◆十 ちとせまで
天幕の中には、湿った土と灯油の匂いが満ちていた。薄布越しに射し込む朝の光はまだ弱く、まるで一同の胸中に漂う不安をそのまま照らしているかのようだった。
潤花は恵風の隣に立ち、広げられた南港周辺の地図を見つめる華族や軍の将校をそっと見渡した。そこには弦英と華乃の姿もあった。
「帝国に潜らせた密偵から新たな報が入った」
陸軍の中将が声を落として言う。張りつめた空気がさらに強まった。
「帝国軍は本日夕方、午の刻頃、新型の大型兵器を投入する可能性が高い。名前はまだ判然としないが、かなりの衝撃波を発生させるとのことだ」
中将によれば、巨大な鉄の筒から発射される弾丸が爆ぜると、大気そのものを焼き潰し、急激な圧縮と膨張で生物を内部から破壊する兵器だという。
ざわ、と場が揺れ、潤花の心臓は僅かに跳ねる。
中将は重く頷き、指で地図を叩いた。
「そこで我が軍は全ての音霊術者部隊を後衛に配置する。密偵によれば、新型兵器は展開に僅かだが時間を要するそうだ。そこで兵器が起動する前に、こちらの音霊で極限まで兵を強化し敵軍全体を一気に鎮静化させる。それに賭けるしかない。」
天幕に静かなざわめきが走る。
「皆で音を合わせるのですか……?」
「そうだ。君たちが実証した、異なる楽器による音霊術の新たな力。あれを全ての楽器、全ての魔法で展開する。主としては防御魔法の強化を期待するが、兵の能力強化による鎮圧も目標の一つだ。これ以上時間を掛けるのは得策ではない」
恵風が息をのみ、潤花を一瞬見た。あれが今、国を救う鍵となるのかもしれない。
「音霊術者部隊の全体指揮は、東宮寺公爵。そして呪文の詠唱は、西城院公爵を任命する」
「はい」
恵風の父と潤花の父は同時に頷いた。
「それに伴い、潤花君には治癒魔法部隊を、恵風君には対人強化魔法部隊を任せる」
「謹んで拝命いたします」
二人は胸に手を当てた。肩に重責がのしかかるのを感じながらも、不思議と心は静かだった。
「これから三交代で訓練し、夕刻前に全術者は集合とする」
会議が終わると、天幕の外には乾いた風が吹き抜け、遠くで太鼓の音が響いていた。
◇
夕刻。
空は薄朱に染まり、雲の端が燃え移った金箔のように燦爛と輝いていた。海から吹く風は、これから始まる戦の気配を、否応なく四肢の先まで沁み渡らせていた。
前線ではすでに一般兵たちが陣形を整え、長銃を構えていた。新兵器の展開のためか、カルディア帝国軍の数は少なく見える。しかし音霊の効果が切れているためか、押されつつあった。
緊張で乾ききった喉を鳴らしつつも、一歩も退く様子はない。傾きゆく陽光に長い影を落としていた。
「全術者、前に出て隊列を組め!」
恵風の父の低く通る声が、戦場のざわめきを切り裂いた。
音霊術者たちが一斉に動き出す。潤花は治癒魔法部隊の先頭に立ち、仰々しく進む対人強化魔法部隊に続く。
音霊術者たちも、兵と同じく陣形を保っている。
まず最前列中央に恵風を含む太鼓・銅鑼の対人強化部隊が位置取る。そして二列目やや右寄りには潤花たち琴・筝・ヴァイオリンを始めとした治癒魔法部隊が続いている。
その左側は弦英たち三味線・琵琶・ギターなどの対物強化・修理部隊。
最後列は右側から華乃たちフルート・篠笛などの対物変形部隊、篳篥・尺八・トランペットなどの命中制御部隊、笙・オーボエ・ファゴットを中心とした防御魔法部隊と続いた。
その整然たる様は、巨大な一枚の絵巻物が広げられたかのようだった。
「呪文を唱える。復唱せよ!」
潤花の父が前へ進み、両手を胸の前で組む。その所作は指先の動きに至るまで無駄がない。彼の声が、低く、深く、空気を震わせた。
「——掛けまくも畏き音霊の大神よ。我らの真なる力を目覚めさせ、新たな高みへと導き給へ。かしこみかしこみ申す——」
潤花の父の合図に合わせ、術者全員が、声を揃える。
「——掛けまくも畏き音霊の大神よ。我らの真なる力を目覚めさせ、新たな高みへと導き給へ。かしこみかしこみ申す——」
その瞬間、前線の空気が一変した。
空気が厚みを増し、目には見えぬ何かが術者たちの胸を押し上げる。足の裏が微かに痺れ、地中へと流れ込む力さえ感じられた。
「始めよ!」
恵風の父が高く手を挙げ、風を裂くように下ろした。
太鼓が鳴り、銅鑼が揺れる。それに琴が、三味線が、フルートが、篳篥が、笙が一斉に続く。轟く音、澄む音、刺す音、揺らぐ音。それぞれが奔放に響くのではなく、見えない糸で結びつけられるように、ひとつの音の大河になって戦場を流れた。
音に乗せて音霊が現れはじめる。色とりどりの音霊は極彩色となり、風に乗って兵たちの背中に吸い込まれていった。
