26.「クリアリーフの森⑥」
静寂。
まるで何事も無かったかのように、森に凪が戻っている。
魔獣が暴れた痕跡だけは生々しく残っているが、誰かが偶然通りすがる頃には、また草木が覆い隠している事だろう。
「ふわ~疲れた~」
ルナナがヘニャッと尻もちをつき、へたりこんだ。
スグルも杖を構えたまま、ガクリとその場に膝をつく。
「……っ」
サクラも力が抜け、その場にしゃがみこんだ。
「はあ……」
鼓動はまだバクバクと早く、涙が目尻に残っているし、鼻水だって今にも出そうだ。もう出てるかもしれない。
三人は肩で荒く息をつきながら、何もない木々の間を見つめ、しばらく誰も言葉を発せなかった。
「……ふひひ」
その静寂を破り、サクラは堪えきれず笑い出した。
緊張から解き放たれた安堵が、何故かおかしくてたまらない。
みんな全身土と草まみれだ。またそれが謎に面白い。
最初は漏れだしたような声だったが、次第に「あはは」という笑いに変わる。
「……なんだお前、イカれたのか」
肩越しにサクラの方を向いて呆れたように言うスグルも、口角があがっている。
「怖すぎたの! もう! ダメかと思った!」
笑いながらサクラは噛みしめるように言う。
「二人とも、すごいよ……あっ」
そして、ふと思い立ってスグルの頭に手を伸ばした。
さっきまでその頭に咲いていた小さな花は、むしり取る余裕もなかったのに、もうどこにもなかった。
それを確認するかのように、深い色の黒髪を梳くように撫でつける。
「……っ!?」
突然の仕草に、スグルは驚き、びくりと肩を震わせて固まった。
振り払うこともできたはずだが、なぜか動けない。
小さくて華奢な手に髪を整えられ、背筋に緊張が走る。
そんなスグルの微妙な表情は見ないまま、好きなだけ髪を撫で、うん、とサクラは頷いた。
「やっぱり根っことかはない、よかったぁ」
「……!?」
サクラの安堵の声に、スグルは言葉を失ったまま赤面する。
「ほら、何度も花が咲いちゃうのって、根っこでも生やしちゃったのかなって」
「……んな訳あるか」
それ以外返しようがなかったらしく、スグルはそっぽを向いた。
その様子を正面から興味深そうに見ていたルナナが、両足を投げ出して、独り言のように口を開く。
「召喚って、やっぱり~上手く行かないな〜」
呑気な調子で言いながらも、その声音には自棄の影が差している。
スグルはサクラから顔を背けるように、座ったまま向きを変えてルナナに向き合う。
「そもそもお前はなんで、あんなもん呼んだんだ……というか、まず俺をどうやって召喚した」
「ん~?」
「何を媒介にしたんだ」
スグルの声色には、怒りよりも魔法使いとしての興味が滲んでいた。
人身召喚は、本来なら本人に関する媒介が必要だ。
たとえば「赤子」「女」といった大雑把な分類なら、強力な術者が呼び出せる事例もある。ルナナが赤子の時にそうされたように。
だが、個人を特定して呼ぶ術式は相当な難易度であり、安全で正式な方法はなく、まだ研究途中のはずだった。
物質召喚の応用なので、黒魔法の適性は必須ではない分、明確で正しい媒介を使用しないと、失敗してしまう。
失敗とは、すなわち人命に関わるという事である。
ルナナは、杖をくるくる回しながら、あっけらかんと笑った。
「ん~、匂いだよ~」
「……匂い?」
怪訝そうに眉を寄せるスグル。
「わたしね、人の匂いを覚えて、具現化する呪文を作って組み込んで描けるの~」
「匂いを、具現化……」
「例えばさぁ~ラーナ先生って特殊な匂いがするよねぇ。防御魔法のお部屋の匂い」
その話を聞いて、サクラも先日呼び出された防御魔法職員室を思い出す。
確かに、その部屋は魔法道具に囲まれた無機質な匂いがしていた。
しかし、それが何のどんな匂いかと言われると、難しい。
言語にする事や、まして媒介に出来るほど具現化させる事など、出来る訳がない。
彼女は、それが出来ると言うのだった。
ルナナの言葉の意味を噛み砕くのに数秒を要したが、納得したのか、大きなため息がスグルの口から出る。
「……バカみたいな話だな……たまに発現する固有能力ってやつか」
「しつれ〜。努力の成果って言って欲し〜」
魔法の才は、生まれながらにほぼ決まっている。
スグルのように黒魔法の適性を持つ者は、生来の才能としてその力を授かっている。
それは血筋や魔力の質によって決まるもので、努力ではどうにもならない領域だ。
だがごく稀に、適性を持たぬ者の中にも、異なる形で才能が目覚めることがある。
それを人々は固有能力と呼んだ。
魔法体系の中でも特殊な、個人特有の力であり、発現の条件も原理も解明されていない。
ルナナ=ミスティは、まさにその能力を召喚魔法で発現しているのだろう。
黒魔法の適性を持たずして、また、匂いを媒介に変えて強力な召喚陣を描ける——それは、理論では説明できない能力だった。
ルナナは指を頬に当てて、思い出すように言う。
「キミからは~ルームハーブのシトラスの香りと、髪を洗うときに使ってるパナユのスパイスの香りがする」
スグルの表情がぎくりと一瞬固まる。
確かに、シトラスのルームハーブや、パナユのスパイスのシャンプーを使っていた。
しかし、それが重なる人間は、世界でスグル一人ではないはずだ。
「あと~感情の匂いもわかる」
「は?」
ルナナは、這ってスグルに近づいて、耳元に唇を寄せた。
そして、サクラに聞こえない声で囁く。
「キミからは~……強い決意の匂いと、——ほんのり恋の匂いがした」
「なっ……?!」
スグルは飛び退いて、唖然とルナナを見た。
頬が熱いのは、夕日のせいだけではなさそうだ。
「その匂いの記憶を呪文にしたの〜。人身召喚は普通、髪とか血とかが要るけどねぇ、匂いで出来るのは、私のオリジナル~」
ルナナはニヘッと笑って、ブカブカの袖を口元に当てた。
「でも、試したのはキミで二回目~。一回目はラーナ先生に試してめーっちゃ怒られたからさぁ」
「そりゃそうだろうな」
よくその時点で退学にならなかったものだ。
これを野放しにできないとでも思われたのだろうか。
「匂いさえわかればいいんだもん、便利でしょ? でも先生に言ったら、怒られるから言わないでね~」
スグルは深くため息をついて、額に手を当てた。
「……規格外にも程がある」
「——いつか、匂いのわからない人も、呼んでみたかったんだけど~」
「なんだそりゃ」
サクラは、そんな天才二人の会話をぼんやり聞いていた。
世の中には、すごい人がたくさんいるのだなあと、凡人らしい感想を抱く。




