16.「便り猫⑤」
まるで何事もなかったような空気の中で、スグルは汗だくで息を荒げながら、頭の花をむしり取った。
指の間で花びらが溶け、光の粒になって消える。
「……なんでだ」
「さ、さあ?」
顔を見合わせ、沈黙。
サクラは、掴んでいた彼の腕を慌てて離した。
魔力に弾かれた部分がじわりと痛いが、傷はついていないようだった。
スグルはゆっくりと立ち上がり、手を払ってから、ローブと制服の裾を払う。
それから、サクラの額の前に人差し指を突き出した。
ぱちん。
「——っ!」
額を指で弾かれる軽い音がした。
サクラの体がびくりと揺れる。
「いった! なにするの!?」
「言っただろ、逃げろって」
声は小さく低い。怒っているのに、どこか震えていた。
サクラは唇を尖らせながら、デコピンされた額を押さえる。
「だ、だって放っておけないし」
「バカか。お前まで巻き込まれてたらどうすんだ」
スグルは視線を逸らし、ため息をひとつ。
「わかっただろ、俺といるのは危険だって」
「うん、わかった」
「…………」
ある種の確信を持って、サクラは頷いて見せた。
「一人より、二人ならなんとかなる事もあるって、わかった」
その言葉に、スグルの瞳が一瞬揺れる。
「話、聞いてたか」
呆れたように言いながらも、その指先がかすかに震えたのを、サクラは見逃していた。
少しの沈黙のあと、スグルは視線を逸らして小さく言う。
「……次は逃げろよ」
唇を結んで返事をしないサクラに、「お前な……」と言いかけて、言葉を飲み込む。
その時。
「にゃあ」
小さな鳴き声と共に、猫を抱いた男子生徒が木陰から出てきた。
「便り猫!」
ティアに聞いていた特徴と一致する猫だった。
猫を抱いているのは、淡い栗色の髪に長身。ミニグラスをかけている男子生徒。
襟の色と制服から、ルーンクラスの一年生だと分かる。
「このあたりで、すごい音がした気がしたんだけど」
猫を抱えたまま、彼は首をかしげた。
サクラとスグルが固まったまま視線を交わす。
「……君は……ウィストくん、だよね?」
名を呼ばれ、スグルは気まずそうに頷いた。
「暴走でもした?——にしては元気そうだね。何かあった?」
何と言えば良いかわからず、二人は顔を見合わせるが、素直に話をしたところで信じてもらえないだろうと、スグルの目が語っていた。
「サ、サァ? 私たち、今ここに来たばかりでシテ!」
サクラが棒読みで誤魔化すのを、スグルはジト目で見つめる。
「それより、その便り猫! どうしたんですか?!」
抱かれた便り猫は、サクラの大声など素知らぬ顔で、彼の腕から降り立つ。
「あぁ、数日前に僕に手紙を持ってきてくれたんだけど、どこかで足を怪我をしたみたいで」
便り猫は、振り返って「にゃあ」と一声鳴くと、包帯を巻いた足で地面を蹴り、駆け消えて行った。
「動けるようになるまで匿って手当てしてたんだけど、情が移りそうで困ったよ」
便り猫が消えた先を、彼は名残惜しそうに見つめる。
「……お前、監督生か」
「え、うん、そうだよ」
「もしかして、ネモ=ブリジットくん?」
「いかにも。……あれ、よく知ってるね」
スグルはともかく、サクラにも知られていた事に驚いたように、ネモは首を傾げた。
「えっ……とぉ、メリア……そう! メリアに聞いてたの!」
「マルグリーさんの友達かぁ」
柔和な笑顔を浮かべたネモは、スグルに声を掛けた。
「さて、早く帰らないと、怒られる時間だね」
門限も近い。
便り猫はきっと、もうティアのもとへ戻っている。
目の前のネモは平然としているけれど——
彼が受け取った手紙には、どんな想いが綴られていたのだろう。どんな返事をするのだろう。サクラには知る由もないが。
(恋かぁ。他人事ながらなんだかドキドキするなあ)
サクラはそんなことを思いながら、ゆっくりと息をついた。
黒い魔力の痕跡も、もうどこにも残っていなかった。




