◆四 見渡せば
各地での小さな紛争は終わったものの、入れ替わるようにカルディア帝国との戦争は始まった。戦況は一進一退から動かず、長期戦となる見込みだ。
放課後の音楽堂は、夕暮れの光に満たされていた。
障子越しに降り注ぐ橙の色が、廊下の長い板張りの床を斜めに染める。その一角にある第二練習室の中は広く、床は堅い栴檀の板が張られていた。
第二練習室は太鼓の音がよく響くよう、壁には厚い木板が張られ、壁際には大太鼓が並んでおり、ひんやりとした木の匂いが満ちていた。
「失礼します」
潤花は第一練習室の楽器庫から取り出した琴の袋を両手で抱えながら、ひと呼吸置いて足を踏み入れた。
後ろでは恵風が重そうに太鼓の撥を肩にかけ、無言のまま続く。襖が閉まると、ふたりきりの静寂が訪れた。
「……しばらく他の者は来ないだろう」
恵風が低く言う。普段と変わらない声音だが、いつもより少し慎重な響きがある。
「二人を呼ぶ前に、もう一度確かめておきたいわね」
潤花は薄畳を敷き、その上に琴を丁寧に置く。恵風は太鼓の前に立ち、張り詰めた皮の表面に指をふれる。
「いくぞ」
恵風が短く言い、潤花は小さく頷く。二人の視線が合う。その一瞬だけ、空気が震えたように感じた。
「——掛けまくも畏き音霊の大神よ。躍動の力となりて強さを引き出し、命を奮わせ給え。かしこみかしこみ申す——」
「——掛けまくも畏き音霊の大神よ。癒しの力となりて痛みを和らげ、命を潤し給へ。かしこみかしこみ申す——」
恵風の太く低い声と、潤花の澄んだ声が重なった。音の高さも癖も違うのに、不思議とよく馴染む。
潤花の指が琴の弦をすべり、恵風の撥が太鼓を打つと、淡い紅色の音霊と淡い青藍色の音霊がふわりと宙に浮いた。
「色……混ざったわね」
それぞれの楽器から現れた音霊はやがて引き合い、まるで半月と半月が一つの月になったように音霊の半分ずつをそれぞれの色が占めた、二色の音霊となった。
「大きいな。いつもの倍はある」
二色になった音霊は、通常の音霊よりも明らかに大きい。
音霊の効果だろうか。背筋を伸ばしたくなるような温かい力が満ちてきていた。
「身体が、軽い?」
潤花は目を見開いた。指先まで温かい。
「俺もだ。体に芯が通ったような……いつもとは違う」
恵風が自らの掌を軽く握り、開く。ただそれだけの動作が、いつもより滑らかだ。二人は顔を見合わせた。その沈黙に、言葉にできない確信が宿っている。
「それになんだか、気持ちが高揚するような……」
胸の奥がふっと熱くなるり、心臓の鼓動がいつもの演奏時とは明らかに違う速さで跳ねだす。身体の深い場所に、音霊が触れているような感覚に支配される。
「……ねえ、これ……」
「なんだか、胸が……」
言葉にできない高揚感が、じんわりと身体を満たしていく。音霊の効果なのか、二人は自然と手を伸ばしていた。
肉刺の出来た恵風の指先と潤花の琴爪の先端が、軽く触れただけのはずなのに。微かな接触が、やけに鮮烈だった。触れた指先。離そうと思っても、なぜかうまく離れない。離したくない、という思いが止めどなく溢れてくる。
「まさか、精神へも作用するのか……?」
恵風も同じように思っていることが分かり、潤花は頬がふわりと熱を帯びていくのを自覚した。恵風の呼吸も浅くなっている。
——心まで動かしてしまうなんて……
「あれっ?小春も二人に呼ばれたのか?」
「ええ。弦英も?」
突如耳に飛び込んできた声に、二人は慌てて距離を取る。間を置かず、そっと練習室の襖が開かれ、柔らかい声の北御門小春が笙を抱えて入って来た。
「ごきげんよう。二人とも」
「何だ?こんなところに呼びつけて。しかも楽器持参なんて」
南小路弦英が三味線を肩にかけ、軽い調子で笑った。
「……ん?何だか音霊大きくないか?」
「あら、本当ね。それに二色……?」
「ああ。これが二人を呼んだ理由だ」
澄ました顔で答える恵風に、小春と弦英は同時に眉を上げた。
「ふぅん……?」
「……まあ、協力してやるか」
半ば疑いながらも、二人は薄畳に正座をして楽器の調子を見る。
「呪文はいつも通りでいいのよね?」
小春が音出しを終えると、そう尋ねた。
「ええ。唱えたら、二人同時に演奏してみて」
二人は頷き合うと楽器を構えた。恵風が短剣を二人の前に置く。
