◆二 夢路には
第一練習室には恵風が横たわり、小さく呻き声をあげていた。頬には絆創膏が貼られ、両手首が赤く腫れ上がっていた。そのすぐ側には既に潤花の琴が用意されていた。
「意識は?」
恵風の側で応急処置を行っていた男子生徒に尋ねると、「ありますが、朦朧としています」という弱々しい声が返ってきた。
「すぐに手当てします。貴方は外へ」
「はい!」
対象へ集中的に術をかけるため、音霊術は最小単位で行うのが原則である。男子生徒が外へ出ると、潤花は琴爪をつけて心を落ち着かせる。
「——掛けまくも畏き音霊の大神よ。癒しの力となりて痛みを和らげ、命を潤し給へ。かしこみかしこみ申す——」
優しく弦を弾くと淡く色づいた音霊が、恵風を取り囲み手首や頭に沈んでいった。暫くすると強張っていた顔の緊張は緩み、ゆっくりと瞼が開かれた。
「潤花……」
「痛みは引いた?怪我なんて久しぶりね」
「寝不足だったもんで。まさか階段から落ちるとは」
昨日錦繡館でやり合った仲とは思えない穏やかな会話だ。犬猿の仲と言われる二人だが、実際の所、人の目がない時と場所であれば家同士の対立は有名無実と化していた。
幼い頃は犬猿の仲そのものだったが、学年が上がるにつれて対立する意味がないと互いに気付き始めていた。だが強硬派と穏健派の他華族の目を気にして敵対関係を演じていた。
そもそも幼稚部の頃から練習のし過ぎや他生徒との喧嘩が多く、傷を作りがちな恵風の治療を毎度潤花が引き受けていた。互いに気兼ねなく雑談が出来る数少ない相手だった。
「……何か、悩みでもあるの?」
「いや、演奏会が近いからな。少し遅くまで練習していたんだよ。弟子の一人が結婚するんで、その祝いも兼ねて。ほら、前島伯爵の紅葉さんのお相手だ」
「ああ、そうなのね」
潤花は先刻の教室での噂話を思い出した。実業家の男だったか。
「伯爵家がよく許したもんだな。かなり保守派だったのに……そういえば、潤花は婚約の予定はないのか?」
「今のところは、何も」
琴爪をつけた指先が少し震えた。恵風からその手の話題が出ることは珍しい。
「貴方こそ、見合いをことごとく断られているという噂を聞いたけれど」
「参ったもんだ。どうしてだろうか」
「……威圧感があるのよ、その目。それに、あまり笑わないでしょう?」
「よく言われる。だが笑えと言われても、困る」
——まあ、そこがいいのだけど
恵風は硬派な男だ。だが最近の女性の理想は、物腰柔らかで甘い言葉を囁く男である。もしも恵風のような男が人の目を集めるような時代であれば、潤花はこうして長く想いを拗らせなかっただろうか、と思う。
「潤花なら、すぐにでも見合いくらい成せそうなものだがな。……まさか、想う相手でもいるのか?」
彼にしては鋭い指摘に、潤花は身震いすると同時に諦念の境地に達しかけていた。自嘲の笑いが混じりながら、口から零れる。
「……ええ、いるわ。いるけれど、結婚は考えられないでしょうね」
「そんなに難儀な相手なのか?どんな男だ」
——どんな男、ね……
目の前の男を見て、すぐに逸らす。見ていては、憎まれ口を叩けない。
「鈍感で、頭は硬くて、愛想もないわね」
「……こんな事を言うのはどうかと思うが、そんな奴のどこが良いんだ?」
恵風は何も気づくことはなく首を傾げた。
——本当に……
潤花は弦を優しく弾き、生まれた音霊に指先で触れると、その手を絆創膏が貼られた恵風の頬に触れさせた。
「どうして貴方なんか……」
瞬きをすると涙が零れ、頬を伝った。霞んだ視界の中でも恵風が呆然としているのが分かった。
言ってしまった。なんだかんだと先延ばしにしていたけれど、これで長い長い片想いは終わりだ。そう思うと、鼻の奥がツンと痛くなる。
「…………は?」
「さ、もうすぐ授業が始まるわね。私はもう行くけれど、貴方はしばらくここで……」
耳の辺りが熱くなるのを感じる。潤花は一刻も早くこの場を去りたくなって、手早く琴爪を外す。恵風の顔などまともに見られない。
「待たないか」
立ち上がって背を向けた潤花の腕を、恵風は掴んだ。潤む瞳を誤魔化すように潤花は俯く。
「今のは……忘れてちょうだい」
腕を掴む力が強くなり、震えが混じり始めた。
「……俺なのか?」
「え?」
振り返ると、恵風が息を吞んだような顔で立っていた。
「その、“鈍感で、頭は硬くて、愛想もない”野郎は、俺なんだろう」
鈍感なのに、どうしてこんな時だけ勘が冴えているのだろう。その癖、わざわざ確かめてくるなんて。潤花は、密かに浮上し始める邪な気持ちを振り払うように首を振った。
「……分かっているわ。万に一つもないなんて、分かっているもの。分かっているから」
「何故そうと決めつける」
真っ直ぐに見つめてくる瞳に、心の臓が震えたような気がした。
「……!やめて。期待させないで」
——諦めるつもりなのに。どうして……?
「行くな」
手を思い切り引かれ、潤花の頬が恵風の胸板に触れる。ゆっくりと抱き込まれ、放すまいとする意思が腕越しに伝わってくる。それでも力は潤花が逃げ出せる程度にとどめられている。
「わ、私は……」
こんなことになるなんて、想像すらしなかった。恵風が心の奥底で、本当は何を考えているのか見当もつかない。それでも。
——拒めない。拒みたくない
そんな恵風の優しさが、潤花は好きだった。
「本当に……俺でいいのなら、俺は潤花の隣に立ちたい」
潤花は恵風の胸の中で、静かに頷いた。




