◆三 逢いみての
雅律院学園の、学舎からも音楽堂からも遠い奥まった場所にある茶室、翠緑庵は普段から人気がない。昼下がりの光が障子を透かして落ちると、淡い木々の影が静謐さを茶室に与えている。
畳の香りと茂る青芝と木々の匂いの全てが混じり合い、密やかな逢瀬を守るようだった。
「……来てくれたのか」
潤花が引き戸を開けると、先に翠緑庵に来ていた恵風が本から顔を上げて出迎えた。
「ええ。授業が早く終わって。今日は予定が何もないの」
潤花は少し間を空けて、恵風の隣に腰を下ろす。
あの日から数週間。
二人はこうして学園内のあらゆる所で人目を忍び逢瀬を重ねていた。今までとは違い、二人きりで会う時間が確保されたことで、潤花は生きる世界さえも変わったような気がした。
潤花は以前にも増して彼を意識していた。気持ちを隠そうとする必要はなくなったが、その代わりに己の心を本人に知られていて、その本人と二人きりでいる事実が潤花の胸の奥をざわつかせていた。
端的に言えば、近くにいるだけで心が乱される。華族令嬢として、そんな本心はおくびにも出さないが、この心悸亢進は未来永劫続いていくと思えてくるほど、慣れる兆しは見えない。
「俺の組は午前中は自習になった」
恵風の隣に座るだけで、心臓を掴まれるような気分になって、全ての意識が彼に向いてしまう。
だが当の恵風はといえば、そんな潤花の心の揺れに何一つ気付かないようだった。彼の鈍感さもまた、未来永劫続いていくのかもしれない。
「風邪を引く」
濃紺の羽織が潤花の肩に掛かった。微かに残る恵風の体温と匂いが、背中を優しく包んでいる。
「……ありがとう」
茶室の隅では、鉄瓶の湯が小さく鳴っている。恵風が淹れたばかりの茶の香りが広がっていた。
「弦英も、ここ数日体調を崩していた」
湯呑を持ちながら恵風はぽつりと言った。
南小路弦英。四大公爵家の一つ、南小路公爵家の次男で華乃の夫だ。南小路家は三味線による音霊術で対物強化魔法を扱っている。
「華乃が大変そうにしていたわ。ここ数日休む暇もなさそうよ。陸軍の方だったかしら」
「あいつまで出ることになるとはな。帝国関係は芳しくない、か」
各地では紛争が頻発し、奏和国の北東部に位置する大国・カルディア帝国との関係は、希少資源を巡り悪化の一途を辿っていた。いつ戦争になってもおかしくない。
「議会も割れているが……父は進軍を強く望んでいる」
「東宮寺らしいわね。軍にも強硬派の勢力が台頭し始めているみたいね」
潤花は湯吞をそっと置いた。
「各地での紛争が収まらない中で戦を広げれば、今の治癒魔法では追い付かない。いずれ取り返しのつかないことになる。……父はそう言っているわ」
潤花の言葉は深く沈んだ。前に一度だけ、苛烈な戦いを繰り広げた紛争から戻って来た軍人のため、治癒魔法を扱う華族とその弟子総出で治療へ向かったことがある。
凄惨な光景だった。
一度こと切れた命は、治癒魔法では蘇生できない。心の傷も失った手足も同じだ。音霊術でどうにかできるのは傷口と打撲、骨折、毒程度だ。
「……気持ちは、理解できる。ただ……」
「ただ?」
「国を広げることでより豊かになるのなら、その力があるのなら使うべきだと思う。だが、俺だって無意味な血を流す所など見たくない」
淡々と言うその声の奥に、恵風自身の迷いが滲んでいた。潤花は指先を袖の陰に隠しながら、彼の着物をつまんだ。
「恵風。……そんな顔、しないで」
「どんな顔だ」
恵風の眉が僅かに動く。瞳は細かく揺れ動いていた。
「なんだか……放っておけない顔よ」
潤花が小さく笑うと、彼は何も言わず傍に膝を寄せた。畳が軋み、その上を擦る衣擦れの音がした。その気配に顔を上げる間もなく、青藍色の袖が肩に回された。彼はそのまま潤花の背後へ回った。
「ちょ、ちょっと恵風……!」
「寒くなってきた」
低い声が耳の後ろに落ちた。抑えた声音なのに、息遣いまでわかるほど近く潤花の鼓動が跳ねあがる。厚い羽織越しに恵風の体温が伝わり、うなじへ落ちる呼吸は微かに乱れていた。
「そう。……それなら、仕方ないわね」
回された腕の力は強くなって、潤花を引き寄せる。青藍色の生地が潤花の牡丹柄の着物に触れ、少し動くだけで絹が擦れる柔らかな音が響く。
「……そんなに可愛らしい顔をするんだな」
俯いた潤花を背後から覗き込んだ恵風は、ふとそう呟いた。
「なっ!?か、可愛いって……」
予想もしない言葉に顔を上げると、すぐ目の前に恵風がいて慌てて顔を背けた。潤花は一気に体温が上がるのを感じる。それが、なにか悪いことのように思ってしまった。
「最近、よくそう見えるんだ。何故だろうか。今まで、特段可愛らしいだとか美しいだとか、思わなかったのに」
あまりにも率直な物言いに、潤花は湧き上がる恋情の隙間から一抹の不安を覚えた。
「……今の、他の女性には、言わないで」
「え?」
「みんな、恵風のことを想ってしまうわ」
背後の胸が、くく、と小さく震えた。彼が笑っているのだと気づき、潤花の顔に熱昇った。
「言うつもりは毛頭ないが……。誰に想われたとて関係のない話だろう」
——それって……?
恵風はさらに腕を寄せた。肩に彼の指の強さが伝わる。潤花の細い腰へ、もう一方の手がそっとまわる。
「嫌か?」
「……っ……もう」
抗えなかった。長年求めていた温度や声、息遣いから匂いまでもが今、こんなにも近くにある。
潤花は恵風の腕に手を添え、脚を崩して恵風に寄りかかった。
「……ずっとこうしていたいわ」
華族令嬢らしくないその言葉に、恵風は僅かに目元を緩めた。
だが、この穏やかな午後は長く続かないと、二人は知っている。各地では紛争が頻発している。いずれ大きくなる戦の火は、すぐそこまで迫っていた。




