◆九 たよりある
カルディア帝国軍が奏和国南港に上陸してから一週間。
戦況は一進一退が続いた。負傷者の数は減少しつつあるものの恵風の安否は不明のままだった。
そんなある日の晩。風の冷たさが骨に染みる夜だった。
潤花が重傷兵の治癒を続けていると、外から聞き覚えのある声がした。
「誰か!負傷者を頼む!」
野戦病院の入口へ視線を向けると、恵風がぐったりとした兵を背負い、ふらつきながら天幕へと駆け込んでくるところだった。額には血と汗が混じり、腕には深い傷を負っている。
「恵風……!」
潤花は思わず立ち上がった。だがその続きを言う前に、彼は兵を仰向けに寝かせながら叫んだ。
「重傷だ……っ、早く……!」
潤花の胸に、痛いほど熱が宿った。ようやく再会したというのに、彼は戦場の傷と疲労にまみれ、今にも倒れそうだった。
潤花は琴を強く抱えなおし、震える指で琴爪をはめた。
「手の空いている方は来てください……!」
潤花は病院内に声を掛け、術者を恵風と兵の元へ集める。
「——掛けまくも畏き音霊の大神よ。癒しの力となりて痛みを和らげ、命を潤し給へ。かしこみかしこみ申す——」
天幕の中に、再び極彩色の音霊が現れ、彼らの傷口を癒していく。
潤花は息を整えながら、琴柱の向きをそっと直す。その指先が震えていた。立て続けに術を行使したせいで、腕の奥がじんと痺れていた。
◇
「極彩色の音霊……ここでもそうなのか」
重傷の兵を担いで来た恵風は、治癒が終わるとようやく肩の力を抜き、荒い息を押し殺すように座り込んだ。
「ここでも……って?」
「前線でも、俺たちの対人強化系の他の楽器で合奏をしたんだが、これと同じように極彩色になった。弦英たちの対物強化班でも、似たようなことが起きたらしい。おかげで、武器の性能が大幅に向上している」
「だから、負傷者の数が減少していたのね」
潤花が呟いたときだった。
野戦病院の一角、担架の上でうつぶせに寝ていた兵士が、ぽつりと声を漏らした。
「もう、戦う意味なんて……あるのか」
かすれた声の弱りきった一言は、空気を伝って瞬く間に広がる。簡易ベッドに寝かされ、安静状態の兵たちは堰を切ったように口を開いた。
「そうだ……家族は避難したまま……どうせ戻れやしない」
「仲間もずいぶんやられた。俺たちだけで何ができる……」
「どこまで退けばいいんだ……」
呻き声、嘆き声、弱気な呼吸の連鎖。今まで治療の音にかき消されていた疲弊と絶望が、いっせいに流れ出している。
気づけば、野戦病院全体の空気は湿気を帯びた布のように重く、どんよりと淀んでいった。
「……士気が、下がっている。前線でも同じだ」
恵風が眉を寄せる。落とした声は、少しだけかすれていた。
——士気……ね
潤花はある瞬間を思い出した。音霊術を、恵風と二人で合わせた時。心がすうっと澄んでいき、不思議と前に踏み出す力が湧いたあの感覚があった。
「……恵風。あの時の精神の高揚……もう一度やってみない?」
「……!そうか」
恵風は立ち上がり、外へ置かれた太鼓と台を抱えて戻って来た。腰がまだ痛むのか、わずかに顔を歪めたが、それでも黙々と太鼓を設置した。
「試してみるか。ここでも」
潤花は頷き、琴を前に座した。恵風は太鼓の位置を確かめ、潤花の方を見て、わずかに顎を引く。
「——掛けまくも畏き音霊の大神よ。躍動の力となりて強さを引き出し、命を奮わせ給え。かしこみかしこみ申す——」
「——掛けまくも畏き音霊の大神よ。癒しの力となりて痛みを和らげ、命を潤し給へ。かしこみかしこみ申す——」
太鼓の拍子に合わせ、琴の弦をふるわせる。澄んだ旋律と大地の底から響くような重い二つの音が重なった。再び、紅色と青藍色の音霊が現れ、野戦病院を満たしていく。
「……?なんだ?」
「胸の奥のつかえが取れていくような……」
「まだ……俺たちは戦えるんじゃないか……!なあ?」
倒れていた兵士の何人かが、ゆっくりと上体を起こす。ある者は立ち上がり、ある者は仲間の肩を支え、またある者は呆然と涙を流しながらも再び光を宿した目で、野戦病院の外を見る。
「俺は前線へ戻る。まだ……終わっていないんだ。皆も行こう!」
その声に呼応するように、数人の兵士が野戦病院を出ていった。
「あっ、皆さん、ご武運を!」
「潤花さん。そろそろ休憩を取ってくださいませ」
音を止め、前線へと向かう兵たちを見送ると、前島紅葉が潤花の肩にそっと手を置いた。
「もう何日も……ほとんど寝ていらっしゃらないでしょう。治癒魔法に浸されているとはいえ、休みませんと。顔色、あまりよろしくありませんよ」
「……あ、紅葉さ、ん……」
紅葉に指摘され、初めてその実感が伴った。途端に視界が揺れ、立っているのに足元がふわふわと頼りない。琴爪を付けた指が、がくんと緩む。