「うおおおおおおっ!」
兵たちが一斉に声を上げ、前へと進んだ。たちまち押し返されていた前線が持ちこたえ、さらには押し戻し始める。
その時だった。
海の向こうで、低く重い地響きがした。
「……来たか」
恵風の父が眉をひそめる。何か、巨大な影が夕刻の海を割るように姿を現した。
カルディア帝国軍の巨大軍艦だった。船体は黒鉄に包まれ、巨大な大砲が起き上がっている。術者たちの音は続いている。だが、兵たちの背で生まれた音霊の光は、あの軍艦の影の前ではどこか心許なかった。
巨大軍艦の横腹には巨大な砲門が開き、甲板には巨大な筒がゆっくりと展開され、兵士たちが武骨な器具を操作している。
「……あれが」
恵風は表情を強張らせたまま、前方を見据えていた。潤花も何も言えず、ただ手を動かすことしかできない。
心の揺れは音霊にも移り、誰もが不安を押し殺しきれなくなっていた、その時だった。
後方から笙の音が響く。海と空の境目を穿つように、どこか神域から響くような澄んだ音が真っ直ぐに伸びてきた。
「親王殿下!」
振り返ったであろう誰かが叫ぶ。その声が合図となり、術者たちは次々と後方を振り向いた。
そこには瑞奏親王がいた。
白と浅葱を基調とした和装束を纏い、夕刻の光を纏ったような気品を放ちながら、こちらへ歩いてくる。戦場にいることすら忘れさせるほどの威厳と神気をまとっていた。
彼の隣では婚約者の小春が笙を吹き、両袖を風に揺らしていた。小春と瑞奏の周囲には淡い防御障壁が展開されている。
戦場の空気が、完全に変わった。
「手を止めるな!」
驚きで硬直した術者たちに、恵風の父の鋭い叱声が飛ぶ。
瑞奏と小春は術者たちの最前、恵風たち身体強化魔法部隊よりも前へ進む。瑞奏の瞳には一点の揺らぎもなかった。
「——掛けまくも畏き八百万の神々よ。我が奏和の国に生きる者に恒久の繁栄と安寧をもたらし給へ。かしこみかしこみ申す!——」
瑞奏はそう唱え、ゆっくりと腕を広げた。指先が風をすくうように動き、衣が静かに波打つ。
その途端、すべての音霊が揺れはじめた。極彩色に輝いていた音霊が瑞奏の頭上へと吸い寄せられ、次第に金色へと色を変えていく。
カルディア帝国軍艦では敵兵が慌ただしく動き、巨大な筒の照準がゆっくりとこちらへ向けられる。
舞い続ける瑞奏の頭上で、無数の金色の音霊は大きく揺れ動き、新たな形へと変化した。
——鳳凰……!
金箔のような羽根は光を反射し、尾は揺らめく炎のように波打っている。
「……美しい……」
潤花は思わず呟いた。
その瞬間、敵軍艦の砲門が火を噴いた。大型の筒から黒い球体が、空気ごとねじ切る勢いで飛来する。
「彩鳳よ、丹霄に舞え!」
瑞奏の声が戦場に響く。金色の鳳凰は羽ばたき、黒い球体へ突っ込んだ。
空が裂けるような轟音だった。
どんな台風をも凌駕する烈風が押し寄せ、術者たちは膝をつきそうになる。瑞奏も大きく揺らぎつつ、腕を止めようとしない。そんな彼に小春は、必死に笙を吹いて障壁を保とうとしている。
「手を止めるな!!」
「術を切るな、音を絶やすな!」
恵風の父と潤花の父の叱咤激励で術者たちは再び力を込める。
黒球と鳳凰のぶつかり合いは太陽と深海が衝突したかのようで、金と黒の渦が空中で何度も爆ぜた。
やがて鳳凰が一際強く輝き、尾羽で黒球を弾き返した。黒球は進路を変えて勢いよく軍艦へと戻り、衝突した。
轟音と光の柱が上がり、軍艦は軋みながら崩れ落ちる。
瑞奏はその場に膝をつき、肩で息をしている。額には薄い汗が滲み、舞の最中に受けた反動が、全身へ重くのしかかっているのが一目で分かった。
小春が悲鳴に近い声を上げて駆け寄った。笙を抱えたまま、細い腕で瑞奏の身体を支える。
「殿下、しっかり……!」
「……まだ、終わっては……いませんよ……」
瑞奏は視界を上げ、海の火柱を見据えた
「今だ!陣形を崩さず進め!」
陸軍少将の怒号にも似た指令がこだまし、場の静寂を裂いた。前線の兵士たちが雄叫びを上げ、砂塵を蹴り上げながら一斉に前進する。
驚異的な爆風を前にひるんでいた兵らの顔には再び生気が戻り、眼光に炎のような光が宿っていた。後方から恵風を中心とした対人強化魔法部隊が太鼓を鳴らしながら前へ出る。
太鼓の低音が胸の底を震わせていた。鼓面を叩くたび、兵士たちの足取りは軽く、早く、そして強靭になっていく。恵風の横顔は、火柱の赤に照らされ、凛々しく影を帯びていた。
「——掛けまくも畏き音霊の大神よ。癒しの力となりて痛みを和らげ、命を潤し給へ。かしこみかしこみ申す——」
潤花は瑞奏の治癒を施しながら、視界の端で恵風を追っていた。