「——掛けまくも畏き音霊の大神よ。剛質の力となり威力を高め、物を躍らせ給え。かしこみかしこみ申す——」
「——掛けまくも畏き音霊の大神よ。守護の力となりて侵入を阻み、衝撃を和らげ給え。かしこみかしこみ申す——」
笙の澄んだ音と三味線の鋭い音色が重なった。音に乗せて山吹色とうぐいす色の音霊が現れ、それぞれが合わさって一つの音霊になる。恵風と潤花の時と同じように色は変わったが、大きさは通常と変わらない。
「大きくは……ならないか」
ただし、音霊は山吹色とうぐいす色がしっかり二分されて光っていた。
次の瞬間、二色の音霊が短剣に吸い込まれるように集まった。恵風が短剣を取り、軽く振ると、きん、という軽快な音と共に障壁が刃先から生まれた。
小春が目を瞬く。
「使う人自身が……障壁を出せるように?」
北御門家の笙による防御魔法は、術者のみが障壁を出せることができる。そのため戦場では、兵士と共に術者が出陣し障壁を展開しなければならなかった。
「俺の対物強化と混じった、ってことか」
驚きつつも、二人の音霊は潤花と恵風の時ほど力が増していない。
「対物強化の効果自体は、普段と変わってはいなさそうだが」
「うーん……障壁の大きさも同じね」
潤花が呟くと、練習室の襖がふいに開いた。
◇
「あら、やっぱり弦英さん。あら、潤花さんたちも。練習会かしら?」
柔らかく微笑む南小路華乃が顔を出した。その顔を見た弦英は、「……もしかして」と呟いた。
「華乃、フルートを持ってきてくれ」
「え?……ええ、分かったわ」
弦英に頼まれ、華乃は一旦下がるとフルートの箱を持って再び練習室にやって来た。フルートは、数十年ほど前に西欧から流入した横笛だ。
弦英は一瞬、潤花と恵風にちらりと視線を送り、薄く笑った。
「華乃、演奏を合わせるぞ」
「え?……ええ」
華乃は小春に代わって弦英の隣に正座すると、音出しをして小さく頷いた。そして恵風は、持っていた短剣を再び二人の前に置く。
「——掛けまくも畏き音霊の大神よ。剛質の力となり威力を高め、物を躍らせ給え。かしこみかしこみ申す——」
「——掛けまくも畏き音霊の大神よ。変容の力となり姿を自在にし、物を移ろわせ給え。かしこみかしこみ申す——」
さすが夫婦だ。声の高さも間合いも寸分狂っていない。フルートの桃色の音霊と三味線の山吹色の音霊が浮かび、どん、と室内が揺れるほどの力を放った。
音霊は先ほどよりも早く近づき、色は半分ずつをしっかりと占めて輝く。その大きさは、恵風と潤花の時よりも大きい。
「こ……これは」
二色の音霊が吸い込まれ、刃が一瞬で長く、太く、そして重厚に変化した。恵風は短剣を手にし、軽く構える。華乃が柔らかく息をのむ。
「……いつもより大きくなっているわ」
「頑丈さも、長さも、俺一人の時の倍以上だ」
恵風から短剣を受け取った弦英はそれを軽く振り、満足そうに頷く。それを見つめる潤花と恵風の胸に、ひとつの疑念が浮かんだ。
なぜ彼らだけ、自分たちと同じほど大きくなるのか。どうして弦英と小春の時とでは違うのか。すると、弦英が恵風と潤花を見やった。
「……術者同士の関係が、力を左右するのかもな」
「関係?」
「どういうこと……?」
潤花と恵風が声を揃えて聞き返す。小春と華乃はきょとんとしているが、弦英だけが妙に確信めいている。
「俺たちは夫婦だろう?その、なんだ……絆の強さっていうか」
「まあ、弦英さんたら……!」
華乃は頬を赤らめ俯いたかと思えば、すぐに真顔で顔を上げた。
「……?でもお二人は、どちらかというと険悪では?」
華乃の極めて純粋な問いと視線を発していた。
「まあ、そうですけれど。他にも理由があるかもしれないじゃない。私が東宮寺家の者と絆が強いなんて……ある訳ないじゃない」
「そうだ。よりにもよって西城院家などと。……単に楽器の相性かもしれん。対物魔法同士、対人魔法同士の方が、効果が大きく出るという可能性もある。」
潤花と恵風は視線すら合わせずに答えた。
華乃は恋愛に関する嗅覚が鋭い。結婚した今でも、他の女生徒と恋愛談義に花を咲かせている。
「まあ、確かに……?こういったことは初めてですから、まだ何とも言えませんわよね」
華乃は首を傾げつつも、ゆっくりと頷いた。
——どうにか、誤魔化せたかしら……?




