる。
「……誰かのもとへ行くのだけは、嫌なんだ」
絞り出すような声だった。その声が、やけに近い。耳の奥に直接落ちてくるように深く響く。
顔を上げた潤花の視界いっぱいに、恵風の黒い瞳がうつる。どこか怯えるように揺れているその瞳が、潤花の視線全てを奪った。
注がれる視線に潤花は息をのむ。
くる。この数か月で、その気配を察知できるようになっていた。
恵風が、潤花の腰へ手を回した。布越しなのに、彼の体温がそのまま胸に押し寄せて、触れてくる。
「傍にいてほしいんだ」
体が近づいて、動くたび、着物と着物が擦れて音が二人の間だけに響く。彼の手が震えたまま伸ばされ、潤花の頬に触れた。
潤花が返事をしようと口を開きかけたその瞬間、恵風はおもむろに羽織を脱ぎ、潤花の頭から掛けた。
——え?
ふわりと彼の匂いに包まれ、視界はまた一段階暗くなる。暗闇に目が慣れ始めたかと思えば、恵風の顔が近づいてくる。
そのまま唇が触れた。触れ合っただけの、小さな口づけだった。けれど、潤花の視界が揺れるほどの衝撃だった。
「ちょっと、恵風……」
離れた唇を見つめたまま、恵風は浅く息を吐いた。その吐息が頬にかかって、全身がまた熱くなる。恵風の指が、潤花のうなじ近くの髪を撫でた。
「……潤花」
呼ばれるたびに、胸がきつくなる。言葉を返せない潤花の顎を、恵風はそっと持ち上げた。
「嫌か?……嫌なら、やめる」
射貫くような、熱の籠った視線に引き寄せられるように、心が決まった。潤花は恵風の袖山を掴み、ゆっくりと踵を上げた。
そのまま、ためらいなく口づけを送る。唇が触れて、押しあって、ずれ合う。自分の呼吸と彼の呼吸が入り混じって、どちらのものか分からなくなる。
恵風の手が、頬から耳の後ろへ、髪をそっとかきあげた。指先が首筋にふれた瞬間、潤花は僅かな声をあげて肩をすくめてしまう。
「……そんな反応されたら、困る」
声がかすれている。堪えているような、危うい声だ。潤花の息が荒いのを見て、恵風はそのまま額を重ねてきた。汗ばんだ肌がほんの少し触れ合って、体温がまざる。
「もっと触れたくなる。……離したくなくなる」
囁きながら、もう一度口づけてくる。唇をすべらせるたびに甘い痺れが走って、潤花の指先まで熱が落ちていく。
ようやく唇を離した後、息を整えるようにして小さく呟いた。
「祝言を挙げたいのは、形だからじゃない。こうして潤花と……生涯、同じところを見ていたいからだ」
潤花の髪にそっと触れながら言ったその声は、決意と不安が入り混じっているようだった。
「……私も。私も恵風とずっと一緒にいたい。本当は、諦めたくなんて、ない……!」
潤花の声は震えていた。その震えをそのまま抱き寄せるように、恵風は腕を強く回し、潤花を寄せた。
二人は暫くの間、そうして互いに寄り添っていた。