「潤花!」
恵風の叫びが遠く聞こえた。
次の瞬間、潤花の膝は力をなくし、床に落ちるように崩れた。
◇
野戦病院の裏手は冷えた風が鉄の匂いを運び、遠くから軍馬が鼻を鳴らす音がした。湿った土の匂いと夜明け前の冷気が、潤花の頬にしっとり絡みついている。
「大丈夫か」
「……ええ。緊張が解けただけよ」
視界が揺れたのは、ほんの一瞬のことだった。先ほどまで潤花の視界を攫っていた眩暈は、もう跡形もなく消えている。
紅葉の言葉に甘え、二人は夜風に当たろうと野戦病院の裏手に出た。椅子代わりの岩の上で並んで座ると張り詰めた空気は遠ざかり、ただ二人きりになった静けさだけが鮮明だった。
「顔が見られて良かった」
その声を聞いた瞬間、胸の奥でほどけた何かが、温かい奔流となって目の奥に込み上げた。恵風は灯りの届かぬ闇の中で、潤花の頬を指先でなぞった。
「本当に生きて、いたのね。……良かった」
潤花の声は、闇に溶けそうなほど細かった。
恵風は潤花の肩に触れた指先を震わせ、確かめるようにそっと押し寄せる。指の力に、無理やり抑え込んできた恐怖が滲んでいた。潤花は笑おうとしたが、喉の奥がつまる。
「……もう、二度と会えないかと思ったの。あんな戦況で……」
考えないようにしていた。野戦病院には、兵や術者はどれだけ重傷でも運び込まれる。だが、明らかな即死状態の場合は別だ。余裕があれば名札が回収されるが、この戦況ではそれも叶わない。
「潤花を残して逝くなど、死んでも死に切れん」
二人はどちらからともなく近づき、恵風の手が肩から首筋へ移り、潤花をそっと抱き寄せる。その瞬間、彼の胸板に耳が触れた。外套越しでも分かる彼の鼓動は規則正しいはずなのに、跳ねるように速い。
——生きている
その事実が、胸骨の奥に熱を灯す。潤花もまた、彼の外套を掴む指に力を込める。
「本当にっ……良かった……!」
目の奥まで込み上げていた涙が溢れ、恵風の外套を濡らした。
黙々と兵の治療に当たっていた一週間、本当はずっと恐怖で生きた心地がしなかった。恵風たち対人強化魔法の術者は兵の後方に付き、命の危険と隣合わせだ。
生きている。そして、自分に触れている。その事実だけで、視界がにじむ。潤花の背に回った恵風の手が、強く、しかし震えながら押し寄せる。
どちらが先とは分からない。引き寄せられるように顔が近づき、唇が触れ合った。
一度離れても、間を置かずに失くした時間を埋めるよう深く触れ合った。そのたびに微かな音が夜に溶ける。潤花の中の何かが決壊したかのように息が甘く漏れ、恵風の喉が低く鳴った。
——これが最後かもしれない
生きていてくれてよかったという安堵。そして、また失うかもしれないという絶望に似た恐怖。それらが渦を巻き、涙が勝手に溢れる。
「……っ、恵風……」
恵風もまた堪えていた想いが溢れたのか、息を荒くしながら潤花を抱きしめて離さない。唇を何度も重ね、触れ、互いの鼓動が重なり合った。
やがて長い口づけが静かにほどける。離れても、腕だけは互いの身体を包むように残された。
「生かされたんだ。俺は潤花に、また会うことだけを考えていた」
恵風の声は低く、震えていた。そして潤花の髪を梳くように触れながら、かすかに笑う。
「音霊術の組み合わせによる戦力の底上げ……俺たちは出来ることは全てやった。ここまでやって、あの堅物親父が認めなければ……いっそ駆け落ちでもするか」
「……できるかしら、そんなこと」
潤花は目を細め、恵風の胸に額を預けた。
「ああ。潤花となら、どこへでも行ける」
「どうにもならなくなったら……心中しましょうか」
華族らしからぬ言葉遊びに、ふと、夢の狭間のような声で潤花が呟く。
「共に地獄に堕ちてくれるのか」
「もちろんよ……どこへでも行くわ……」
言葉の途中で潤花の瞼はゆっくり閉じ、恵風の胸の温もりに包まれたまま眠りへ落ちていった。恵風は潤花に外套を掛け、淡く白む空を眺めた。
夜は終わりに近い。戦場の朝は、もうすぐやって来る。
◇
「……起きろ、二人とも」
低く、しかしよく通る声が闇を破った。潤花は一つ瞬きをして起き上がる。横には同じく起き抜けの恵風がいる。二人はしっかり寄り添ったまま眠っていたらしい。
そして目の前には潤花の父、そして恵風の父がいた。
寝ぼけていた頭は途端に覚醒し、場の空気が一瞬で凍りついた。
「あ、あの、これは……!えっと……」
「決して、やましいことは……!断じて!」
潤花が真っ赤になった顔を手で覆い、恵風も慌てて潤花から離れ、両手を挙げる。
二人の父親は、しばらく黙って二人を見下ろしていたが、やがてどちらともなく、深いため息をついた。
「……これから大規模作戦に入る」
「お前たちも会議に来い」
潤花と恵風は顔を見合わせ、同時に背筋を伸ばした。




